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スポーツ  投稿日:2019/2/12

逆境は改革のビッグチャンス 日本アイスホッケーの未来へ


神津伸子(ジャーナリスト・元産経新聞記者)

【まとめ】

アイスホッケー日本製紙クレインズ(釧路市)の廃部が発表された。   

・新チーム発足の動きも本格化。

・今こそ本気のプロリーグ運営が求められる。

 

【注:この記事には複数の写真が含まれています。サイトによっては全て表示されないことがあります。その場合はJapan In-depthのサイトでお読み下さい。】

今季限りで廃部が発表されたアイスホッケー、アジアリーグの日本製紙クレインズ(釧路市)は先月27日、栃木県日光市の日光霧降アイスアリーナでレギュラーリーグ最終戦の日光アイスバックス戦に臨み、延長戦の末、3―2で競り勝った

 

釧路や東京などからもファンが駆けつけ、観客数は約2千人と満員、立ち見も出て、熱気が溢れた。昨年末のシーズン途中に、廃部が電撃発表されて以来、「このような形で、注目されるのは、本当に残念」と、嘆くアイスホッケーファンは、多い。

クレインズの主将、上野拓紀は試合終了後、リンク上で挨拶し「チームを残し、来シーズンまた霧降に戻って来られたらいいと思います」と、固く誓った。

 

写真)日本製紙クレインズの上野主将が、試合後スピーチする様子
©神津伸子

引受先企業は、現時点では見つからず、ファン有志が現在、チームを釧路に存続させるための署名活動を各地で続けている。そして、16日から、釧路でクレインズとして最後の王子イーグルスとのプレーオフが始まる。負ければ、そこで全日程終了となる最終決戦だ。


日本の実業団アイスホッケーの歴史

日本の実業団アイスホッケーの歴史は、1972年札幌冬季五輪開催に端を発する。開催国出場が決まった時点で、強化が始まった。以下、日本アイスホッケー連盟の公式ホームページから、その経緯を抜粋する。

▼1966年/昭和41年

札幌オリンピック開催決定。

古河・福徳・岩倉・王子・西武の5チームで日本アイスホッケーリーグ開幕。

▼1972年/昭和47年

札幌オリンピック開催。

日本スケート連盟アイスホッケー部門が日本スケート連盟から独立し、日本アイスホッケー連盟を創立。

国土計画(のちのコクド)が西武鉄道チームから分離発足し、リーグ加盟。

福徳相互銀行がリーグ脱退。

▼1974年/昭和49年

十條製紙(現日本製紙クレインズ)が日本リーグに加盟。

▼1979年/昭和54年

岩倉組がリーグ脱退、雪印が発足しリーグ加盟。

▼1999年/平成11年

古河電工が廃部、HC日光アイスバックスが発足し、リーグ加盟。

▼2001年/平成13年

雪印が廃部、札幌ポラリスが発足するが1シーズンで日本リーグから姿を消した。

▼2003年/平成15年

アジアリーグ開幕。日本4チーム(王子製紙・コクド・日本製紙・日光アイスバックス)、韓国1チーム(ハルラウィニア)、日本製紙クレインズが初代王者。

▼2009年/平成21年

SEIBUプリンスラビッツが廃部。東北フリーブレイズがアジアリーグ参戦。

注目すべきは、大阪を拠点としていた福徳相互銀行が初期にはチームを持っていた事である。試合がテレビ放映されていた時代もある。

クラブチームとしての再生


企業が廃部としたチームを、クラブチームとして再生させた好例としては、古河電工を引き受けた日光アイスバックスがある。今シーズンで20年目を迎える。とは言え、ここに至るまではいばらの道で、スタート当初は選手への給料未払い、チームの弱体化等、問題が山積していた。地元の実業家の故・高橋健次氏が命に関わる大病を抱えながらチームの存続に奔走した姿は、テレビのドキュメンタリー番組として4回にも渡って放送され、当時、大きな反響も呼んだ。以下、日光アイスバックスのホームページから、同部の歴史。

▼1925年(大正14)

