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.社会  投稿日:2021/4/4

南北戦争から日本を考える 続:身捨つるほどの祖国はありや 4


牛島信(弁護士・小説家・元検事)

【まとめ】

・「南北戦争」時の南北の差は「日米戦争」時の日米の国力の差のよう。

・英国が後ろ盾の香港と、米国が後ろ盾の日本の相似。「独立」守るのは誰か。

・日本の歴史は明治維新以来、日米戦争に向けて流れ、日米戦争から流れ出している

 

目の前の図表を見た瞬間、私は「ああ、これはまるで日米戦争が始まったときの両国の国力比較表のようだ」と感じた。

南北戦争の時代』(貴堂嘉之 岩波書店 2019年)の83頁に出ている「南北の人口・工業力の比較」と題した棒グラフ群である。そこには、人口、工場、生産力、鉄道、織物、火器、銑鉄の6点についての南北比較が列記されていた。

▲図 「南北戦争の時代」(貴堂嘉之 岩波書店 2019年) 出典:岩波書店

人口と鉄道の他は、いずれをとっても北に比べて南はほとんど取るに足りない。最大の落差は「火器」である。南は北の32分の1でしかない。

人口は南北が1対4。そういえば、と私は思った。これまで、日米戦開始時の人口について日米比を考えてみたことがなかったのだ。

調べてみると、1.3億人対0.7億人。1.9対1。その割合において、日本は劣勢の南をはるかに上回る。ただし、南の人口に黒人奴隷を加算すれば、比率は2.4対1にはなるが、それでも、南は人口における北との比率で、日米開戦時の日本を下回っている。それにもかかわらず、南は銃をもって立ち上がったということである。

南北戦争は1861年4月の南軍の攻撃で始まり、4年間続いた。日米戦争も日本の攻撃で始まり4年間続いた。どちらも、南も日本も、上記の差にもかかわらず長い間よくも戦ったものである。総力戦はいったん始まると簡単に終わらない。「リンカンが戦闘の早期終結を楽観視していた」と著者は伝える(82頁)。第一次世界大戦も同じだった。

負けた側はどんなに大変だったか。国民全体が被害者である。私は日本については両親から聞いているので、よく知っている。沖縄戦、東京空襲、原爆。私は広島の高校を出ている。

北軍は221万3000人を動員し、そのうち36万4511人が死んだ。南軍は105万人のうち25万8000人が死んだ(106頁)。南部の白人男性のうち13歳から43歳までの年齢層では、なんと18%が死んだという(107頁)。

この本の末尾には、「一九世紀の『南北戦争の時代』は、アメリカ社会の今とつながっている。アメリカ史は建国以来、南北戦争に向けて流れ、南北戦争からすべてが流れ出しているのだ。」(212頁)とある。

しかしこの本は、同じころ実は別の大きな問題がアメリカでは起きていたことにも触れる。

「コロンブスが『新』大陸を『発見』した一五世紀末以前の、北米大陸の先住民人口」は「五〇〇-七〇〇万人と推定」されている。「それが、南北戦争終結の一八六五年には、三〇万人、フロンティアの消滅が宣言される一八九〇年には、二五万人へと減っていた。」

著者は、「所有者・居住者のいない未開拓の土地である『フリーランド』の存在が、アメリカの発展を説明する鍵」であるとするフレデリック・ジャクソン・ターナーという学者の説を紹介し、「果たしてどうだろうか」と疑問を投げかける。

「『フリーランド』とは、先住民からみれば諸部族の生活空間であり、決して誰もいない土地などではなかった。(170頁)と考えるからである。

さらに著者は、「ターナー史観の西部開拓美化を修正するために、別の視点から西部開発を絶賛した人物」に触れる。なんとアドルフ・ヒトラーである。「近年の研究では、ヒトラーが、『数百万ものインディアンを銃で撃ち殺して数十万人まで減らし、現在はわずかな生き残りを囲いに入れて監視している』米国の西部開発の手法をモデルに、『生存圏=レーベンスラウム』の構想を練ったことが明らかになっている。一九四〇年代の大量虐殺を伴う東方征服の最中、ヒトラーはしばしばアメリカの西部開拓を引き合いに出して正当化していたのだ。」(171頁)というのだ。

▲写真 アドルフ・ヒトラー(1932年 春) 出典:Heinrich Hoffmann/Archive Photos/Getty Images

ヒトラーの東方征服、独ソ戦が東ヨーロッパへの植民政策を目的としていたことは知っていた。なんとも途方もないことを夢見ていたものだと感じていた。しかし、そのためにヒトラーがアメリカ・インディアンの歴史を引き合いに出していたとは知らないでいた。

