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.国際  投稿日:2017/8/27

日米繊維交渉“善処します”誤訳伝説 その3


檜誠司(ジャーナリスト、英日翻訳・研究家)

【まとめ】

・佐藤首相は「最善をつくす」と発言し「善処します」とは言っていないことから、誤訳伝説揺らぐ。

・「最善をつくす」は、米公文書では「大統領が望む合意の達成に向けて全力を尽くすdevote his full effortsことを“誓う(vow)」と訳された。

・ニクソンは、繊維交渉の「年内合意」の明確な「約束」を得られたと解釈しただろうが、日本政府は約束不履行で米側から強い抗議を受けた。

 

そこで佐藤がどう返事したのかが重要であるが、日本側の公文書では次のように記されている。すなわち「自分はその場限りの男ではない。誠意をつくすというのが自分の信条である。この問題には幾多の困難があり、米側だけでなく、日本側においても業界は強い利害関係をもつている。しかし、本日述べた趣旨で自分が最善をつくすことを信頼してほしいと答えた」としている。

すでに述べたように、「善処します」の発言が“ I will do my best.” などと通訳されたとの説がある。繊維交渉の研究で優れた業績を残しているI. M.デスラー、福井治弘、佐藤英夫でさえ共著の中で、通訳に誤りがあったという人もいたと指摘している。だが、佐藤総理は実際には「最善をつくす」と言ったのである。つまり、「善処します」とは発言してないのだから、「善処します」誤訳伝説は大きく揺らぐ。

では、「最善をつくす」は英語でどう伝えられたのであろうか。米側の公文書によれば、「総理は大統領の発言に十分、留意するとともに、自身が現在およびこの場所に限定されたコミットメントを結んではいないと説明し、その上で、この問題の解決を達成するため誠意とすべての努力を尽くした。約束したこと(原文はwhat he promised)を実行するのが“自分の信条(同credo)”だ。この問題の解決は困難を伴うだろう。とりわけ、日本国内の繊維業界はそうで、米国の繊維業界に比べ扱うのがより容易ではない。しかし総理は言った。大統領が望む合意の達成に向けて全力を尽くす(同devote his full effortsことを“誓う(同vow)ことができる”と。“信頼してほしい(同Please trust me)”」となっている。

ここでも、 promise の言葉が使われている。また、「最善を尽くす」は devote his full efforts と訳出されているが、これは、誤訳ではない。「大統領が望む合意」とは「包括的」合意のことだろう。 promise、pledge 同様に「約束」の意味合いを持つ vow の単語も使われており、「大統領が望む合意の達成に向けて全力を尽くす(原文はdevote his full effortsことを“誓う(同vow)ことができる”」と総理が言ったとなると、元の日本語の発言よりは「包括的」合意の実現に向けた意思の強さが強く出ていると言える。

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▲写真 佐藤首相とニクソン大統領 1972年5月1日 米・サン・クレメンテにて

興味深いのは訳語の “Please trust me.” である。民主党政権下の2009年に鳩山由紀夫総理がオバマ大統領との日米首脳会談で、沖縄・普天間基地問題の打開を目指し「トラスト・ミー」と発言したが、最終的にオバマ大統領の信頼を獲得できず、日米関係迷走の原因になったとも言われる。歴史のいたずらというべきか、鳩山・オバマ会談のちょうど40年前、戦後日米関係の大きな節目となった佐藤・ニクソン会談でも、同じ表現が奇しくも使われていたのである。

“Please trust me.” と「トラスト・ミー」の巡り合わせについては、元駐タイ大使の岡崎久彦が2010年に佐藤・ニクソン会談を振り返り、「当時私が内部で聞いた話では、陪席者が、ここまで言って大丈夫かと思ったほど(中略)鳩山由紀夫首相の『トラスト・ミー』と同じような強い表現だったと言う」と証言している。陪席者とは赤谷だったのであろう。

無視できないのは日本側の公文書では、「信頼してほしい」の後からページの半分くらいが黒く塗りつぶされている。機密解除されたものの、当局には不都合な文言の表記があったかもしれない。だが、米国側の公文書にはその部分に該当すると思われる記述が残っている。

すなわち、「大統領は自分にとってそれで“十分”だと言った。大統領がこのことを確認するため総理と握手した際、総理は言った。“相互信頼(原文はmutual trust)”が重要だと」と記録されており、両首脳は正に商談成立を祝うかのように握手をしていたのである。さらに佐藤はニクソンの手を握りながら「相互信頼が重要だ」とまで言い切った。

