「情報敗戦」を見直そう 昭和の戦争・平成の戦争 その3
林信吾(作家・ジャーナリスト)
林信吾の「西方見聞録」
【まとめ】
・アジア太平洋戦争で、日本は物量の差ではなく、情報戦で完敗した。
・「作戦重視・情報軽視」の傾向は戦後の日本でも見られる。
・本来の「戦争を語り継ぐ意義」は反省を重ねていくことである。
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前にも述べた通り、アジア太平洋戦争については、「物量の差で負けた」とだけ考える人が、今でも多い。不幸なことである。これはもちろん嘘ではないが、そもそも当時の日米は、GDPの差が20倍以上もあった。こんな相手に戦争を仕掛けようという判断が、どうしてなされたのか。今となっては信じられないような話であるが、正解は、戦前は日米の国力差について、「よく分かっていなかった」というのが理由のひとつだったのだ。
つまり現在の我々だから、たとえば北朝鮮のGDPは鳥取県と同じ程度、と聞けば、それで核開発だミサイル実験だということを繰り返していたならば、国民が貧苦にあえぐのも当然だ、と感覚的に理解できる。しかし、戦前は鉄鋼生産高とか、意外と大雑把なデータでしか国力差というものをイメージできなかった。
この結果、「パナマ運河を通れないような巨大戦艦を揃えれば、アメリカも日本に戦争など仕掛けられまい」などという戦略を立てるに至ったのである。現実の戦争では、開戦劈頭、ハワイを空襲して、戦艦に対する航空戦力の優位を実証したのだが。
▲写真 真珠湾攻撃で破壊されたフォード島の格納庫とアメリカ軍機 出典:flickr USMC Archives
そのハワイ空襲=真珠湾攻撃に際して、米軍が日本側の暗号電報を解読していたことが戦後明らかとなり、ここから、ルーズヴェルト大統領は参戦反対(ヨーロッパではすでに戦争が始まっていた)の国内世論を転換させるために、「攻撃計画を知っていて、わざとやらせた」などという、一種の陰謀論が出現することとなった。
残念ながら(?)この時点で破られていたのは外交暗号のみで、そこには真珠湾攻撃を示唆する文言すら出てこない。海軍が何を考えているのか、外務官僚はまったく知らない、という状況であったために、宣戦布告文書を米国側に手渡すのが、真珠湾攻撃の後になるという不手際が生じ、この「だまし討ち」に米国民が激怒し、「リメンバー・パールハーバー」の大合唱となって、結果的にはルーズヴェルト大統領の思惑通りに事が運んだというのが事実である。
▲写真 ルーズヴェルト大統領 1993年12月27日 出典:Elias Goldensky
いずれにせよ、真珠湾攻撃を皮切りに、開戦当初の日本軍は連戦連勝であったのだが、その裏では、開戦前から情報戦で後れをとっていたというわけだ。
その日本軍に対して、米軍が一打逆転に成功したのが、1946年6月のミッドウェー海戦である。この時も、日本軍はまず情報戦で完敗した。
▲写真 ミッドウェー海戦 出典:NAVY LIFE the official blog of the U.S. navy
この時点ではすでに、軍事電報の暗号も破られていたのだが、いわば二重暗号になっていて、電文自体を解読しても、肝心の攻撃予定地点が「AF」としか記されていないため、特定できなかった。そこで、米軍は一計を案じ、ミッドウェー島の守備隊が使っている海水蒸留装置が故障、という電報を、わざと暗号化しない平(ひら)文(ぶん)で打電したのである。数時間後、「AFは飲料水不足の模様」という日本軍の暗号電文が傍受され、解読された。攻撃予定地点が分かれば、待ち伏せも容易である。この結果、日本軍は虎の子の正規空母4隻を沈められる惨敗を喫し、以降、戦局はついに好転することがなかった。
連合艦隊司令長官・山本五十六大将の戦死も、情報が関係している。
▲写真 長門戦艦に乗る連合艦隊司令長官・山本五十六大将 出典:Ministry of the Navy
1943年4月に、激しい航空消耗戦が続いていた、ソロモン諸島の前線を視察・激励に出向いたわけだが、この時の長官のスケジュールが、米軍に筒抜けになっていた。結果、待ち伏せ攻撃によって、日本海軍は事実上の最高指揮官(制度上の最高指揮官は、統帥権を持つ昭和天皇)を失ったのである。
日本陸軍に至っては論外で、ガタルカナルやインパールがどのような場所なのかさえも知らずに、多数の歩兵部隊を送り込んだ、その結果が、本来の意味での戦死、すなわち敵の銃砲弾によって斃れた兵士より、餓死者の方がはるかに多いという事態だ。これがどうして「戦争の目的は正しかったが、物量の差で敗れた」という話になるのか、私にはまったく理解できない。
このような「作戦重視・情報軽視」と言えば聞こえはよいが(よくもないか)、事前の情報収集に力を入れずに、手前勝手な計略に基づいて行動を起こすという悪癖は、戦後の日本にも見られると述べたら、驚かれるであろうか。
事実である。バブル崩壊の時のことを考えてみればよい。あの時の「バブル退治」という発想自体は、経済政策として「大東亜共栄圏」よりはまともだった、という評価はあり得るかも知れない。しかし、あのタイミングで不動産取引の総量規制、という荒療治を断行して、どれほどの副作用が考えられるか、事前によく調べていたと考える人がいるであろうか。
さらに言えば、外国のスパイを国内法で処罰する制度が未だできていないのに、市民が政治を監視するような行動に、逆に縛りをかけるような特定秘密保護法案だけを急いで成立させるというのも、情報と国家戦略の関係性が、よく理解できていないからではないのか。
昭和の戦争に話を戻すと、戦局が悪化していよいよ駄目だ、との認識が広まりはじめた頃、具体的には1944(昭和19)年の暮れから、終戦の年・1945(昭和20)年の初頭にかけてだが、当時の国家上層部はそれでも、ソ連の仲介による「無条件降伏ならざる講和」とか、米軍に出血を強いた上での「一撃講和」などに望みをかけていた。
ヨーロッパで米英ソの駆け引きや、水面下で始まっていた米ソ対立などについて、もっと情報収集に力を入れていたならば、沖縄戦や中国残留孤児の悲劇を伴わない形で、まともな「出口戦略」を立案することも可能だったのではないか。
今そんな話をしてなんになるのか、と言われるかも知れないが、私は、本来の意味で「戦争を語り継ぐ意義」とは、こういう反省を重ねて行くことであると信じている。
(その2の続き)
トップ画像:東京大空襲で焦土と化した首都東京 1945年3月10日 出典 U.S.Military
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この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト
1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。