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.国際  投稿日:2022/8/15

「我々はもう一度勝てる」とロシアは言う(上)戦争と歴史問題について その2


林信吾(作家・ジャーナリスト)

林信吾の「西方見聞録

【まとめ】

第二次世界大戦に対する認識によって戦争の終わりを記念する日が異なる。

・英国では8月15日の「VJデー」より、5月8日の「VE Day=Victory in Europe Day ヨーロッパ戦勝記念日」の方が、国民の大きな関心事となっている。

・ロシア人女性にソ連邦時代の思い出についてインタビューを行った。

 

8月15日は終戦記念日である。

これについて、変えた方がよいのでは、という意見があることをご存じだろうか。

理由は、日本人がとかく好んで口にしたがる「世界の大勢」というやつだ。

具体的にどういうことかと言うと、米国など多くの戦勝国にあっては、東京湾にやってきた米戦艦「ミズーリ」の艦上で、日本の全権代表が降伏文書に署名した、1945(昭和20)年9月2日をもって第二次世界大戦が終結したと認識され、歴史の教科書にもそのように書かれている。ドメスティック(内輪)な記念日に意味があるのか、というわけだ。

たしかに米国では、時のハリー・トルーマン大統領が、ラジオ放送を通じて9月2日を「VJ Day=Victory over Japan Day 対日戦勝記念日」とする、と宣言した。

一方8月15日とは、日本が連合国に対し、ポツダム宣言を受諾する旨を伝達し、降伏を受け容れた日であって、正午のラジオでは臨時特番として、

「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び……」

という有名な玉音放送が行われた他、前線にいた陸海軍部隊に対しては、一切の戦闘行為を停止し、連合軍から武装解除を命じられた場合は抵抗せず従うよう、無電で命令が発せられた。日本人の多くが、この日をもって戦争が終わったと認識するのには、根拠があるのだ。

さらに言えば、同じ戦勝国でも英国は8月15日を「VJ Day」としているし、中華民国とソ連邦では9月3日に大規模な先勝祝賀会が開かれたことから、この日を戦勝記念日としている。中華人民共和国でも「抗日戦争勝利記念日」は3日だ。

ソ連邦が崩壊した後も、ロシア連邦がこれを受け継いでいたが、2010年にあらためて、9月2日を「第二次世界大戦終結記念日」とする法案が可決された。

詳しいことまでは分からないのだが、ソ連邦は8月9日、当時まだ有効だった日ソ不可侵条約を一方的に破棄して旧満州になだれ込み、日本がポツダム宣言を受諾した後も、9月2日まで戦闘行為を停止しなかった。この間に千島列島(=北方領土)が占領され、また多くの日本軍人がシベリアに連行されて、過酷な抑留生活を強いられた。他にも占領地域において、逃げ遅れた邦人は略奪・暴行・レイプなどの被害に遭った上に、民間人であるにも関わらずシベリアに連行・抑留された例も少なくない。

明らかに戦時国際法を無視した蛮行だが、連合軍の一員として義務を果たしたまでである、との論法でこうした行為を正当化したいのではないか、と見る向きもある。

話を戻して、日本も終戦記念日を変えた方がよいのでは、という意見に対し、私は一貫して反対の立場をとり続けている

理由は簡単で、ソ連邦・ロシアの例を引くまでもなく、記念日などもともとドメスティックなものであり、世界の大勢など虚構に過ぎないではないか、ということだ、

結婚記念日を考えてみればよい。これとてオフィシャルには婚姻届が受理された日をもって記念日としなければならないはずだが、大半の夫婦は挙式の日を記念日としている。・それで誰かに迷惑をかけていますか、という話である。

