日産自動車、お家騒動の系譜
八木澤徹(日刊工業新聞 編集委員兼論説委員)
【まとめ】
・日産が又「お家騒動」。西川社長 道半ばで退任へ。
・労組対策、無謀な海外展開、権力争いで社内混乱続いた歴史。
・日仏政府が対峙。日産が真の民間自動車メーカーになる日は来ない。
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日産自動車がまたまた「お家騒動」で揺れている。9日の取締役会で、西川廣人社長兼CEO(最高経営責任者)が日産ナンバーツーの山内康宏最高執行責任者(COO)から「日産は変わらなければならない」と辞任勧告を突きつけられ、「まだやるべきことが残っていた」と無念の言葉を残し、道半ばでトップの座を追われた。
▲写真 辞任に追い込まれた西川広人社長 出典: Wikimedia Commons; Bertel Schmitt (BsBsBs)
日産にはトヨタ自動車への対抗意識による過度の技術信奉、創業者・鮎川義助率いる日産コンツェルン時代からの政府の介入という「負の遺伝子」がある。通産省(現経産省)とメインバンクの日本興業銀行(現みずほコーポレート銀行)は1966年、経営難に陥っていた旧プリンス自動車工業との合併を主導。「日産中興の祖」となる川又克二を社長に送り込んだ。
「スカイライン」「グロリア」などプリンスの人気車種を取り込んだことで一時は販売台数でトヨタに肉薄する。しかし、「ブルーバード」や「セドリック」などディーラー同士の食い合いや、部品メーカーのダブりが起こる。
さらに不採算のロケットやフォークリフト事業、「村山工場」を拠点とする左派のプリンス労組も引き継いだことから経営にゆがみが生じる。これらの事業と村山工場は後に、ゴーンが全て売却することになる。
「いつまでも2位メーカーではない」。1977年6月に日産自動車の社長に就任した石原俊は、「技術の日産」「打倒トヨタ」を掲げ、米国で人気だった「ダットサン」ブランドを捨て「ニッサン」に統一。世界生産におけるシェア10%を目指す経営方針「グローバル10」を打ち出した。
当時深刻化していた貿易摩擦への対応として独フォルクスワーゲン(VW)との提携生産や、当時の英国首相サッチャーとの間でイギリス国内での現地生産協定に調印するなど、無謀ともいえる海外展開に突進する。
しかし、その前に日産労働組合委員長の塩路一郎が立ちはだかる。石原の積極策は労組の反対を無視する形で行われたため社内は大混乱に陥る。さらに、石原を社長に引き上げたもう一人の天皇・川俣会長が塩路に同調したことから、3人の天皇による権力争いが混乱に拍車をかけた。
エネルギーの大半を労組対策に費やした石原は、「道半ば」(石原)で会長に退く。後任の久米豊も石原の「グローバル10」の拡大路線を引き継ぐが、90年代に経営危機に陥る。後を受けた辻義文は座間工場、豪州工場の閉鎖などリストラを推し進めたが、辻は日産が仏ルノー傘下に入った99年に「私にも経営責任がある」として会長職を辞す。
後任社長となった塙義一も頼みの通産省(現経産省)の支援も得られず、99年3月末には債務超過の危機に瀕していた。日産の「グローバル10」の悲願は皮肉にも経営破綻の危機によるルノーとの経営統合後に実現する。ゴーンによる合理化で、ルノー・日産・三菱自動車連合の17年の世界シェアはトヨタグループを抜き去り、VWに次ぐ12.3%に達したのだった。
▲写真 カルロス・ゴーン 元会長 (2010年12月8日)出典: flickr; Adam Tinworth
ただ、ゴーンが行った改革の実態は5工場閉鎖による2万人を超える首切りと系列破壊によるコストカット、そして左派系組合つぶしだった。「これらの方策は我々が考えていた再生計画とほぼ同じだったが、長年のしがらみで実行できなかった」。ゴーンを連れてきた男、塙は生前こう話していた。その象徴が旧プリンスの主力工場で左翼運動の総本山だった村山工場の閉鎖だった。
▲写真 日産村山工場跡地のプリンスの丘公園に建つ「スカイラインGT-R発祥の地」の碑(2017年8月20日)出典: Wikimedia Commons; Qurren
ゴーンが日本にやってきて真っ先に実行したのは日産・追浜工場の自動車生産ラインをタダ同然でルノーに供与させることだった。筆者は取材に動き、日立製作所や工作機械大手の森精機、ロボットメーカートップ・ファナック、そして日産の協力会社が総力を挙げて磨き抜いた生産技術を奪われる事件をスクープした。
日産がルノーの軍門に下った99年3月末から半年後の9月、ルノーは日本の自動車担当マスコミをパリに招待した。このプレスツアーに同行した筆者らは、当時のルノー本社で会長兼CEOのシェバイツァー(現ルノー名誉会長)のインタビュー。ルノーの工場見学やパリ郊外にある自社サーキットでのルノー車の試乗会に駆り出された。
▲写真 ルノー・ジャポン本社(神奈川県横浜市)出典:ルノー・ジャポン ホームページ
ある夜は、ルノーのほかフランス政府関係者など総勢数十名が参加者したセーヌ川船上パーティが開催され、政府関係者はシャンパン片手に「フランス万歳!」と叫び、同行したルノーとの提携交渉に当たった日産の経営企画幹部は「こんな屈辱はない」と涙を流し、帰国後に辞表を提出した。
最終日はルノー博物館でのパーティ。ルノーはパリの日本人板前を呼び寄せ、「スシとワインはよく合う」とはしゃいだ。その後、我々はクラシックカーに乗せられ、パリ市警の先導で市内を引き回しされた。翌日のル・モンドら仏紙は1面で凱旋門を周回する日本人記者団の写真を掲載。その上に『フランスの勝利!』の見出しが踊った。
元・国営企業で今でも仏政府が筆頭株主のルノーは「フランスの誇り」である。一方、日産も戦前から政府が深く関与し、旧プリンスのルーツも「隼」や「疾風」など陸軍飛行機を開発・製造した中島飛行機。人事面でも経産省が官邸と連携して仏・ルノー連合と対峙する。真の民間自動車メーカーとなる日は永遠に来ないだろう。
トップ写真:日産自動車販売店の看板 出典:flickr; Mike Mozart
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この記事を書いた人
八木澤徹日刊工業新聞編集委員兼論説委員
1960年1月、栃木県生まれ。日刊工業新聞社に入社後、記者として鉄鋼、通信、自動車、都庁、商社、総務省、厚生労働省など各分野を担当。編集委員を経て2005年4月から論説委員を兼務。経営学士。厚生労働省「技能検定の職種等の見直しに関する専門調査会」専門委員。
・主な著書
「ジャパンポスト郵政民営化40万組織の攻防」(B&Tブックス)、「ひと目でわかるNTTデータ」(同)、「技能伝承技能五輪への挑戦」(JAVADA選書)、「にっぽん株式会社 戦後50年」(共著、日刊工業新聞社)、「だまされるな郵政民営化」(共著、新風舎)などがある。