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.社会  投稿日:2021/8/25

捕虜にもなれなかった日本兵「戦争追体験」を語り継ぐ その5


林信吾(作家・ジャーナリスト)

「林信吾の西方見聞録」

【まとめ】

・「戦陣訓」、前線の兵士の規律に度し難いほどの乱れが生じたため作られた。

・しかし、捕虜が生じることは避けられないことを理解できていなかった。

・精神論に凝り固まって補給や情報を軽視した日本軍。

 

戦史にさほど関心が深いと言えないような人でも、旧日本軍について、捕虜になるくらいなら死ね、という教育を受けていたということは、一度くらい耳にしたことがあるのではないだろうか。

本当はもう少し複雑な事情がある話で、1941(昭和16)年1月8日に、時の陸軍大臣・東条英機大将の名で発表された「戦陣訓」の中に、「生きて虜囚の辱(はずかしめ)を受けず 死して罪禍の汚名を遺すことなかれ」(現代仮名遣いにて表記)

という一節があることを、まずは知っていただきたい。

もともと先陣訓とは、読んで字のごとく戦場における行動規範を文章化したもので、室町時代・戦国時代から、幾度となく発せられていた。上杉謙信が「逃げる敵は追うな」「敵の補給を絶つような戦い方はするな」と説いていたことは有名だ。軍事的にはナンセンスであるけれど。

しかし今や、戦陣訓と言えば、もっぱら昭和のそれを指すようになっている。理由について、詳しい説明は不要だろう。

ここで問題なのは、この戦陣訓が起草された背景だ。

前にも述べた通り、今でも多くの人が昭和の戦争真珠湾攻撃を機に始まった米国との戦争ばかり連想するが、本当はそれ以前に、中国と「宣戦布告亡き戦争状態」にあった。

むしろ、この戦争状態を国際世論は日本による侵略と断じ、ついには「ABCD包囲網」と称される経済封鎖がなされた。Aは米国=アメリカ、Bは英国=ブリテン、Cは中国=チャイナ、Dはダッチ=オランダである。オランダはインドネシアを植民地支配しており、ここの油田が、米国と並んで日本に対する原油供給源であった。

私が、これまた幾度も述べてきたことながら、大東亜戦争という呼称を認めないのは、対米開戦に至るこのような経緯について学んできたからである。資源欲しさで南方に進出したことを、欧米列強の植民地支配からアジアを解放するため、と言い張るのは単なる美辞麗句に過ぎないし、そもそもアジアを解放するのが目的なら、どうして中国と戦い続けなければならなかったのか、という話である。

ともあれ戦陣訓であるが、1941年初頭の時点で、中国との戦争はすでに泥沼化しており、前線の兵士たちの規律にも度し難いほどの乱れが生じていた。

「補給が足りなければ敵の物資を奪い取って利用せよ」

という方針を曲解して民間人から食料物資を略奪したり、暴行・強姦を働く者も後を絶たなかったのである。これはさすがにまずい、という判断からこの戦陣訓が起草されたわけで、本来の訓示は、軍旗を厳正に守ることで皇軍(日本軍)の威光を傷つけるな、というものであった。くだくだしく引用する紙数はないが、立派なことも書かれている。

しかしながら、当初の意図と違って漢文調の難しい、なおかつ長いものになってしまった上に、エッセンスだけを丸暗記させるという受験勉強式の教育をやらかしたものだから、捕虜になるくらいなら死ね、という教えだけが浸透してしまったものであるらしい。

要するに精神論に特化し、いかに勇猛な軍隊であろうが、実戦で捕虜が生じることは避けられない、ということを理解できていなかったのだろう。

たとえば、日米戦争における日本側の捕虜第一号は、なんと真珠湾攻撃の際に生じている。航空機による奇襲と並んで、2人乗りの特殊潜航艇による攻撃が企てられたが、出撃した5隻のうち1隻は、羅針儀が故障したため座礁。2人の乗員は、敵に機密が漏れるのを防ぐべく、時限爆破装置を起動させて脱出したが、指揮官の少尉が酸欠による失神状態で海岸に打ち上げられ、捕虜となったのである。操縦手は行方不明。おそらく溺死したものと思われる。