ここまで来れば、多くの人々は、現在の中国で起きているウイグル人弾圧を思い出すことだろう。

私も、つい最近「米国人や世界の消費者は、強制労働でつくられた製品を求めていない。」と米国通商代表部(USTR)が3月1日づけで通商政策報告書を議会に提出したという記事を読んだ。引用はその一節として伝えられた部分である(日本経済新聞2021年3月2日夕刊)。私はこの記事を読んで、そうだったのか、もう米中対立はそこまで来てしまっているのか、と感慨があった。

私の感慨はそれだけではない。もう今回は違うかもしれないな、デジタル時代になってしまっていることは、これまでとは根本的に違う状況をもたらしていて、もはやウイグル族には独自には反撃の道がなくなってしまっているのではないか、と感じているのだ。国際的な支援がよほどの効果を持つことでもなければ、事態は一方的に進むだろうと思われる。もともとウイグル族は騎馬民族であり、それゆえに農耕民族である漢民族を蹂躙することがたびたび可能だったのだ。それが過去の歴史だった。しかし、自動車の発明がそれを昔語りにしてしまった。今はデジタル化が加わる。

国際的支援の中心にいるのは、もちろんアメリカである。バイデン大統領は、民主主義と人権尊重をアメリカの価値として強調している。日本を含む西側先進国に共通している。

そのアメリカが先住民の虐殺の上に築かれたと説かれれば、確かにそうだったと思い出す。アメリカ・インディアンの歴史は、日本人にとってはそれほどに遠い。1960年、10歳だった私は、テレビの『テキサス決死隊』という西部劇に夢中だった。私は、その主題歌、西部開拓が平和のための使命だという内容をよく口ずさんだものだった。1970年の映画『ソルジャー・ブルー』まで、そうした西部劇の世界は続いた。

しかし、もし自分がアメリカ・インディアンで、南北戦争に勝利した北軍に追い立てられ、家族皆殺しにされる立場だとしたら、と今になって心のなかで想像することはできる。アメリカ・インディアンである自分は、いったい、なにをどうすることができただろうか。

私にはなにも思いつかない。結局は、ただ歴史の流れというものは、なんと冷酷で無慈悲で残酷なものなのかと、他人事へのため息をつくことで終わってしまう。

また、ウイグル族の運命を考えるときには同時に香港を思う。

しかし、香港は単純ではない。中国の多くに人々にとっては、少なくとも阿片戦争からの歴史の大きな流れに位置づけられているのではないかと想像するからである。イギリスの砲艦に敗れ南京条約を結んだのが1842年。それが返還されたのが1997年。現在問題になっているのは、返還後の50年間の一国二制度である。もしイギリスが往時の軍事力を誇っていれば、必ずや武力をもって中国の違約を攻めたてたことだろう。

▲写真 犯罪人引き渡し条例に反対するデモ隊(2019年8月12日 香港) 出典:Anthony Kwan/Getty Images

香港に生まれ育った人々は、つい最近まで限定的であっても民主主義のなかに生きていた。

ここでも、日本に似ているという思いにとらわれる。民主主義のことではない。民主主義は戦争の前から日本にも存在していた。問題は国の独立である。日本はアメリカとの戦争に負けて、自国の安全保障をアメリカに委ねることになった。それまであった独立を半ば放棄し、そのままでいる。

香港は?中国が阿片戦争に負け、領土をイギリスに奪われた。以来、限定的ながらそこには、明治維新以来の日本、殊にアメリカとの戦争に負けて以来の日本に存在している民主主義と同様のものが存在していたということである。

その前提たる国の安全は誰が保障していたのか?イギリスである。現在の日本の後ろ盾にアメリカが存在していることと似ているではないか。すると、日本の民主主義は誰が守るのか。その前提たる香港の安全は誰が保障するのか。アメリカなのか?どうして日本自身ではないのかという問いに到る。

1億2600万人いる日本人の一人として、果たして「今なすべきこと」は何なのだろうか?

