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.国際  投稿日:2021/9/25

麻薬という最終兵器 「列強の墓場」アフガニスタン その5


林信吾(作家・ジャーナリスト)

「林信吾の西方見聞録」

【まとめ】

・人類が作り出した機械文明も、自然界には及ばない面がある事を自覚すべき。

・1980年代、アフガニスタンに駐留するソ連兵の間では、麻薬が蔓延していた。

・米軍を追い出したアフガニスタンは、「列強の墓場」という評価を不動のものにした。

 

前に『ランボー3 怒りのアフガン』という映画が低評価を受けてたことを紹介させていただいたが、私も戦闘シーンを見て呆れかえった。

ソ連軍の攻撃ヘリコプターが地面すれすれまで降下してきたところへ、奪った戦車で体当たりをくらわすのだ。脚本家か演出家か、地上戦にヘリコプターを投入する意味を理解できていない人だけが、こういうことを思いついくに違いない。

ヘリコプター自体も、民間の機体をそれらしく見せかけたハリボテまがいであることが一目瞭然。ソ連製のMi(ミル)24がモデルなのだろうが、本物の操縦席はタンデム式すなわち射手と操縦手が前後に並ぶ形式であるのに対して(ちなみに射手が前)、映画ではサイド・バイ・サイド=横並びだった。

実際のところ、戦車並みの火力を誇るこの機体は、ムジャヒディーンたちにとって大いなる脅威となり、

「我々はロシア人など恐れない。でも、彼らのヘリコプターは怖い」

という証言が数多く聞かれたほどだ。トム・クランシーの小説の中でも引用されている。

ところが、米国がFIM92「スティンガー」対空ミサイルを供与したことで、状況は一変する。スティンガーとは毒針の意味だが、米軍が1981年に採用した地対空ミサイルで、全長およそ152㎝(=5フィート)、照準器やバッテリーなどを含めたシステム重量が15.6㎏ほどで、歩兵が一人で運搬・射撃できる。

目視で敵機に照準を合わせて撃つが、赤外線追尾装置が組み込まれており、発射後は鉄器のエンジンが発する熱線を検知して、どこまでも追いかけて行く。実戦での命中率が79%に達するとされ、これはギネス記録にも認定されているほどだ。

▲写真 「ランボー3 怒りのアフガン」(1988年1月1日) 出典:Photo by Columbia TriStar

これに対してMi24の初期型は、機種に口径12.7ミリのガトリング式機銃を備えていた。電動モーターで4本の銃身を回転させつつ絶え間なく発射することにより、毎分4000発以上もの射撃ができるのだが、有効射程距離が1500メートル内外にとどまるため、地対空ミサイルを装備したムジャヒディーンを掃討しようとするのは、危険極まりないとされてしまった。この事態を受けてソ連軍は、23ミリ、30ミリといった、大口径で射程距離も3000メートル内外に達する機関砲を搭載するようになった。

ソ連軍はまた、BMP-1という歩兵戦闘車をアフガニスタンに投入した。装甲兵員輸送車に軽戦車並みの火力を持たせたものと思えばよい。73ミリ低圧砲(発射時の反動が小さいため、車体の大きさに比して大口径の砲を装備できる)と機銃、それに誘導式対戦車ミサイルまで備えていて、1970年代に実戦配備された時は「BMPショック」と呼ばれるほどの衝撃を西側軍事筋に対して与えた。

ところがアフガニスタンにおいては、主砲の仰角が小さすぎて、崖の上から攻撃を仕掛けてくるムジャヒディーンに対抗できないことが明らかになってしまった。こちらもまた、対空射撃も可能な30ミリ機関砲に換装したBMP-2が開発される契機となった。

そもそもアフガニスタンという国は、中央アジアの交通の要衝でありながら、道路などのインフラはまるで整備されておらず、峻険な山岳地帯が国土の多くを占める。

「運転の上手な者が四輪駆動車を操ったならば、地球上の大抵の場所に行ける」

とよく言われていたが、ドイツ製の四輪駆動トラックでさえ、アフガニスタンの悪路には歯が立たなかったと聞く。

ではムジャヒディーンはどうやって補給を確保したのかと言うと、なんとロバを活用したのであった。前述のような悪路でも、ロバならば相当な重さの荷物を背負って踏破できるのだそうだ。

