独裁者の計算と誤算(下)「プーチンの戦争」をめぐって その2
林信吾(作家・ジャーナリスト)
林信吾の「西方見聞録」
【まとめ】
・ウクライナの宗教的な東西対立とは、プーチンの根拠のない大義名分に過ぎない。
・プーチンの誤算はウクライナの戦闘スキルを見誤ったことと、西側からの経済制裁を過小評価したこと。
・ロシア経済が破綻するのも時間の問題だが、その間にも犠牲が出続ける。
プーチン大統領がウクライナ侵攻を決意した背景に、同国の「東西問題」があった、と見る人も少なからずいた。
これについてはまず、前回述べたことを補足させていただくことになるが、キエフ大公国はビザンチン帝国との政略結婚を機にキリスト教を国教とした。10世紀のことである。
その後キリスト教は、ローマのカトリックとビザンチウム(後のコンスタンチノープル)の正教会とに分裂したわけだが、補足というのはさらにその後の話で、1596年にローマ法王庁からの働きかけもあって、正教会の一部がカトリックに転向することになったのである。ただ、信者数において最大なのは、正教会の宗教儀式は保ったままカトリックを名乗る「ウクライナ東方カトリック教会」だ。
わけてもウクライナ西部のガリツィア地方では、カトリックに帰依することを「ロシアのくびき」から解放される道だと考える人が増え、1772年にはオーストリア帝国の支配下に入ったという歴史まである。
こうした歴史から、現在のウクライナにおいても、カトリック教徒が多く親欧米の気風が強い西部と、正教会の信仰を保ち親ロシア派が多い、クリミア半島を含む東部との間には、もともと対立感情があった、とされてきたわけだが、色々と読んでみると、これはどうやら都市伝説に近い話のようだ。
と言うのは、ウクライナのカトリック信者はおよそ400万人、総人口の8%を占めているに過ぎない(2007年の統計による)。宗教文化の面でも前述のように、正教会に対して対立感情を抱く理由など見当たらないし、1991年のソ連邦崩壊・独立にともなって制定されたウクライナ憲法では「信教の自由」も保証されている。
さらに言えば、ギリシャから移住してきたユダヤ商人の末裔たちもウクライナの社会に根を下ろしたが、帝政ロシアの版図に組み込まれた当時は迫害を受けたりもした。これは『屋根の上のバイオリン弾き』(初演は1964年)というミュージカルのモチーフにもなったほど、欧米ではよく知られた話だが、こちらも現在のウクライナは、東方キリスト教文化圏の中でもユダヤ系住民に寛大であるとされ、今や時の人になったとさえ言えるゼレンスキー大統領もユダヤ系である。
……いささか前置きが長くなったが、要はプーチン大統領がウクライナ侵攻を正当化すべく並べ立てた大義名分など、どれも後付けの理屈に過ぎない、ということだ。
そうであるなら、彼はいかなる戦略のもとに侵攻を決断し、いかなる誤算が生じたのか。
当初の計画では、この戦争は4日で終わる、と考えられたらしい。これは私一人の推論ではなく、いまや西側軍事筋の間で支配的になりつつある見方である。
実際、NATOが公表したところによると、戦端が開かれた2月24日の未明以来、最初の24時間で700発を超すミサイルや精密誘導爆弾が撃ち込まれ、ウクライナのC4I(指揮・統制・通信・コンピューターおよび情報)システムは完全に叩き潰された。
それから戦車の大群を先頭にウクライナ領内になだれ込めば、親ロシア派の住民からも協力が得られるであろうし、キエフなど4日で陥落する。その後、親ロシアの政権を作るか、かねてから要求していた「NATO加盟の撤回、中立化」を呑ませればよい。
ところが、ここにプーチン大統領の大いなる誤算があった。
たしかに侵攻が現実味を帯びてくる以前、具体的には昨年秋の段階では、ゼレンスキー大統領の支持率は30%程度でしかなかった。とりわけその金権腐敗ぶりに対する批判は、高まる一方だったのである。それだけが根拠というわけではないが、ウクライナが軍民あげて、あそこまで頑強に抵抗するとは、プーチン大統領のみならず大半の人が予測できなかったことは事実だ。
ナチス・ドイツ軍がソ連邦に攻め込んだ時も、4週間でモスクワを占領できる、と考えていた。総統アドルフ・ヒトラーは、
「わが軍の任務はドアを蹴飛ばすだけ」
と豪語していたのである。悪名高いスターリンの大粛正により、共産党組織も赤軍も崩壊寸前の状態にある、との情報がもたらされていたからで、その情報自体は不幸にも正鵠を得ていたのだが、侵略者に立ち向かう精神はまた別ものだ。ソ連邦は2000万人を超す犠牲者を出しつつ、最終的にはナチス・ドイツ軍を粉砕した。
つまりプーチン大統領が犯した誤算の第一とは、ウクライナ人の戦意および戦闘スキルの高さを侮ったことにある。帝政ロシア時代のウクライナ兵と言えば、あのコサック騎兵の供給源で、いざとなった時の勇猛果敢さは、どこの国の兵士にも決してひけは取らない。
