無料会員募集中
.社会  投稿日:2021/12/14

「年賀状は願いを込めた小文学作品」 続:身捨つるほどの祖国はありや12


牛島信(弁護士・小説家・元検事)

【まとめ】

・年賀状を廃する動きが目立ってきたが、旧来の習慣はにわかには止めがたい。

・個人用の年賀状は、私の密かな思い、願いを込めた小文学作品。

・尊敬する先輩からの書簡に心動かされた。故人となった先輩ならどうするか、と考えるのが習慣に。

 

私は弁護士である。副業として小説を書く。エッセイもつづる。

弁護士はどうして年賀状に「弁護士」と肩書を入れるのか、という問いがある。ふつうどこでなにをしているのかは、年賀状に入れないものでしょうといわれれば、確かに、「〇〇社 第三営業課長」などという役職を氏名に付した年賀状など、あまり見かけない。

昔、弁護士は広告が禁止されていたので、ここに弁護士がいますよ、と広く知らせる唯一の方法が年賀状だったのですよ、と解説されたことがある。

そういえば、1,000枚の年賀状を出せるくらいになれば独立することができる、と言われたものだった。弁護士の数が少なかった昔の話である。

年賀状を廃する動きが急に目立ってきた。それなりの理由のあってのことである。

だが私は、来年の年頭用に、今年も事務所と個人とで異なる内容の年賀状を準備することだろう。旧来の習慣はにわかには止めがたいというところだろうか。メールでと考えないでもないが、未だ紙で送るつもりでいる。あの、お年玉付き年賀状である。ひょっとしたら受け取る方はそろそろ迷惑に感じるのかもしれない。紙で情報をもらうと、整理に往生する時代なのである。

実は、個人用の年賀状には毎回ひそかな思いを込めてきたつもりでいる。私なりに、私の小文学作品だと思っているのだ。

年に一度、元日の朝に私の一年の要点を報告し、将来への思いを述べ、さらに森羅万象にわたる。謹賀新年とだけ印刷された年賀状をもらっても、ああ無事にお過ごしなんだなという以外のことは伝わらない。私にはそう思える。人それぞれということであろう。

こんな年頭だろうと思っています、とお伝えしたい。その願いを文章にするのである。

考えてみれば、もともとは私個人の年賀状しかなかったのだ。事務所用に別の年賀状を出すようになってもう30年にはなるだろう。手もとには過去に個人で出したすべての年賀状はない。自分宛てには年賀状は出さないからである。

一度、正月になってから、コタツに入って墨と筆で一枚一枚、送り先の住所と宛名を何日かかけて書いたこともあった。「謹賀新年」としたためるのが精いっぱいだった。

それでも、「墨痕鮮やかな年賀状をいただき」と返事をくれた友人がいた。だが、彼ももう亡くなって何年にもなる。

目の前に平成8年から去年までの年賀状のコピーがある。途中、喪中で欠礼したことが二、三回、その他にも、印刷して準備万端整えていながら、5,000枚を廃棄したこともあった。あれはなぜだったのか。もちろん覚えている。私は、そのとき、膨大な量の年賀状を目の前に見ながら、或る理由で出すのが嫌になったのである。そんなことがあった。

平成8年の年賀状は転居を伝えている。生まれてから32年の間に14回の引っ越しをし、その後の14年間は動くことがなかったとある。輪島の朝市で「時雨れる」という美しい言葉の意味を、頭や肩や背中で感じたとも記している。

翌年には、タワーブリッジが出てくる。ロンドンで飲む紅茶の美味しさを報告しているのだ。

▲写真 ロンドンのタワーブリッジ 出典:Photo by Grant Smith/Construction Photography/Avalon/Getty Images

高校の同窓会も出てくる。あのとき会った同級生の一部は、もうこの世にいない。

そしてニューヨークでの長期滞在と谷崎潤一郎の全集を毎晩読んでいるとの報告。長いエスカレータを歩いて昇っていること。これも最近は禁止されつつあるようだ。時勢である。

平成10年には、初めて小説を出したと言わないではいられなかったようだ。4回目の丑の年とあるから、48歳になる年だったことになる。そのとおり、私は47歳のときに最初の小説『株主総会』を出したのである。

