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.国際  投稿日:2018/10/5

敗戦から得る、本当の教訓 昭和の戦争・平成の戦争 その8


林信吾(作家・ジャーナリスト)

林信吾の「西方見聞録」

【まとめ】

・ノモンハン事件の新側面判明。教訓得たソ連と惨敗に目をつぶった日本。

・昭和の戦争から教訓をくみ取り、敗戦の事実や原因から目をそらすな。

・無責任な「自衛のための実力組織」にせぬために、不都合な事実の直視を。

 

【注:この記事には複数の写真が含まれています。サイトによっては全て表示されないことがあります。その場合はJapan In-depthのサイトhttps://japan-indepth.jp/?p=42322でお読みください。】

 

歴史は苦手、というような読者でも、この呼び名くらいは聞いたことがあるのではないだろうか。

ノモンハン事件

1939(昭和14)年5月から9月にかけて、日ソ両国の間で起きた大規模な戦闘である。もう少し厳密に言うと、日本の傀儡国家であった満州国と、モンゴル人民共和国とが引き起こした紛争(双方の国境警備隊による銃撃戦)に、日ソ両軍が大規模な介入を行い、大規模な地上戦となったものである。

もともと問題の国境線は、中華民国とモンゴル人民共和国との話し合いで確定し、国際的に認知されていたのだが、独立宣言後の満州国が新たな国境線を主張したもので、つまり原因は満州国の側にある。

この「事件」がどうして有名なのかと言うと、多数の戦車を繰り出してきたソ連軍に対し、銃剣と火炎瓶で武装した歩兵をもって戦った日本軍は、主力部隊の死傷率80%という、世界の戦史を見渡してもあまり類例を見ない惨敗を喫したからだ。

後に太平洋戦線で「玉砕」が多発したので、死傷率80%と言われても、ぴんと来ない、という向きもあるだろうか(怖いことだ……)。近代戦においては、部隊の人員の25%以上が戦闘能力を喪失したならば「全滅」と判定されるというのが、国際常識なのである。

ただ、ソ連が崩壊して様々な機密文書が公開された結果、これまであまり語られてこなかった、この事件の別の側面も見えてきた。

実は、死傷者の数それ自体は、ソ連軍の方がかなり多かったのである。もちろん、このことだけをもって、史実としての勝敗までがくつがえるわけではない。よい例が日露戦争で、死傷者の数だけを見比べたなら、日本軍の方がかなり多かった。

しかし、満州・朝鮮を実質的な支配下に置こうという、帝政ロシアの戦略意図を挫き、なおかつ敵の勢力圏内に軍を進めて、旅順要塞を攻め落とすなどの戦果を挙げた。

最終的には、遠路ウラジオストックを目指して地球を半周してきたバルチック艦隊が、対馬沖での艦隊決戦で全滅の憂き目を見たため、ロシアは屈辱的な講和に応ぜざるを得なくなったわけだが、地上戦においても日本軍の勝利と判定して差し支えないであろう。

ノモンハン事件に話を戻すと、一番問題なのは、この戦闘の結果に対する、日ソ両軍の対応の違いである。結果的に圧勝したとは言え、予想外の犠牲を払うこととなったソ連軍は、そのことを深刻に反省し、装備の改良に乗り出した

一例を挙げれば、戦車に搭載していたガソリン・エンジンを、ディーゼル・エンジンに切り替えた。日本の歩兵が投げる火炎瓶が、想像以上の威力であったことへの反省も踏まえてのことだが、たしかにガソリン・エンジンだと、機関部に火炎瓶が命中したような場合、ラジエターが炎を吸い込み、即座に燃料に引火して爆発炎上してしまう。

ディーゼルならばこうした危険性が低い点に着目したソ連軍は、アルミ合金を多用した軽量コンパクトなディーゼル・エンジンを開発し、新型戦車T-34に搭載した。これが後のナチス・ドイツ軍との戦いで大活躍することになる。

▲写真 T-34-85(ソミュール戦車博物館の戦後チェコ生産型)出典:Wikimedia

実は日本陸軍の主力戦車であった97式は、世界に先駆けて空冷ディーゼル・エンジンを搭載していた。ただ、ディーゼル・エンジンにも欠点はある。ガソリン・エンジンと同じ馬力を得ようとすると、かなり大型にならざるを得ないので、車体の中で機関部が占める比率が異常なまでに大きくなり、影では「エンジン運搬車」などと呼ばれていた。

なおかつ、火力や防御力の点で、ソ連戦車に太刀打ちできなかった。

いずれにせよ、地上戦における戦車の威力を見せつけられたはずなのに、日本陸軍は戦車の改良や新型の開発にあまり力を入れなかった。予算や技術の限界もあったが、惨敗をあまり深刻に反省せず、「何千輛という戦車を繰り出してこようが、わが歩兵が一人一殺の意気で立ち向かえば、火炎瓶で残らず仕留めることができる」などと総括し、不都合な現実を直視しなかった可能性が高い。

なにしろこの敗戦に対する陸軍上層部の対応というのは、新聞等に一切の情報を伏せたばかりか、生き残った将兵には箝口令を敷き、連隊長など現場指揮官には「敗戦の責任」を押しつけて自決を強要し、惨敗をなかったことにしようと腐心していたのである。そもそも、国境警備隊同士の小競り合いに師団規模の援軍まで繰り出しておいて、全面戦争に発展する事態は避けようとしていた。

▲写真 遊就館に展示されている九七式中戦車 チハ 出典:Wikimedia(by Kakidai)

真珠湾攻撃もそうであったが、たとえ局地戦で勝利を収めたとしても、その後どうやって戦いを収束し、なにが得られるのか、という戦略が欠如していたのだ。

ノモンハンでも航空戦が行われたが、日本の陸軍97式戦闘機は、ソ連のI(イリューシン)-16戦闘機を圧倒し、制空権は事実上、日本側にあった。ところが、前述の通り全面戦争だけは避けたいという陸軍上層部の思惑によって、敵地の飛行場や補給基地への爆撃を見合わせたため、数で勝るソ連空軍は爆撃を継続することが可能となり、日本軍の損害が拡大する結果を招いたのである。

制空権を手に入れながら惨敗した戦闘というのも、歴史上あまり類例がない。前回も述べたが、戦後生まれの日本人にとって大切なことは、昭和の戦争について知識を蓄え、正しい教訓をくみ取って行くことであり、敗戦の事実やその原因から目をそらしてはならない

▲写真 飛行第64戦隊の九七戦乙型(キ27乙)。ノモンハン事件にて(1939年)出典:Wikimedia(Public domain)

ところが今、自衛隊をイラクまで派遣しておきながら、その部隊が残した日報の中に「戦闘」という文言があったことを、国民の目に触れさせないようにしようとするような政権が、自衛隊の存在を憲法に明記しようと訴えている。

悲惨で愚かな戦争を二度と起こしてはいけないのは、言うまでもないことだが、そのためにも、昭和の日本軍のごとき無能かつ無責任な「自衛のための実力組織」が再び登場することなど、あってはならないのだ。

トップ画像:擱座したソ連軍装甲車の横で機関銃を撃つ日本兵。(ノモンハン事件 1939年7月4日)出典 Wikipedia(Public domain)


この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト

1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。

林信吾

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