ロバは偉い……いや、これはあながち冗談ごとではなく、たとえば海中の移動速度を考えてみても、最新鋭の原子力潜水艦よりイルカやシャチの方が速い。機械文明もまだまだ自然界の力には及ばない面があることを、我々は自覚すべきである。

話を戻して、ムジャヒディーンとの戦闘から教訓を得たソ連軍は、兵器の改良を重ねることで対応していったが、やがて別の問題に直面することとなった。

駐留軍に、麻薬が蔓延していったのである。

アフガニスタンは世界屈指のケシの産地で、山間部には大麻もたくさん自生している。ケシは阿片、大麻はマリファナの原料だから、いわば麻薬などいくらでも手に入るのだ。

1980年代の終わり頃に、英国の民放が、当時の(崩壊直前ではあったが)ソ連におけるアフガニスタン帰還兵を扱ったドキュメンタリー番組を放送した。将校だったという人物が、制服や勲章、糧食の缶詰などをブラックマーケットで売って、その金で大麻を買っていたと告白した。いわく、

「勲章など惜しくなかったが、缶詰は惜しかった」

別の帰還兵は、

「そもそも米軍がアフガニスタンを侵略するから、これを迎え撃つべく派兵されたはずだったのに、民間人と区別できないゲリラが相手で、早々に士気が下がった」

と語っている。

やはりヴェトナム戦争における米軍の二の舞だったか、などと思った。1987年に公開された『プラトーン』という映画で、厭戦気分に取りつかれてしまった米兵たちがマリファナで現実逃避を図るシーンがあり、その記憶が鮮やかだったのだ。

その後ソ連軍は撤退し、タリバン政権が誕生したこと、しかしながら2001年9月11日に米国内で起きた同時多発テロをきっかけに、今度は米軍がアフガニスタンに侵攻した経緯は、ここまで述べてきた通りであるが、実はここにも麻薬がらみの逸話がある。

まずタリバン政権は、ケシの栽培などを規制したが、これは、

「イスラム過激派は<ジハード=聖戦>を唱えているが、その実は麻薬を密売したカネで欧米から兵器を買っている」

「彼らの<死を恐れない戦いぶり>とは、実は麻薬のたまもの」

といったネガティブ・キャンペーンを打ち消す目的であったと見られ、実態はよく分かっていない。ただ、国連の調査によっても、この時期は麻薬の取引量が激減していた。

しかしその後、米軍が侵攻してタリバン政権が倒され、ハーミド・カルザイ大統領が擁立されたのだが、かの地に民主主義を根付かせるはずだったこの大統領の弟であるアフマド・カルザイという人物が、麻薬シンジケートを再興して巨万の富を得ていたのではないか、また、米国寄りの政策をとる見返りに、CIA(米中央情報局)などもそれを黙認していたのではないか、との疑惑が浮上した。

その後米軍は20年に及ぶ泥沼の戦いを強いらることとなる。この麻薬問題が元凶だとまでは言えないであろうが、新政権の腐敗ぶりにアフガニスタン国民が早々と愛想をつかしたことは疑う余地がない。だからこそタリバンも抵抗を続けられたのだ。

アフガニスタンの駐留米軍が麻薬に汚染されたという話は今のところ聞かないが、泥沼化した戦いによって神経症を患う将兵が後を絶たないと言う報告は、だいぶ以前からある。麻薬に手を出した兵士や帰還兵が絶無だったとは考えにくい。

いずれにせよアフガニスタンは、ついに米軍までも追い出して、ますます「列強の墓場」という評価を不動のものとした感があるが、逆の視点から見ておく必要もあると思う。

国民も国際世論も支持しない戦争を強行したならば、どこの国でも「墓場」になり得る、ということではないだろうか。

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トップ写真:武装したタリバン兵がカブール郊外にいる様子(撮影日不明) 出典:Photo by Per-Anders Pettersson




この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト

1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。

林信吾

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