古河電工アイスホッケー部創部
▼1999年1月

同部活動停止決定

▼1999年5月

「古河電工アイスホッケーを愛する会」が日本アイスホッケー連盟へ4万人の署名提出

▼1999年8月

有限会社「栃木アイスホッケークラブ」発足

市民クラブとして再スタート

▼2000年11月

資金難から廃部決定

▼2001年1月

県、日光市、今市市が行政支援を決定

バックスの存続を求める署名は10万人に

▼2001年5月

有限会社 日光アイスバックスとちぎ設立

▼2006年8月

セルジオ越後がシニアディレクターに就任

▼2007年7月

株式会社 栃木ユナイテッドが営業権を譲り受ける

▼2009年

チーム表記を「H.C.TOCHIGI日光アイスバックス」と変更

▼2010年6月

吉本興業株式会社と業務提携

▼2011年7月

チーム表記を「H.C.栃木日光アイスバックス」と変更

▼2012年3月

アジアリーグにて過去最高の準優勝を記録

2014年5月

▼フィンランド1部リーグ所属タンペレイルベスと業務提携

NHL所属ニューヨークアイランダースと業務提携

▼2014年12月

第82回全日本アイスホッケー選手権大会にて創部16年目で初優勝

サッカーのセルジオ越後の就任は、大きな話題になり、今もチームを支える。最終戦でも、彼は氷上にいた。

そして、再生からチームが全日本アイスホッケー選手権優勝に16年も費やし、アジアリーグでは準優勝が最高位で、まだNO.1はない。

しかし、先日のリーグ最終戦で見せたチームのファンを大切にする姿勢には胸打たれた。試合後、クレインズの選手をしっかりと見守りながら、送り出した。選手、スタッフら全員が大きな輪を作り、セルジオ氏や斎藤哲也主将らが挨拶。その後、氷上に沢山の子供たちを含むファンを招き入れ、感謝の気持ちを込めてサインをしたり、記念撮影に応じ、実に微笑ましい光景が展開された。スポーツチームのお手本のような姿を、そこに見た。


空中分解したSEIBUの再生


一方で、2008年12月に廃部がアナウンスされたSEIBUプリンスラビッツも、「首都圏で、最高峰のプレーが見る事が出来なくなるのは、日本のアイスホッケーの危機」と、クラブチームとしての存続に有志が立ち上がった。筆者もその思いに賛同し、動きに加わった。中心となった人間らは、丁寧なレジメを作成し、スポンサー探しに仕事を持ちながらも、奔走した。しかし、首を縦に振る企業は、なかなか見つからなかった。アイスホッケーというスポーツは、スケート靴、ヘルメット、身体の各部を守る様々なプロテクター、ユニフォームなど高額な用具費に加え、試合・練習用のリンクレンタル代、リーグ戦の遠征費・宿泊代など、チームを維持するには年間3億円以上の経費がかかると言われている。

再生を目指す有志や選手は定期的に、東京・杉並区の「CUBE」という店に集まって対策を練った。仕事後に集まるため、話し合いは夜遅くまで続き、終電さえ終わってしまう事さえ少なくなかった。

難航する再生に、やがて有志は分裂していき、再建は叶わなかった。日本アイスホッケーの至宝であった鈴木貴人選手らSEIBUメンバーの多くは、各アジアリーグに分かれて行き、首都圏から実業団チームは消滅した。最後まで諦めずに軸となっていた「CUBE」のオーナーは尽力するあまりに、店の経営もままならくなり、閉店に追い込まれた。その後、元店長は会社員として再出発した。

 

「逆境は改革のチャンス」 新チーム発足の動きも、本格化


雪印も2001年に廃部、札幌ポラリスが発足するが1シーズンで日本リーグから撤退。それほど、クラブチームの存続は難しい。が、クレインズファンは諦めることなく、「氷都くしろにクレインズ存続を願う会」が、中心となって署名活動を行っていて、2月2日現在18000人分を集めて、釧路商工会議所の支援を求めている。しかし、アイスバックスの時のような具体的な動きや、引き取り手の企業などは見えてこない。

クレインズ廃部発表に先んじて、既に昨年から、首都圏に再度プロのクラブチームを作ろうと、有志が動き始めている。「このままでは、日本のアイスホッケーの危機は続く」と、横浜を拠点としたチーム設立を目指して奔走している。慶應義塾大学体育会スケート部アイスホッケー部門のOBたちが、設立メンバーとなって、仕事を持ちながら新チーム横浜GRITSの為に奔走している。来季のアジアリーグ参入を目指す。

「GRITSには、やり抜く力という意味があります。何としても、今やり抜かねば、です。我々は、今までのプロスポーツにない“デュエルキャリア”という、選手の在り方を提案しています。選手としても一流、企業人としても一流を育てる」と、代表の臼井亮人は日本のアイスホッケーの未来を見据える。

選手が所属する企業も、今までのように1社で全員という形ではなく、各選手がそれぞれの仕事の能力にマッチした企業に属し、各選手のユニフォームの広告ロゴは、各企業のものを背負うという形を目指している。
何より選手たちが不安に思っているセカンドキャリアに関しても、この形なら同じ企業で引退後も働き続ける事が出来るというものだ。

霧降アリーナでの、リーグ戦最終戦、日光アイスバックス対日本製紙クレインズの最終戦後、超満員の観客席に数々の横断幕がファンの手で掲げられた。

「丹頂は二度羽ばたくアジアの空に甦れクレインズ」
「逆境は改革のビッグチャンス!!今こそ本気のプロリーグ運営を」。

多くの、文言が人々の心に突き刺さった。

 

 

トップ写真)日本製紙クレインズと日光アイスバックス最終戦の後に掲げられた横断幕

©神津伸子

 

 


この記事を書いた人
神津伸子ジャーナリスト・元産経新聞記者

1983年慶應義塾大学文学部卒業。同年4月シャープ株式会社入社東京広報室勤務。1987年2月産経新聞社入社。多摩支局、社会部、文化部取材記者として活動。警視庁方面担当、遊軍、気象庁記者クラブ、演劇記者会などに所属。1994年にカナダ・トロントに移り住む。フリーランスとして独立。朝日新聞出版「AERA」にて「女子アイスホッケー・スマイルJAPAN」「CAP女子増殖中」「アイスホッケー日本女子ソチ五輪代表床亜矢可選手インタビュー」「SAYONARA国立競技場}」など取材・執筆

神津伸子

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