しかも、今次のウクライナ軍は、前述のような経緯で、孤立した各部隊が機甲戦力において圧倒的なロシア軍にゲリラ戦を挑む、という戦い方を強いられたが、これが予想以上に効果的であった。今では歩兵一名で携行・操作できる対戦車ミサイルや地対空ミサイルが普及し、かつ性能面でも長足の進歩を遂げている。
とりわけ米国から供与されたFGMー148ジャベリン対戦車ミサイルは、多数のロシア戦車や装甲先戦闘車両をノックアウトし、ウクライナ兵から「聖ジャベリン」と呼ばれたと聞く。
カメラと制御装置を組み込んだ完全自立誘導式で、ファイア・アンド・フォゲットすなわち撃ちっぱなしが可能である。従前のリモート式やレーザー誘導式だと、命中するまで標的を照準器の中にとらえておく必要があったが、これは発射と同時に退避できる。待ち伏せ攻撃にはうってつけだ。
▲写真 オーストラリア軍の演習で発射されるジャベリン対戦車ミサイル(2019年5月9日) 出典:Photo by Scott Barbour/Getty Images
ちなみにこのミサイルは、高性能な分、歩兵装備としては極めつきに高価で、1発が邦貨にして1800万円以上もする。物量自慢の米軍でさえ、めったに実弾射撃訓練をしないほどだ。それをウクライナ軍には惜しみなく供与した。
いくら高性能のミサイルがあっても、敵の動静を把握できなければ、効果的な待ち伏せ攻撃など不可能だが、この点でも、米軍は偵察衛星などで得た情報を、インターネットを使ってウクライナ軍に流したようだ。詳細は機密のベールに包まれて不明だが、ペンタゴン(米国防総省)も、情報を流したことは認めている。
まさしく現代戦においては、情報こそ最強の武器であるということを見せつけたのだ。
一方のロシア軍だが、当初こそ「電撃戦」を成功させるかに見えたが、戦闘が2週間、3週間と長引くにつれて、短期決戦を想定していたため兵站がお粗末であったことが露呈してしまった。実際に多くの戦闘車両がガス欠で放棄され、ウクライナ軍によって鹵獲(ろかく)されてしまっている。
このことはまた、未熟な召集兵を最前線に送り出すことはしていない、というプーチン大統領が国民に向けてなした説明が、虚偽であったことを証拠立てている。
やむを得ず兵器を放棄する場合、敵に鹵獲・再利用されないよう破壊しておくのがセオリーなのだが(車両の場合なら、運転席に手榴弾を放り込めば済む)、その程度のことさえできていなかった。旧ソ連軍であったなら、収容所送りにされたケースだ。
誤算の第二は、西側諸国による経済制裁のインパクトを過小評価したことだろう。
侵攻に際して、経済制裁が科せられることは当然予測していたのだが、ロシアには6300億ドルもの外貨準備があり、かつ石油や天然ガスなどの輸出で毎月140億ドルも稼いでいたため、駐スウェーデン大使の言葉を借りれば「言い方は悪いが、屁でもない」という態度であった。
しかし現実の制裁は、SWIFT(国際銀行間通信協会)からロシアの金融機関を閉め出す、というものだったのである。金融機関に対する制裁としては「核爆弾並み」とまで言われる厳しい処置で、具体的にどういうことかと言うと、前述の外貨準備6300億ドルのうち、3000億ドル以上は欧米や日本の銀行に分散して預金されていたのだが、これを引き出すことができなくなってしまった。そればかりか、輸出入の決済を外貨で行うことができなくなってしまったのである。
ちなみに我が国の外貨準備高は1兆3846億ドル(2020年)で、中国に次いで世界2位だが、これは「輸出立国」として獲得した外貨が積み上がったものだから、封鎖されたらひとたまりもない。ましてGDPが韓国並みでしかないロシアが、デフォルト(債務不履行)とハイパー・インフレーションの危機にあることは間違いない。いつそのような状態に陥るかは早計に予測しがたいが、いずれにせよ時間の問題であろう。
ただし「逆もまた真なり」という言葉を忘れてはいけない。今日の明日で経済制裁の効果が出るわけでもなく、その前に破滅的な事態に至らないという保証はないのだ。
この原稿を書いている3月21日の時点で、戦線はほぼ全面的に膠着し、プーチン大統領も、ゼレンスキー大統領との直接交渉に前向きの姿勢を示しているとの報道もあった。
そろそろ侵攻の失敗を認めたのであればよいが、未だ「あと一撃」という考えに固執して、戦時体制を再構築するための時間稼ぎだとすれば、事態はさらに混迷するだけだ。
そうならないためにも、我々日本人に、なにかできることはないものだろうか。
これについては、次回。
(上はこちら。その3につづく)
トップ写真:年次記者会見を開くウラジーミル・プーチン(2021年12月23日) 出典:Photo by Mikhail Svetlov/Getty Images
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この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト
1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。