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.国際  投稿日:2021/10/14

政略結婚こそ「王道」であった 王家の結婚とはなにか その1


林信吾(作家・ジャーナリスト)

「林信吾の西方見聞録」

【まとめ】

・王侯貴族の縁組は基本的に政略結婚だった。

・英国王室はチャールズ皇太子が故ダイアナ元妃と結婚するまで、約260年に亘り国王の配偶者は外国人だった。

・最後のあだ花、18世紀ハプスブルク家に君臨した「女帝」マリア・テレジアの皇女マリア・アントニアの結婚。

 

自民党総裁選、さらには岸田内閣が発足早々、解散総選挙を行うことを明らかにしたため、後景化してしまったことは否めないのだが、プリンセスの結婚がとうとう本決まりとなった。

10月1日に宮内庁より発表された直後には、マスメディアの論調はかなり批判的であったが、その後プリンセスが複雑性PTSDを患っていると診断されたと報じられるや、急に「手のひら返し」となったことは、すでによく知られる通りである。

少し話を戻すと、発表直後には「国民の9割が反対している結婚を強行」とまで書いたメディアがあった。これもこれで、さすがに言い過ぎだろう。私などもそうだが、

「祝福する気にもなれないのだが、若い二人の決心がそこまで固いのなであれば、もはや温かく見守る以外にはないだろう」

とする「消極的賛成派」は、それなりの数にのぼるのではないだろうか。

祝福する気になれないのは、プリンセスの婚約者ともなれば、れっきとした公人と言って過言ではないと思うのだが、結婚延期の沙汰となった原因であるところの、自身や親族のスキャンダルについて、説明責任を果たしていないことに納得しかねるからだ。これもまた、ごく少数意見にとどまるものではないと私は考える。

ただ、26日にあらためて結婚が公式発表され、記者会見も開かれるとのことなので、その後に皇位継承問題を含めた、私なりの考えを開陳させていただいても、遅きに失することもないだろう。

さて、本題。

「ヨーロッパの王侯貴族は、数代さかのぼればみんな親戚みたいなもの」

という言葉を、一度くらいは耳にしたことがおありではないだろうか。

厳密に言えば、いくつかの流れが存在するだが、これはまあ「あたらずと言えど遠からず」という話だ。

理由は簡単で、王侯貴族の縁組は基本的に政略結婚だった。当然ながら国際結婚もごく普通のことであった。

たとえば英国王室など、チャールズ皇太子が故ダイアナ元妃と結婚するまでは、およそ260年にわたって国王の配偶者は外国人であった。ドイツおよび北欧系のプロテスタント貴族の子女と結婚したケースが多いのだが、これは歴史のしがらみで、かの国においてはカトリック信者には王位継承権を認めない法律が存在したからである。21世紀になってからは「規制緩和」の方向に向かい、たとえば王室の子女がカトリック信者と結婚しても、王位継承権を剥奪されることはなくなった。

▲写真 ダイアナ妃(1961年-1997年)とチャールズ皇太子 1985年4月20日、ラスペツィアのイタリア海軍基地にて 出典:Photo by Princess Diana Archive/Getty Images

ともあれ、国籍を異にするのはかまわないが、宗派を異にするのはよろしくないというのは面白い。もちろん、宗教に関して寛容と言うかいい加減と言うか、そういう日本人の視点で見ればの話だが。

いくつかの流れがあると述べたのも、具体的にはこのことと関わりがあるので、プロテスタント及び英国国教会を一方の「派閥」と見なすなら、もう一方の雄はカトリック、わけても神聖ローマ帝国に君臨したハプスブルク家である。

ハプスブルクとはドイツ語で「鷲の城」という意味で、家紋にも双頭の鷲が描かれている。

11世紀までは、現在のスイス北部に領地を持つ小豪族で、遠祖もドイツ貴族の外戚に過ぎなかった。領土が拡大してからは、あのユリウス・カエサルの末裔だと称した時期もあったのだが、もちろんこれは、まったく信用されていない。

ただ、政略結婚を繰り返すことによって、目覚ましいほどせの勢力拡大を見せたことは事実だ。代々美男美女が多く生まれたので、このことも政略結婚を容易にした一因だと考えられている。前述のようにスイスが発祥の地だが、やがてオーストリアに拠点を移し、最盛期にはドイツ語圏のほぼ全域(=神聖ローマ帝国)からスペイン、イタリア北部(トスカーナ大公国、ナポリ王国)までを手中に収め、ヨーロッパ随一の名門と称されるまでになった。どこの誰が言い出したのか、

「戦争は他国に任せておけばよい。幸いなる汝オーストリアよ、結婚せよ」

という言葉が人口に膾炙したほどである。

その象徴にして最後のあだ花とも言うべき出来事が、18世紀ハプスブルク家に君臨した「女帝」マリア・テレジアの皇女マリア・アントニアの結婚である。

順を追って少し解説を加えねばならないが、ドイツ文化圏では昔から女性の王位継承権を認めておらず、マリア・テレジアは「共同統治者たる王妃」である。実はこのシステムは、現代日本の皇位継承権問題にまで関わりがあるのだが、これについては稿を改めよう。

話を戻して、マリア・テレジアの皇女マリア・アントニアが嫁いだ相手とは、時のフランス国王(ブルボン朝)ルイ15世の孫、後のルイ16世である。彼女はまた、結婚にともなって名前もマリー・アントワネットとフランス語読みにした。

オーストリアのハプスブルク家とフランスのブルボン家は、ヨーロッパ中央部の覇権をかけて、200年以上の長きにわたって対立関係にあったのだが、18世紀になると、ドイツ語圏においてプロイセンが台頭してきたため、マリア・テレジアはこれを牽制すべくフランスとの和解を模索したものであるとされる。

そう。1789年のフランス革命において、王政が打倒されて囚われの身となり、1793年に断頭台(ギロチン)の露と消えた王妃も、ハプスブルク家の出なのである。今日に至るも「悲劇の王妃」と言い伝えられているが、フランス革命について基礎的な資料だけでも読めば、自業自得という言葉を、どうしても思い浮かべてしまう。

ただ、彼女自身が、命をもって償わねばならないほど悪いことをしたのかと言われれば、私個人としては、そう決めつける気にもなれないのである。たとえば、パンをよこせ、と訴える労働者のデモが起きたと聞いて、

「パンがなければお菓子を食べればいいのに」

と言い放った、と伝えられているが、彼女が本当にそんなことを言ったと確信できる資料には未だ出会えていない(私は基礎的な文献しか読んでいないことは明記しておくが)。

控えめに言っても「話を盛っている」可能性が高いと思う。

ただ、ここでひとつ述べておきたいことは、ハプスブルク家の皇女として生まれ、政略結婚の結果フランス王妃となったことは、彼女の宿命であり、そこにはやはり「立場に伴う責任」があると考えざるを得ないのである。

ギロチンでの刑死という最期を思えば、自業自得は言い過ぎだったかもしれない、という気持ちも私の中にはあるのだが、要は、彼女が持って生まれた「血筋の価値」が最終的にこの悲劇を招いたことは間違いない。

歴史をひもとけば、フランス王家の「悲劇」にとどまらず、こうした価値観ゆえに色々とおかしなことも起きている。

次回はその話を。

トップ図:マリー・アントワネット(1755-1793) 出典:Photo by Hulton Archive/Getty Images




この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト

1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。

林信吾

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