少尉は戦後帰国し、後にトヨタ自動車に入社するが、手記によれば、尋問された際、日本軍の空母や航空機の性能といった重大な機密を、あっさり自供してしまったという。

これは端的な一例で、前述のような事情から「捕虜になった場合の教育」をなにひとつ受けていなかった将兵は、尋問されると余計なことまでしゃべってしまい、結果的に日本軍の損害を増やしたのだ。

対する連合国側は、抵抗の手段を失った場合に捕虜となるのは恥ではなく、その時は他国の捕虜とも連携し、戦時国際法に反する扱い(拷問など)があれば強く抗議し、そして機会があれば脱走することまで奨励していた。これこそ『大脱走』などの傑作映画が生まれた背景である。

実は日本軍の捕虜たちも、脱走を試みた事例はあった。戦争末期の1944年8月にオーストラリアのカウラ収容所で起きた集団脱走事件など、後に「カウラ事件」として知られるようになる。

あの日 僕らの命はトイレットペーパーよりも軽かった』というドラマが秀逸だ。

2008年に日本テレビ系列で放送されたもので、脚本・中園ミホ、主演・大泉洋、小泉孝太郎という取り合わせは、2007年にヒットした『ハケンの品格』というドラマの再来である(同ドラマの主演は篠原涼子)。

なんでも、中園さんの伯父にあたる方がカウラ事件の生存者で、その話を聞かされて以降、ずっと脚本の構想を温めていたという。ところが「恋愛ドラマの名手」と謳われた彼女が戦争ドラマの企画を持ち込んでみても、取り合うプロデューサーがなかなか現れなかった。そんな時、たまたま小泉孝太郎が脚本の草稿を読み、是非やりたい、と言って大泉洋にも声をかけ、売れっ子がもう一度組むと言うのなら……となって企画が実現したと聞く。ちなみに生存者と同道する若い女性(中園さん自身の投影と思われる)は、加藤あいが演じた。彼女も『ハケンの品格』で好演した一人である。

笑いを取るドラマではなかったが、小泉孝太郎扮する日本兵が尋問を受けた時のやり取りは、笑うしかなかった。部隊(所属)と名前を問われて、

「98部隊。名前は……長谷川一夫」

すると、日本語を話す情報将校の答え。

「天下のスター長谷川一夫は、君で8人目です。本当の部隊と名前を言いなさい」

「99部隊、榎本健一」

「喜劇の王様エノケンは5人目です」

いや、本当は笑いごとではない。日本軍とて諜報活動は行っていたが、前線の情報将校レベルで、得ている情報にここまで差があるとは。これこそが、精神論に凝り固まって補給や情報を軽視した日本軍の、敗残の姿であった。

▲写真 カウラ事件 日本兵脱走時に死亡したオーストラリア兵の埋葬(1944年8月5日) 出典:Australian War Memorial Provided under a Creative Commons Attribution-NonCommercial 3.0 Australia (CC BY-NC 3.0 AU) license.

南方よりもはるかに有名なのが、いわゆるシベリア抑留であるが、これについては、私はこれまで取り上げる都度、

「断じて捕虜ではない。戦時国際法を無視したソ連軍による残虐行為である」

と言い続けてきた。今もその考えは変わらないが、いずれにせよ我々戦後世代は、その実態をもっとよく知る必要がある。

自身も抑留体験者である五味川純平が『人間の条件』(岩波文庫他)という小説でその実態を描き出し、1959年から61年にかけて、三部作の形にて映画化された。余談ながら仲代達矢の出世作と称される。

まずは、この作品に触れるところから始めてはいかがだろうか。

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トップ写真:1941年12月、真珠湾で燃えるアメリカ軍の戦艦USSウェストバージニア 出典:Bettmann/Getty Images




この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト

1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。

林信吾

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