これは言葉遊びや判じ物ではない。何月何日を記念日にするかが重要なのではなく、なんのための記念日なのか、毎年その意義を考え直すことが重要なのだ。

もうひとつ、知っていただきたい事実がある。

前述のように英国では8月15日を「VJデー」としているが、大した盛り上がりは見られない。5月8日の「VE Day=Victory in Europe Day ヨーロッパ戦勝記念日」の方が、マスメディアでも取り上げられ、国民の大きな関心事となっている

▲写真) ウェイマスのエスプラネードにある戦争記念館でヨーロッパ戦勝記念日に死者を記念する活動、イギリス(2020.5.8) 出典:Photo by Finnbarr Webster/Getty Images

ただ、前にもこの連載で取り上げたことがあるが、1988年秋、昭和天皇が重篤な病気である、との報道がなされた直後には、複数のメディアが、その戦争責任を問う記事を掲載したし、一部の元軍人は。ロイヤルファミリーが葬儀(大喪の礼=1989年2月24日)に参列することに反対する声明を出したりした。当時は今のようなネット社会ではなかったが、どこが発信源なのか「ヒロヒットラー」などという呼称も人口に膾炙していたのを覚えている。

やはり戦争で敵味方になった歴史は、そう簡単に清算できるものではないのだ。

ここであらためて、ロシアに目を向けてみよう。

ロシアでもやはり、対日戦勝記念日より「大祖国戦争終結記念日」の方が大きなイベントだ。なにしろ祝日にまでなっている。5月8日でなく9日だが、その理由について、今更くだくだしい説明は不要だろう。

本連載では、3月に「反戦ロシア人の声を聞け」と題したインタビュー記事を掲載し、5月にもウクライナ情勢について、あるロシア人女性が取材に応じてくれた。

今回もまた、最新情報からソ連邦時代の思い出まで詳しく聞くことができたので、読者にもその知見をお届けしたいと思う。

彼女の名前や素性は明かせないが、その理由は前述の記事で具体的に述べたので、ご参照願いたい。

 彼女も、9月2日の対日戦勝記念日については、

「誰も覚えていない、と言ってよいでしょう」

と言い切った反面、前述の「大祖国戦争終結記念日」は、

「昔(ソ連邦時代)は、お正月の次に大事な日だとされていました」

と語る。レニングラード(現サンクトペテルブルク)の出身だが、子供の頃、父上に手を引かれて、記念日のパレードを見た記憶もあるそうだ。

ソ連邦は、第二次世界大戦において最大の犠牲者を出した国である。

▲写真 第二次世界大戦初期、ポーランドに派遣されたソ連の兵士たち(1939.12.01) 出典:Bettmann/GettyImages

1993年にロシア科学アカデミーが公表したところによれば、軍人・民間人合わせて2660万人が犠牲になったという。本当は4000万人を超えるのではないかと見る向きも多い。

これに対してナチス・ドイツは、ドイツ赤十字社の統計によると、オーストリア及び東欧のドイツ系国民も含めて、犠牲者数430万(死者310万、行方不明者120万)である。

大日本帝国は310万人の犠牲者を出しているが、この数字は日中戦争始まった(世に言う日華事変)1937年以来の戦死者と、国内外における戦災で命を落とした民間人の総数として記録にとどめるとの閣議決定がなされた(1963年5月14日)。これについては、項を改める。

いずれにせよソ連邦における犠牲者の数は突出して多く、わけても彼女の出身地(偶然ながらプーチン大統領も)であるレニングラードは、300日にわたってナチス・ドイツ軍に包囲され、一説では100万人以上もの餓死者まで出している。

「それだけの犠牲を出して戦争に勝ったということは、素直にすごいと思いますが」

と前置きした上で、

「でも、プーチン大統領になってから、この記憶がどんどんパトリオティズム(戦闘的愛国心)をあおる道具として利用されているのは、納得しかねますね」

と語った。具体的にどういうことかは、次回。

(下につづく)

トップ写真:米戦艦「ミズーリ」の艦上で日本の降伏(1945.9.2) 出典:Bettmann/GettyImages




この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト

1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。

林信吾

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