『武士道』著者が受けた仕打ち 横行する「危うい正義」その3
林信吾(作家・ジャーナリスト)
林信吾の「西方見聞録」
【まとめ】
・新渡戸稲造は武家に生まれながら、英語とキリスト教を深く学んだ。
・新渡戸稲造は見当違いな「正義感」で晩年、不遇を極めた。
・主要な情報伝達手段であるネットでも正確に事実の伝達が肝要。
新渡戸稲造と言えば,今や「5000円札の人」であるが、紙幣に肖像まで描かれている彼の生涯についてよく知る人は、さほど大勢いないようだ。
もともとは『BUSHIDO(武士道)』という本の著者として知られていたのだが、これとても
「タイトルくらいは知っているけど……」「聞いたことはある」
といった人が多い。
実は私はこの本を、あまり高く評価していない。
端的に述べるなら、彼自身が武士の歴史とか武士教育によって植え付けられた価値観についてよく知るわけではなく(物心ついた時には江戸幕藩体制が崩壊していた)、むしろ英語とキリスト教文化にどっぷり浸かった日本人として、キリスト教徒に向けて書いた
『ガイジンでも分かるニッポン文化』
といった、ハウツー本みたいな読後感だったからである。
もちろん、100年以上にわたって読み継がれ、この本を読んだことがきっかけで日本文化に関心を持つようになった、という外国人が、かなりの数に上ることは事実で、その功績を評価するにやぶさかではないが。
問題は、この本を書いた人物が、幕末の東北武士の家に生を受け、明治から昭和にかけて生きた日本人としてはきわめて珍しいことに、前述のように英語とキリスト教を深く学んだことと、それゆえ昭和の軍国主義の時代には世間やマスコミから酷い仕打ちを受けたことである。
話を分かりやすくするために、彼の経歴をもう少しなぞってみよう。
1862年、陸奥盛岡(現在の岩手県盛岡市)で生まれ、6歳の年に明治維新を迎える。
その後13歳で上京し、東京英語学校(東京大学の前身のひとつ)で学んだ後、札幌農学校に進学する。ここで、
「少年よ大志を抱け」
の名言で有名なウィリアム・クラーク博士の薫陶を受け、キリスト教に入信。正式に洗礼を受け「パウロ新渡戸」となった。ちなみに幼名は稻之助といい、上京後に稲造と改めているが、これは昔の武士階級では普通のことであった。
▲写真 クラーク博士像 出典:Free Photos
農学校卒業後、創立間もない東京帝国大学に入り直したが、当時の帝大は農学校に比べて学問の水準が低かったらしく、新渡戸は失望して退学する。
その後、1884(明治17)年に米国に私費留学し、ジョンズ・ホプキンス大学で学んだ。この頃から、伝統的なキリスト教信仰には疑念を抱くようになり、クエーカーの集会に参加するようになった。
クエーカーは17世紀にイングランドで生まれたプロテスタントの一派で、初期の信者が皆、神秘体験をして体を震わせると言われたことから「震える人=クエーカー」と呼ばれたのだが、信者たちはこの呼称を好まず、フレンズと名乗っている。言うまでもなく友人の意味だが「友徒会」と訳される場合もあるようだ。
この集会で新渡戸を見初めたのが、後に生涯の伴侶となるメアリー・エルキントン(日本名・新渡戸万里子)である。そう。これまた当時としては非常に珍しい、国際結婚をした人でもあった。
▲写真 新渡戸稲造と妻メアリー・エルキントン 出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)
その後、ドイツへの官費留学を経て、1891(明治24)年に帰国。札幌農学校の教授となるが、夫婦ともに体調を崩したため、休職してカリフォルニアで療養した。前述の『BUSHIDO』はこの時期に英語で書かれ、1900(明治33)年に出版された。
第一次世界大戦後、1920年に国際連盟が設立されると、前掲書によって得た名声のおかげで、事務次長に選ばれている。
キリスト教精神に基づく平和主義が彼の信念であったが、1926年に元号が昭和と改まってからの日本は、無謀な侵略戦争への道を突き進んだ。
このため、新渡戸の晩年は不遇を極めたのである。
1932(昭和7)年、愛媛県松山市で講演の後、地元の新聞記者らと旅館で懇談し、概略以下のようなことを述べた。
「日本を滅さんとするものは共産党か軍閥である。そのどちらが怖いかと問われたら、今は軍閥と答える。過激な軍国主義が、過激な共産主義思想を広める土壌になるのだ」
実はこの発言、オフレコの約束があったものだが、なぜか記事になってしまい、軍部はもとよりマスコミからも新渡戸は猛烈なバッシングを浴びることとなった。私も、NHKの特集番組を見て初めて知ったのだが、
「新渡戸博士に自決を促す」
という社説を掲げた新聞まであったという。
社説を任されるからには、その新聞において最優秀と目される記者なのだろう。それが、公器たる新聞紙上で個人を名指しし、自決(自殺)を促すとは。
前回も触れたが、見当違いな「正義感」は、人間をここまで愚劣にするものなのだ。
かつてこのような記事と、嘘八百の「大本営発表」を垂れ流して、結果的に日本が滅亡への道を歩むことを阻止できなかった新聞は、その「前科」をもっと真摯に反省し清算してからでなければ、今時の「ネットの闇」を糾弾する資格などないと思う。
話を戻すと、この1年後、新渡戸はまたまた渡米するが、今度は「戦争の震源地」として日本を白眼視するようになっていた米国人たちからバッシングを浴び、失意のうちにカナダで病没した。享年71。
お分かりだろうか。
前回取り上げた「上級国民」がどうのという話とは、いささか趣が違うけれども、新渡戸稲造という人は、国際的に著名な学者でありながら、自ら「大日本帝国」と称した軍国主義の体制下では、多くの人から「西洋かぶれ」などと叩かれ、ついには新聞紙上において、死ね、とまで書かれたのである。
新聞もよくないが、もっと度し難いのは、ちゃんと読みもしないで(漫画版くらいは読んだのか?)、タイトルだけで「素晴らしい本を書いた人」と信じ込み、一方ではその新渡戸を排撃した昭和の軍国主義を「アジア解放のための崇高な戦いであった」などと擁護する手合いである。
今や主要な情報伝達手段であると言えるネットにおいて、このような言論が幅をきかせているようでは、新渡戸稲造も浮かばれないというものだ。
【2019年12月2月下記の通り訂正致しました】
誤:愛媛県松山市で公演の後
正:愛媛県松山市で講演の後
誤:高貴たる新聞
正:公器たる新聞
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この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト
1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。