コンコルドにも乗っている。ニューヨークからパリへの航路だった。もう飛んでいない。

平成12年には、香港で酔っ払い海老を食べたと報告している。よほど美味しかったのだろう。この年には恵比寿のガーデンプレイスにある小さなお城のようなレストランでのランチにも触れている。そういえば、フランス人の友人と二人だったと思い出す。

平成14年にはパリでミラボー橋を渡った報告だ。今でも周辺の風景を覚えている。

翌年にはピカソ美術館へ行ったとある。あのときのことは小説にも書いた。大きな目標を抱えているともある。実現しなかった。それどころではないことが、この年には起きたのだ。

▲写真 パリのピカソ美術館 出典:Photo by Thierry Chesnot/Getty Images

間をおいて平成18年の年賀状は、山王パークタワーへの事務所移転を知らせている。それまでは約20年間、南青山のツインタワーにいたのである。1985年、昭和60年からのこと。いずれあのビルも取り壊されるのだろう。どんどん街の風景が変わる気がしているが、なんのことはない、自分が年齢を重ねて昔からの記憶がどんどん積み重なっているので、比較対象の数が多いだけである。

「エポレット(肩章)輝きし友 こがね髪 ゆらぎし少女(おとめ) はや老いにけん」と鷗外が20年前のベルリン時代に回顧しているが、それは私のものでもあると書いたのは、平成22年、もう60歳を超えての感慨である。

翌々年、3.11のときには、オフィスにいた。

なんども漱石について書いている。鷗外についても同じ。

「ふと人生は繰り返しに過ぎず、終点はないのだと錯覚することがあります。もう直ぐ思い知らされるとわかってはいます。」と書いてから、「未だ、昔を偲ぶ心境には至っていません。夢のなか、若いまま、なのです。」と書いた平成30年。65歳。

その翌年の正月に歳を感じ、高校卒業以来という定期的な運動を始めた。

今の私は、その延長上にいる。週2回、運動をしている。

つい先週、早川吉春さんが亡くなった。尊敬する先輩であり、大変お世話になった方だった。UFJ銀行が三菱銀行と合併する際、ITのために数か月延期となり、そのおかげでUFJ銀行の業務監視委員だった私はUFJ銀行の新任社外監査役だった早川さんとお逢いすることになったのだ。

「あなたの目線には憐れみがあるね」と誉めてくださった、いろいろな会合に呼んでくださった。たくさんの素晴らしい方々との出逢いの機会を作ってくださった。

不思議な方で、「早川さんに頼まれると断れないんだ」と、何人もの実業界のトップの方々が言われた。価値創造フォーラムほか、いろいろな団体を主宰されていた。

もともとは公認会計士でいらしたのだが、それは早川さんのごく一部しか説明しない。

例えば或る上場会社の社外取締役を任期途中でお辞めになったときのこと、その理由について書簡の形で何人もの人々へ説明をされた。私も受け取った一人で、早川さんらしい、だから人の心を動かすのだろうと思った。

亡くなられる2週間ほどまえに電話でお話しした。忙しい方が電話に出てくださった。

恩返しできないうちにいらっしゃらなくなってしまわれた。ご冥福を祈らずにはいられない。

早川さんならどうするか、と考えるのが、私のこれからの習慣になることだろう。

(続く)

トップ写真:年賀状(イメージ) 出典:Photo by gyro / Getty Images




この記事を書いた人
牛島信弁護士

1949年:宮崎県生まれ東京大学法学部卒業後、検事(東京地方検察庁他)を経て 弁護士(都内渉外法律事務所にて外資関係を中心とするビジネス・ロー業務に従事) 1985年~:牛島法律事務所開設 2002年9月:牛島総合法律事務所に名称変更、現在、同事務所代表弁護士、弁護士・外国弁護士56名(内2名が外国弁護士)


〈専門分野〉企業合併・買収、親子上場の解消、少数株主(非上場会社を含む)一般企業法務、会社・代表訴訟、ガバナンス(企業統治)、コンプライアンス、保険、知的財産関係等。


牛島総合法律事務所 URL: https://www.ushijima-law.gr.jp/


「少数株主」 https://www.gentosha.co.jp/book/b12134.html



 

牛島信

copyright2014-"ABE,Inc. 2014 All rights reserved.No reproduction or republication without written permission."