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.政治  投稿日:2022/7/5

猿払村の奇跡と人気ラーメン店 「高岡発ニッポン再興」その14


出町譲(高岡市議会議員・作家)

【まとめ】

・高岡では市外出身者は「旅の人」とどちらかと言えば否定的なニュアンスで呼ばれる。

・猿払村は貧乏村から「決断」で自治体所得ランキング3位に。村出身のラーメン店主も「決断」で人気店に。

・高岡市の閉塞感を打ち破るには、“旅の人”が必要従来にない発想に果敢に取り組む人こそが重要。

 

高岡に戻って1年半ほど経ちます。いろんな人と出会いましたが、その中でも強烈な印象の人は、高岡の人気ラーメン店「翔龍」の店主、浅野昭次さん(69)です。浅野さんは先日、「10年ぶりに故郷に戻って墓参りしました」と、笑顔で語ってくれました。

高岡では、市外出身者は「旅の人」と呼ばれます。

「あの人は『旅の人』だから…」

閉鎖的な風土の中で、「旅の人」という言葉は、どちらかと言えば、否定的なニュアンスです。

そうした意味では、浅野さんは「旅の人」です。しかも、高岡から遠く離れた、北海道の猿払村(さるふつむら)出身です。猿払村と言えば、北海道の北端、稚内に隣接する村です。高岡出身の奥さんと出会い、移住。高岡でラーメン店を経営して30年以上経ちます。「富山ブラックラーメン」が看板商品で、1日1000食出すこともある、人気店です。

▲写真 ラーメン店「翔龍」店主、浅野昭次さん(69)筆者提供

浅野さんは先日、故郷、猿払村について語ってくれました。

「子どものころは本当に猿払村は貧乏だったのです。周囲からは『貧乏村』と言われていました。しかし、今は違います。村全体が潤っています」。

猿払村はもともとホタテ水揚げ日本一だったのですが、1960年代には乱獲で、水産資源が枯渇したのです。「貧乏見たけりゃ猿払へ」と揶揄されました。漁業者は現金収入が極端に減りました。

ちょうど、浅野さんが10代ぐらいのときです。漁師を辞める人が続々と出てきたといいます。浅野さんのお父さんも漁業を辞め、旭川に行きました。浅野さんのお兄さんだけは漁業を続けました。

ところが、この状況を打開したのは、猿払村漁業協同組合の組合長の太田金一さんでした。1971年日本初のホタテ稚貝の大規模放流事業を計画したのです。ホタテの稚貝を購入し、海中で育て、5センチほどの小さな貝に成長したところで海に放流。4-5年後、10センチほどに成長したホタテを獲るという方法です。

つまり、ホタテを「獲る」から「育てる」に大きく舵を切ったのです。

この放流事業には多額のお金が必要です。しかも、成果が出るには時間がかかります。リスクがいっぱいです。

太田組合長は必死に、関係者を説得しました。また、漁業組合だけではお金を賄えません。当時の村長、笠井勝雄さんも「猿払村の再生はホタテでやるしかない」と考え、大きな決断を下します。税収の半分近くを稚貝の放流事業に投じたのです。また、村の住民からもお金を出してもらいました。

組合長と村長の決断と実行が村全体を動かしたのです。

その成果は出ています。全国の自治体の所得ランキングで2017年、猿払村は3位。東京都の港区、千代田区に次いでいるのです。また、東京都渋谷区や兵庫県芦屋市を押さえての3位です。今も上位を維持しています。

▲画像 北海道・猿払村のホタテ漁の様子。YouTubeより(筆者提供)

ところで、浅野さんが経営する高岡市の野村のラーメン店「翔龍」ですが、私は初めて行ったとき、驚きました。

グレー色を基調にしたおしゃれな巨大な店舗。夜の11時ごろなのに、多くの人でにぎわっていました。若いカップルがデートでラーメンをすすっているのです。都会的なラーメン店。しかも、名物のブラックラーメンの味も抜群でした。

浅野さんによれば、当初は大きな店舗でつくってリスクが高いとして懸念する声も多かったといいます。それでも、誰もやっていないことをやりたいと、浅野さんは決断しました。どこか猿払村の復活と似通っているような気がします。このラーメンを食べに、県外からも多くの人が来ているといいます。

高岡市の閉塞感を打ち破るには、やはり、“旅の人”が、必要なのです。従来にない発想に果敢に取り組む人こそが、重要なのです。

(つづく)

トップ写真:ラーメン店「翔龍」の人気のブラックラーメン(筆者提供)




この記事を書いた人
出町譲高岡市議会議員・作家

1964年富山県高岡市生まれ。

富山県立高岡高校、早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。


90年時事通信社入社。ニューヨーク特派員などを経て、2001年テレビ朝日入社。経済部で、内閣府や財界などを担当した。その後は、「報道ステーション」や「グッド!モーニング」など報道番組のデスクを務めた。


テレビ朝日に勤務しながら、11年の東日本大震災をきっかけに執筆活動を開始。『清貧と復興 土光敏夫100の言葉』(2011年、文藝春秋)はベストセラーに。


その後も、『母の力 土光敏夫をつくった100の言葉』(2013年、文藝春秋)、『九転十起 事業の鬼・浅野総一郎』(2013年、幻冬舎)、『景気を仕掛けた男 「丸井」創業者・青井忠治』(2015年、幻冬舎)、『日本への遺言 地域再生の神様《豊重哲郎》が起した奇跡』(2017年、幻冬舎)『現場発! ニッポン再興』(2019年、晶文社)などを出版した。


21年1月 故郷高岡の再興を目指して帰郷。

同年7月 高岡市長選に出馬。19,445票の信任を得るも志叶わず。

同年10月 高岡市議会議員選挙に立候補し、候補者29人中2位で当選。8,656票の得票数は、トップ当選の嶋川武秀氏(11,604票)と共に高岡市議会議員選挙の最高得票数を上回った。

出町譲

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