箱根駅伝の功罪 年末年始の風物詩について その4

林信吾(作家・ジャーナリスト)
林信吾の「西方見聞録」
【まとめ】
・年末年始はスポーツ中継が多い。とりわけ1月2日、3日に放送される箱根駅伝は人気。
・世界レベルのマラソンランナーがなかなか出てこないのは、駅伝が一因なのではと見る向きも。
・孤独との戦いとも言われるマラソンより、仲間が襷をつないで行く駅伝の方が、平和の祭典にはふさわしい気もする。
年末年始はスポーツの中継も多い。とりわけ1月の2日、3日に放送される箱根駅伝は、多くの人が見る。
私見、食い入るように見る人はさほど大勢おらず、昼の時間帯なので、正月の酒と料理を楽しみながら、という人が多いようではあるが。
私も中学時代は陸上部員で、しかも長距離(と言っても、中学では1500メートル)走者だったのだが、マラソンや駅伝の中継にそれほど熱くはならない。端的に、マラソンの中継を2時間見るよりも、サッカーの中継を2時間見た方がずっと多くのものを得られるように思うからだ。
それに、一般的にはあまり知られていない話だと思うが、陸上界、とりわけマラソン関係者の間からは、箱根駅伝について批判的な声も聞かれる。
個人的な思い出を少し語らせていただくことをお許し願いたいが、10年ほど前、実家のある板橋区内の道場で少林寺拳法を教えていた中学3年生から、某文化大学の附属高校に進む決意を聞かされた。
学業もなかなか優秀な子で、同学の関係者には申し訳ない表現になるが、ご両親は、もっと偏差値の高い学校も狙えるのに、と言って、あまり良い顔をしていなかったそうだ。
しかしその大学はスポーツでは強豪で、とりわけ陸上部は、附属高校ともども名をはせ始めた時期であった。
「箱根駅伝を走りますよ」
というのが当人の弁で、高校進学後も道場へは時折顔を出していたが、陸上の方はどんな調子だ、と尋ねると、
「いやあ、23区内の中学のエース級が集まってますからね。なかなか……」
と言って頭をかいていた。
実はこれが、マラソン関係者の一部が箱根駅伝に批判的な目を向ける理由なのである。
関東限定の、学生の地方大会に過ぎないこのイベントが、日本テレビ系で全国に中継され、今や正月の風物詩とも言える地位を確立している。
この結果、全国の高校陸上部でエース級と称される長距離ランナーたちが、こぞって首都圏の駅伝強豪校への進学を志すようになり、彼らを受け容れた大学陸上部も、いきおい駅伝に特化した練習をする。
世界レベルのマラソンランナーがなかなか出てこないのは、これも一因なのではないか、というわけだ。
そう言われてみれば、1992年バルセロナ五輪の銀メダル(森下広一選手)を最後に、つまり今世紀に入ってから男子のメダリストは出ていない。
ただ、その原因として箱根駅伝が取り沙汰されてよいものか否か、私などには判断のつきかねる話である。
箱根駅伝、正式には「東京箱根間往復大学駅伝と競争」と言うのだが、その歴史は1920年2月14日にさかのぼる。つまり、最初から正月のイベントというわけではなかった。2月14日はバレンタインデーだが、おそらく無関係だろう。
発案者は金栗四三。
日本マラソンの父と言われる人物で、2019年のNHK大河ドラマ『いだてん 東京オリムピック噺』の主人公としても知られる。六代目中村勘九郎が演じた。

▲写真 金栗四三氏(1924年) 出典:Bettmann / GettyImages
1912年のストックホルム五輪において、日本人として初めて男子マラソンに出場を果たすも、長旅の疲れが抜けきらないうちに出走時間を迎え、26キロ付近で熱中症になってしまった。選手が行方不明、と騒ぎになったが、意識朦朧となって沿道の農家に担ぎ込まれ、介抱されていたことが判明し、あらためて途中棄権と記録された。当時は中継車などなかったのはもちろん、監視もいい加減だったようだ。
帰国後も教員生活(彼は東京高等師範学校=現・筑波大学卒)の傍らマラソン選手、さらには裏方として多くの競技会の立案から開催まで尽力した。

▲写真 ストックホルムオリンピック(1912年) 出典:Bettmann/GettyImages
こうして前述のように日本マラソンの父と称されるまでになった彼の功績を称えるべく、スウェーデンのオリンピック委員会は1967年、75歳になった金栗を「ストックホルム五輪55周年」に招待し、競技場をゆっくり走ってからゴールテープを切る、というイベントを行った。これにともない、大会における彼の記録も「途中棄権」から
「54年8ヶ月6日5時間32分20秒3。最下位」
と訂正されている。
話を箱根駅伝に戻すと、もともと金栗は、優秀な長距離ランナーを発掘するには、世界の耳目を集めるような駅伝の大会を実施するのが早道だと考えており、
「アメリカ大陸横断駅伝徒競走」
を企画した。その予選競技会という位置づけで考え出されたのが箱根駅伝で、アメリカ大陸横断となれば最大の難所はロッキー山脈越えであるから、その予選ならば箱根越えがよいだろう、との考えであったようだ。当の全米横断駅伝は、資金などで実現しなかったが、箱根駅伝は戦争による中断はありつつも、次第に学生陸上競技の華と言うべき地位を確立したというわけだ。
早い話が、はじめから正月のイベントでもなければ日本の男子マラソンを強化することに主眼が置かれていたわけでもない。箱根駅伝が盛り上がりすぎてどうのこうのというのは筋違いではないだろうか。
一方ではここ数年、欧米ではEKIDENの面白さに目覚めた人が増え、各地で大会が開催されるようになってきたとも聞く。
いずれオリンピック種目に……と言いたいところだが、競技時間も長いし、ハードルは結構高いかも知れない。
ただ、こういうことは言える。
そもそもマラソンとは紀元前450年に、アテネの軍勢が数で勝るペルシャ軍を奇襲で撃破した「マラトンの戦い」に由来する。マラトンからアテネまでの42.195㎞を駆け抜けた伝令の兵士が、
「我らアテネ、勝てり」
と告げるなり息絶えた。との伝承だが、真偽のほどは定かではない。
中学陸上部時代、42.195㎞という距離をもじって
「マラソンは死に行く覚悟」
などと教わったものだが、これも私見ながら、孤独との戦いとも言われるマラソンより、仲間が襷をつないで行く駅伝の方が、平和の祭典にはふさわしい気もする。
それよりなにより、新型コロナ禍が今後どうなるか。箱根駅伝の沿道での応援は、前回「密」の問題が取り沙汰されたが、今度は大丈夫なのか。今はそのことが気がかりだ。
トップ写真:第88回東京箱根駅の初日(2012年1月2日) 出典:Photo by Sports Nippon/Getty Images
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この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト
1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。
