「血筋の価値」と近親結婚(下) 王家の結婚について その3
林信吾(作家・ジャーナリスト)
「林信吾の西方見聞録」
【まとめ】
・ハプスブルク家は政略結婚によって勢力を広げていった歴史がある。
・後にオーストリアとスペインの両ハプスブルク家間での近親結婚が増加する。
・近親結婚をタブー視する背景には重層的な問題がある。
シリーズ第1回でハプスブルク家について述べた。
もともとはスイス北部の小豪族に過ぎなかったが、巧妙な政略結婚政策によって勢力を広げ、ついには神聖ローマ帝国の君主の座を世襲するまでになったのである。この神聖ローマ帝国について、
「ローマ人の国ではないし、神聖でもなく(法王庁との関係性から言って)、そもそも帝国ですらない」
などと評した人もいるのだが、当の歴代君主は気にすることもなかったであろう。ごく大雑把に言えば、ローマ法王庁の政治・軍事部門を頼まれもしないのに買って出た、といったところだ。
この神聖ローマ帝国を中心に「ハプスブルク帝国」と呼ばれることも多いのだが、本項ではハプスブルク家で統一させていただく。
また、政略結婚政策などとは、いささか陰謀論めいて聞こえがよくないかもしれないが、実際には大半の縁組が夫婦円満で子宝にも恵まれた。このことがまた、次世代の政略結婚をさらに容易にするという好循環が生まれたわけだ。
ともあれ16世紀になると、まずスペイン、次いでポルトガルの王位を手中にしたが、これまた戦争ではなく政略結婚の成果である。
ただ、イベリア半島の人たちにとっては、結局「征服王朝」でしかなかったようで、わが国の文献では一般にスペイン・ハプスブルク家と表記されているが、当のスペインでは昔も今もカサ・デ・アウストリア(オーストリア家)としか呼ばれない。
ともあれ当時イベリア半島の両国は、中南米の大半をはじめアフリカ大陸沿岸部、さらにはフィリピンまでも植民地支配していた。
「日の沈むことなき大帝国」という呼称は、大英帝国に先んじてハプスブルク家に与えられたものなのである。
こうして大帝国を築いたハプスブルク家であったが、それまでの政略結婚政策から一転、近親結婚を繰り返すようになった。
その理由については、政略結婚で拡大しきった領土が、今度は結婚によって細分化されることを警戒したのだ、と見る向きが多かったようだが、色々と読んでみると、どうもそこまで単純な話ではないように思えてくる。
要は、他に「婚活」の選択肢が限られてきてしまった、ということではあるまいか。
まず、神聖ローマ帝国の君主すなわちカトリックの守護者という地位に就いた以上、プロテスタントの王侯貴族との婚姻はあり得ない話になった。英国王室がカトリックの王位継承権者を認めず、もっぱらプロテスタント貴族の子女を妃に迎えていたのと、まさしく好対照だったのである。
なおかつヨーロッパ随一の名門と呼ばれるまでになってみると、家格の低い相手との婚姻は難しくなった。自分たちの過去は棚に上げて、家格や財産に惹かれて縁談を持ち掛けてくる手合いが現れるのを警戒するようになったというわけだ。この文脈で考える限り、領土が細分化されるのを嫌ったという見方も、あながち的外れでもないようではあるが。
かくしてオーストリアとスペインの両ハプスブルク家の間で、叔父と姪、あるいはいとこ同士の結婚が繰り返されるようになる。
問題はこの先で、17世紀以降のハプスブルク家には、顎のかみ合わせが悪くて食事がちゃんとできないといった障害を抱えたり、虚弱体質で早世する子供が続出したのである。
これは近親結婚の弊害に違いない、と考えた人が多かったわけだが、これまた最近の研究では、どうも鵜呑みにはできない話だとされているようだ。
まず、いとこ同士の結婚は現在でも多くの国で認められていることで、とりたてて問題があるとは考えられていない。その以前に、近親結婚で「血が濃くなりすぎる」と昔からよく言われるのだが、それは医学的にどういう事なのか、現在に至るも説明がつかない事柄なのである。
それならば、どうして近親結婚がタブー視されてきたのか、との疑念を抱かれた向きもあると思うが、これも前回少し触れたように、重層的な問題が存在するのだ。
そもそも論から述べると、近親結婚と遺伝子の問題にどういう関わりがあるのかは、データが少なすぎて現時点では解明に至っていない。現時点ではというのは、遺伝子工学などがさらに発達すればあるいは……との期待はあるのだと聞く。
ただ、経験的にそうした問題が存在することは知られていたので、だからこそ『旧約聖書』の時代からタブー視されてきたのだ、という見方には説得力がある。
そのまた一方では(これは差別的に述べるわけではないことを明記しておくが)、どこの国でも閉鎖的な山村などでは、非公式のそれも含めた近親結婚は割と普通のことであったと考える人もいる。
別の立場もあって、これは医学や遺伝学でなく、社会学や心理学の問題ではないか、と考える人も、最近は増えてきているようだ。
人間は社会的動物である、と言われるが、優秀な子孫を残したいという動物の本能はしっかりと受け継がれている。つまりは血族以外の相手と結婚することで生活圏も広がる上、多様の多様性も期待できると考えられるようになり、その裏返しとして血族結婚をタブー視するようになったに過ぎない、というのが社会学的な問題だとする立場だと言える。
これに対して心理学的な問題だとするのは、20世紀初頭に英国の心理学者たちが盛んに主張した説に基づいたもので、煎じ詰めて言うと、幼い時から一緒に育ったきょうだいなどは、性欲の対象になりにくい、と考えるものだ。一時期はすっかりすたれた学説だが、最近あらためて注目されつつあるようだ。
その話はさておき、やはり王侯貴族ともなると、なにぶん財力や権力が備わっているだけに、結婚相手を選ぶにも一苦労、ということであるらしい。
……と言いたいところだが、本当は王侯貴族に限られた問題ではあるまい。
私自身は見合いの経験がないのだが(一度くらい経験しておけばよかった、と思うことはある笑)、見合いに先立って、写真と共に釣書というものを交換することを、割と最近知った。
読み方は「つりがき」でも「つりしょ」でもよいそうだが、要はプロフィールだ。結婚相手を釣るためのもの、というのではなく、相手と「釣り合いが取れている」ことをアピールするのが本旨なのだとか。
これは結構大事なところで、わが国では長きにわたって、結婚とはすなわち「家と家との結びつき」だとされていて、だからこそ家格が釣り合うかどうかということが大きな問題だったのである。
ヨーロッパでは、まあ国によって事情は多少異なるのだが、身分とか階級といった概念と結婚とを切り離す考え方は、それほど広範に浸透していたとは言い難い。だからこそ『シンデレラ』のようなストーリーも生まれ、好まれてきたのだ。
よいか悪いかは別にして、今次我が国のプリンセスの結婚が賛否両論の対象となったのも、そこに(たとえ象徴的な事柄であれ)血筋や身分といった意識が関係していない、と考えるのは難しい。
その考察は最終回にするとして、次回はイスラム圏における結婚問題を取り上げる。
トップ写真:ハプスブルク家最後の皇帝、オーストリアのカール1世(1887年から1922年)彼は1916年から1918年までハンガリー国王として君臨した。1918年に退位した後、妻のジータ(1892年-1989年)と家族と共にスイスに亡命した。 撮影:1921年2月8日 提供:Photo by Topical Press Agency/Hulton Archive/Getty Images
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この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト
1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。