生活のために就いている現在の仕事に精出し、その合間に日本の未来、世界の未来に奔走している方々を少しでも応援することはできるだろう。『ハチドリのひとしずく』という南米の民話があるという(朝日新聞2021年4月4日)。燃える森林への小さな小さなハチドリが一滴ずつ水を落とす。ハチドリは言う、「わたしにできることをしているだけ」。吉田松陰もまた農民の作った米を食べて生きていたのだ。たくさんの志のある方々、心ある方々がいる。そうした方との語らいの時は、私を目覚めさせ、鼓舞する。

日々の仕事は私に世の中を理解させてくれる。どちらに向かって、どう歩くべきかを教えてくれる。もちろん、その合間に本を読み、メディアの情報に接し、友人や知人との議論で大いに学ぶ。中国は現在の日本にとって世界で一番の大事な貿易の相手国である。14万人の同胞が滞在している国でもある。

▲画像 リンカーン大統領によるゲティスバーグ演説(1863年11月19日) 出典:Library Of Congress/Getty Images

リンカーンはゲティスバーグで、「ここで戦った人々が気高くもここまで勇敢に推し進めてきた未完の事業にここで身を捧げるべきは、むしろ私たちである。」と演説している。あの有名な「人民の人民による人民のための政治」についての直前部分である。(101頁)

著者は、「リンカーンは・・・北軍・南軍の区別なく戦死した勇者を顕彰し、霊妙化をはかった。奴隷制にもふれず、ただ独立宣言に謳われた自由の理念に言及することで、生者に自由の新しい誕生をもたらすべく、未完の事業に献身することを呼びかけた。」(同頁)と説く。

リンカーンのゲティスバーグでの演説以来約160年。事業は未完のままである。進歩はあった。しかし、世界が二度戦ったのはリンカーンの演説の約50年後から約80年後の30年間の間である。それからさらにもう75年が経っている。世界規模の戦争はなかった。しかし、それは人々が幸福に暮らしてきたことを意味しない。総体的には大きな被害がなかったとして、良しとすべきなのだろう。だが、被害者は苦しみ、死んだ。今も、この瞬間も、死んでいる。

アメリカと戦った日本は近隣を侵略した日本でもあった。日本の歴史は、明治維新以来、日米戦争に向けて流れ、日米戦争からすべてが流れ出しているということができそうな気がする。実のところ、今、この瞬間も滔々と流れている。

いったいどうしてアメリカと戦ったりしたのか。その省察は十分にはなされていない。たとえば、私は上記の本と並行して今村均陸軍大将の『幽囚回顧録』(中公文庫) も読んでいたのである。

(続く。

 

【訂正】2021年4月5日

本記事(初掲載日2021年4月4日)の本文中に訂正がありました。

 

誤)南北戦争は1861年4月の南軍の攻撃で始まり、5年間続いた。日米戦争も日本の攻撃で始まり5年間続いた。
正)南北戦争は1861年4月の南軍の攻撃で始まり、4年間続いた。日米戦争も日本の攻撃で始まり4年間続いた。

誤)私も、つい最近「米国人や世界の消費者は、強制労働でつくられた製品を求めていない。」と3月1日づけで米国通商代表部(USTR)が通商政策報告書を議会に提出したという記事を読んだ。
正)私も、つい最近「米国人や世界の消費者は、強制労働でつくられた製品を求めていない。」と米国通商代表部(USTR)が3月1日づけで通商政策報告書を議会に提出したという記事を読んだ。

誤)私はこの記事を読んで、そうだったのか、もう米中対立はそこまで来てしまったのか、と感慨があった。
正)私はこの記事を読んで、そうだったのか、もう米中対立はそこまで来てしまっているのか、と感慨があった。

誤)私は、その主題歌、「荒れた西部を緑の街に、築く平和の使命は重く」をよく口ずさんだものだった。
正)私は、その主題歌、西部開拓が平和のための使命だという内容をよく口ずさんだものだった。

誤)その前提たる国の安全は誰が保障していたのか?イギリスである。
正)その前提たる香港の安全は誰が保障していたのか?イギリスである。

 

【加筆】 2021年4月5日

『ハチドリのひとしずく』という南米の民話があるという(朝日新聞2021年4月4日)。燃える森林への小さな小さなハチドリが一滴ずつ水を落とす。ハチドリは言う、「わたしにできることをしているだけ」。吉田松陰もまた農民の作った米を食べて生きていたのだ。




この記事を書いた人
牛島信弁護士

1949年:宮崎県生まれ東京大学法学部卒業後、検事(東京地方検察庁他)を経て 弁護士(都内渉外法律事務所にて外資関係を中心とするビジネス・ロー業務に従事) 1985年~:牛島法律事務所開設 2002年9月:牛島総合法律事務所に名称変更、現在、同事務所代表弁護士、弁護士・外国弁護士56名(内2名が外国弁護士)


〈専門分野〉企業合併・買収、親子上場の解消、少数株主(非上場会社を含む)一般企業法務、会社・代表訴訟、ガバナンス(企業統治)、コンプライアンス、保険、知的財産関係等。


牛島総合法律事務所 URL: https://www.ushijima-law.gr.jp/


「少数株主」 https://www.gentosha.co.jp/book/b12134.html



 

牛島信

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