英国民と女王のトラウマ(上)何が違う?日本の皇室と英の王室 その2
林信吾(作家・ジャーナリスト)
林信吾の「西方見聞録」
【まとめ】
・英国王室、ヘンリー王子が愛称で呼ばれている。
・ヘンリー王子は元女優の嫁に頭が上がらない男の烙印を押される。
・エドワード皇太子も「王冠を捨てた恋」を経験。
前回お伝えした通り、英国のチャールズ皇太子の次男であるヘンリー王子は、妻であるメーガン妃ともども王室から離脱の沙汰となった。
ただ、これまたお伝えした通り、殿下・妃殿下とは呼ばれなくなったものの、王位継承権や公爵位はそのままであるから、本稿でも「王子」と「妃」は引き続き用いようと思う。
ところで、日本のマスコミでは「ヘンリー王子」「ハリー王子」の表記が混在しているが、英国では圧倒的にハリーの表記が多い。そして当人は、その呼ばれ方を好んでいないとも聞く。
そもそも論から言えば、ヘンリーの愛称がハリーなので、どちらでもよい話ではある。
英語圏ではこのように、名前のつづりの一部から、大体決まった愛称で呼ばれることが多い。ロバートならボブ、レベッカならベッキーというように。
しかし、女優のエリザベス・テイラーは多くの人からリズと呼ばれていたが、エリザベス2世女王に対してこのような呼び方はしないし、チャールズ皇太子もチャーリーと呼ばれてなどいない。どうしてヘンリー王子だけ愛称が広まっているのか。
実は、しょうもない経緯なのだ。もう20年も前の話になるのだが、サンドハースト(英国王立陸軍士官学校)の卒業パーティーで、全裸同然の姿になった上、これまた全裸同然の女性(なにしろストリッパーだった)を膝にのせている彼の写真が、マスコミにすっぱ抜かれたのだ。その記事の見出しこそが「ダーティハリー」であった。昭和世代の読者には、有名なハリウッド映画から想を得たものであることが、すぐにお分かりだろう。
私自身は、どちらでもよいのなら、当人が喜ばない表記をわざわざ用いることもないだろうと考え、ヘンリーと記している。別に英国王室に対する「忖度」ではないが笑。
そんなヘンリー王子だったが、国民から「王族にふさわしくない」などと非難されたのかと言えば、そうでもなかった。もちろん、色々な考え方の人がいるし、前述のような乱痴気騒ぎを英国紳士たちが歓迎するはずもなかったが、そこはやはり「未来の国王」とその弟とでは、立場が違うのである。
なおかつ、軍人としてのヘンリー王子は志願してアフガニスタンに出向くなど、勇猛果敢であった。2012年には、イスラム過激派タリバーンの戦闘員たちに向けて、攻撃ヘリコプターから空対地ミサイル(一説では無誘導のロケット弾)を発射し、
「数名を吹き飛ばした」
ことを公表した。英国の王族で、戦場に出向いた人はたくさんいるが、直接的に敵を殺傷した例となると、ほとんどない。この件で、イスラム過激派からは「兄弟の仇」として殺害予告を受ける羽目になったが、それも含めて彼を英雄視する英国人が一気に増えた。
「やんちゃな次男坊だが、国のために、やる時はやる立派なプリンスだ」
という評価が定着しつつあったのだーーメーガン妃と結婚するまでは。
2017年、祖父のエジンバラ公が、高齢を理由にのため公務引退を発表したのを受け、海兵隊元帥の職を引き継いだ。ちなみに英国海兵隊は制度上、海軍の一部であり、正式な階級としての元帥は存在せず、名誉職である。
▲写真 ヘンリー王子 出典:Flickr; Eva Rinaldi
いずれにせよ大事な公務であるはずなのに、なんと彼は就任直後最初の戦死者慰霊式典をすっぽかした。新婚早々だったメーガン妃と一緒に、ディズニーの新作アニメ映画『ライオンキング』の試写会に出かけたのだ。しかも、嘘か本当か知らないが、試写会場に来ていた制作関係者に対し、
「次の映画では、ぜひとも私の妻を声優に」
などと話しかけたとまで言われている。要するに、3歳年上で、あまり売れなかった元ハリウッド女優の嫁に頭が上がらない男、という烙印を押されてしまったのである。
当然ながら……という表現には我ながらいささか抵抗を感じるのだが、英国民のメーガン妃を見る目は厳しくなる一方であった。そして、今次の離脱騒ぎに至ったわけだが、人種差別的な言動は論外としても、ある年代以上の英国人にしてみれば、
「バツイチのアメリカ女が、またやってくれたか」
とでも言いたくなるのは(これまた語幣はあるが)、無理からぬ面もある。
▲写真 メーガン妃 出典:Flickr; Northern Ireland Office
1936年の「王冠を捨てた恋」も、相手は離婚歴のある米国人女性だった。
この年の1月20日、時の英国王ジョージ5世が逝去した。そして、長男がエドワード8世として即位したのである。
ここまではよかった。このエドワード8世は洒落者として知られる一方、学生や労働者と膝を突き合わせて議論するのを好むという人柄で、スピーチも機知に富み、上手だった。当時の新聞雑誌はこぞって「不世出の王室スポークスマン」とほめそやしたほどである。
ただ、問題がひとつあった。シンプソン夫人という米国人女性との関係を、どうしても清算できなかったのだ。
ウォリス・シンプソン(後にウィンザー公爵夫人。故人)は、1896年、米国ボルチモアの、決して裕福とは言えない家庭に生まれた。生来の姓はウォーフィールド。容姿もさほど目立たなかったが、ダンスや会話術の習得には幼いころから熱心で、パーティーでは毎度会話の中心になり、男性関係もなかなか華やかであったらしい。
「いずれハイクラスの男性と結婚するのが夢なの」
とよく語っていたと、複数の友人が証言している。そして実際、大英帝国王妃兼インド女帝(当時の呼称)となる一歩手前まで行ったのだ。ちなみにエドワード8世あらためウィンザー公との結婚は三度目で、最初の結婚相手は職業軍人だったが、夫の酒癖と女癖に愛想つかして離婚。二度目の相手が、米国の船会社のロンドン支店長を務めるアーネスト・シンプソンという人物であった。彼は英国籍欲しさに近衛騎兵連隊に志願した経歴を持っており、その縁でシンプソン夫人もロンドンで社交界デビューしたのである。
つまり、エドワード皇太子とは不倫関係であったわけで、これも周囲が結婚に反対した理由のひとつであったことは言うまでもない。周囲とは具体的には王侯貴族や政府・英国国教会で、要するに四面楚歌であった。念の入ったことに、当時の英国政府は外交ルートを通じて、英連邦諸国の元首全員の意見を取りまとめたが、結果は「一致して結婚に反対」であったという。
結局エドワード8世は、在位わずか325日間で退位してしまい、弟のヨーク公アルバートが、ジョージ6世として即位した。現在のエリザベス2世女王の父である。
……以上が「王冠を捨てた恋」の顛末・超ダイジェスト版だが、実はこれが意外な形で我が国の皇室とも関係している。詳しくは、次回。
(続く)
トップ写真:ヘンリー王子、メーガン妃 出典:Flickr; Mark Jones
あわせて読みたい
この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト
1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。