自由貿易を封殺するな 2016年2つのビッグサプライズ
神津多可思(リコー経済社会研究所所長)
「神津多可思の金融経済を読む」
2016年は、政治・経済の動きについてコメントをする多くの者にとって、かつてない恥ずかしさを覚える年になった。Brexitでは外したが、米国大統領選挙についてはさすがに当たるだろうと思っていた私も、11月9日は暗澹たる気持ちになりつつ日中を過ごすはめになった。
いったい何故、大方の予想(それも直前)と実際の結果とがこうも違ってしまったのだろうか。今回の米国大統領選挙で、いかに国民に不満が溜まっていたが改めて明らかになったという後講釈はたくさん聞こえてくる。
先の国際金融危機を生んだ経済運営の手法は、きちんと是正されたか。技術的な議論はたくさんあるが、一般市民の眼から見れば、もう大丈夫という雰囲気ではない。また、ある意味、金科玉条とされてきた市場化、グローバル化の流れの中で、その恩恵を受けることができたのは結果的にごく一部であり、中間層に位置する人々は少しも豊かにならなかった。
そういう状況の中で、矛盾をはらんだ現実を作り出すことに与して来た側の候補が否定され、それに挑んだ側の候補に軍配が上がった。候補の人柄や能力が評価されたわけではない。それが今回の米大統領選挙だったのだと思う。
世界の歴史を振り返っても、市場メカニズムをより徹底し、自由貿易による恩恵を全体として享受しようとする動きに反動が起きたことがある。19世紀後半から、英国の海上覇権、金本位制度の確立といった環境の下で、世界の貿易・投資は目覚ましく活発化した。しかし、当時でも十分に制御できなかった市場メカニズムは1929年の世界大恐慌に行き着き、その後は自由化・グローバル化に対する大きな反動が起こった。悲惨な2度の世界大戦も起きた。21世紀に同じことを繰り返してはならない。歴史に学ぶとすれば、現在、先進国の随所でみることができる市場メカニズム・自由貿易への反動の萌芽に対し、思慮深い対応が必要ということになる。
Brexitの国民投票においても、今回の米国大統領選挙においても、多くの市民が持っていた心情に対し、アカデミズムもエコノミストもアナリストもマスコミも、みな鈍感で、自分たちの「村の論理」を振り回していたと言われても仕方がない。その鈍感さが、長い目でみれば皆にメリットをもたらし得る「市場メカニズム・自由貿易をさらに使っていこう」という動きを封殺してしまわないか。いま懸念すべきはそこである。
良薬であっても苦いと患者が飲まないので病を治癒できないというような話だ。苦いまま飲ませるのであれば、本当にそれを飲む必要性があることを患者によくよく分からせないといけない。あるいは、糖衣に包むことも必要だ。ここ数年、“inclusive”(より多くの人々を受け入れる、排他的ではない)という概念がよく出てくるが、これは言ってみればその糖衣にあたる。
全体の合計値で良くなっていれば良い、あるいは一人平均で良くなっていれば良いというのではなく、一番利益の少ない人、あるいは少数の不利益を被る人にまで目を向けてきめ細かくみていく。そういう意味での包含である。2016年の2つのビッグ・サプライズは、そうした丁寧さ、懐の深さがないと「角を矯めて牛を殺す」ことにもなりかねないという教訓を残した。
もう1つ、多数派の意見、あるいは民意とは何かの把握が非常に難しいということにも改めて気づかされた。今回の大統領選挙でも、得票数ではクリントン氏のほうが多いようだ。しかし、決められた間接民主主義のメカニズムに則るとトランプ氏が当選ということになる。
Berxitにしても、国民投票では賛成多数だった。しかし、英国が脱退の申し出をEUに対し行うにあたっては議会に諮らなくてはいけないという裁判所の判断が示された。議会で票決した場合、必ずしもBrexit賛成が多数になるかどうかはっきりしないとも言われている。ここにも直接投票と間接民主主義のねじれの可能性がある。
そもそも、これまでは技術的に直接民主主義が難しかったので間接民主主義以外になかったという面もあったであろう。しかし、最近の情報通信技術の発達によりその制約はかなり減っている。他方、「長い目でみて大多数の幸福に繋がる全体としての選択を直接民主主義ができるとは限らない」という考え方もあるだろう。こうした状況変化の下で、inclusiveな政策をやるとして、一体どの層の本音を探り、どの層に焦点を当てればいいのか。2016年の2つのビッグ・サプライズが提起した問題はあまりにも深遠である。
あわせて読みたい
この記事を書いた人
神津多可思日本証券アナリスト協会認定アナリスト
東京大学経済学部卒業。埼玉大学大学院博士課程後期修了、博士(経済学)。日本証券アナリスト協会認定アナリスト
1980年、日本銀行入行。営業局市場課長、調査統計局経済調査課長、考査局考査課長、金融融機構局審議役(国際関係)、バーゼル銀行監督委員会メンバー等を経て、2020年、リコー経済社会研究所主席研究員、2016年、(株)リコー執行役員、リコー経済社会研究所所長、2020年、同フェロー、リスクマネジメント・内部統制・法務担当、リコー経済社会研究所所長、2021年、公益社団法人日本証券アナリスト協会専務理事、現在に至る。
関西大学ソシオネットワーク戦略研究機構非常勤研究員、オーストラリア国立大学豪日研究センター研究員。ソシオフューチャー株式会社社外取締役、トランス・パシフィック・グループ株式会社顧問。主な著書、「『デフレ論』の誤謬」(2018年)、「日本経済 成長志向の誤謬」(2022年)、いずれも日本経済新聞出版社。