佐藤の発言から「約束する promise」「誓約する pledge」「vow 誓う」の言葉を認識したニクソンにしてみれば、“Please trust me.” “mutual trust ”などと畳みかけられるように言われた結果、繊維交渉の「年内合意」の明確な「約束」を得られたと解釈してもおかしくなかったはずだ。何しろ、首脳会談前に「包括的」「年内」のキーワードを使うシナリオが出来ていたのである。

この会談からほぼ10年後、キッシンジャーは「佐藤は、繊維問題を大統領に希望通りに解決することを、はっきり約束した。佐藤は、全責任を負うこと、約束を守ることは自分の『信条』であり、『誓約』とみてもらってよいこと、この目的のために誠意をもって、全力を尽くすつもりであることを明言した」と述懐している。この発言について、若泉は「おそらくこれは、ニクソン大統領自身の認識でもあったのではないかと思われる」と指摘している。

繊維交渉は「年内」の1969年末どころか70年、71年に持ち越した。70年の10月24日にワシントンで2度目の佐藤・ニクソン会談でも繊維問題が取り上げられたが、米側の公文書からは、佐藤が謝罪の意を表す場面が確認できる。すなわち「完全な解決の段階にはまだ到達していないが、彼(筆者注:佐藤総理)は再開された交渉を実りある妥結へと持っていくとの自身の決意を再確認した。昨年、彼は大統領に対し繊維問題の解決に向けて何らかの措置を講じることを約束した(原文はpromised)が、謝罪しなければならないと感じた。期待されたことを実行しないで大統領を当惑させたことについて」と、記されている。

「約束」不履行を認めた佐藤の謝罪姿勢を受けて、ニクソンが輸出規制の約束履行の要求を取り下げたわけではない。繊維交渉に参加していたスタンズ商務長官は1971年2月、米側の不満の高まりをついて、「繊維をめぐる日本側との長時間のワルツが事実上、終わったのは本当に明白だ」と対日批判を行った。

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▲写真 モーリス・スタンズ米商務長官

日本の繊維産業連盟は71年3月、一方的な自主規制を発表したが、ニクソンは包括規制の条件を満たすものではないとして強く非難した。この結果、日米間に51年のサンフランシスコ平和条約締結以来、経験したことのないほど厳しい緊張が生まれることになったとも言われる。 

マイヤー駐日大使は総理官邸に佐藤を訪ねてニクソンの親書を手渡した。ニクソンは親書の中で「失望と懸念を隠すことができない。(中略)日本の繊維業界が取ったアプローチに対し、米国の繊維業界のすべてのメンバーや議会を含む支援者は激しく、かつ一斉に批判を加えている」などと語った(楠田實著『楠田實日記:佐藤栄作総理首席秘書官の二〇〇〇日』に添付されている英文親書を筆者が翻訳)。

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▲写真 ケネディ大統領と話すアーミン・マイヤー氏(当時駐レバノン大使。1969年から1972年にかけて駐日大使。)ホワイトハウスにて 1961年12月13日撮影 出典:JOHN F. KENNEDY PRESIDENTIAL LIBRARY AND MUSEUM HP

(その4に続く。全4回。その1その2も合わせてお読みください。毎週土曜日掲載予定)

※この記事には複数の写真が含まれています。すべて見るにはhttp://japan-indepth.jp/?p=35775の記事をご覧ください

トップ画像:佐藤栄作首相とリチャード・ニクソン米大統領(1969年11月米ホワイトハウスにて)出典/Richard Nixon Foundation HP

※本稿は、日本メディア英語学会東日本地区研究例会(2016年6月11日)の研究発表、同年末に日本通訳翻訳学会の学会誌「通訳翻訳研究への招待」に寄稿した論文を基に執筆した。日本メディア学会と日本通訳翻訳学会には感謝申し上げる。今回の執筆の際、論文を編集し大幅に加筆するとともに、論文中のすべての引用英文を翻訳した。


この記事を書いた人
檜誠司ジャーナリスト、英日翻訳・研究家

早稲田大学大学院アジア太平洋研究科修了、修士(国際関係学)。時事通信社、米ブルームバーグ通信東京支局で日本語の記者・エディター、英語ニュースの翻訳者・エディターを担当。1992年-96年、時事通信社のニューヨーク特派員。ニュース英語・外交交渉の翻訳・通訳の実態を研究。立教大学などでニュース翻訳をテーマに講演。2017年2月にアルクより、共著で日本経済新聞社監修の「2カ月完成! 英語で学べる経済ニュース」を出版。

檜誠司

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