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.国際  投稿日:2022/7/28

アラブは部族社会ではない  異文化への偏見を廃す その5    


 

林信吾(作家・ジャーナリスト)

林信吾の「西方見聞録

【まとめ】

・日本人の多くには「アラブは部族社会である」という認識が刷り込まれているが、これは謝った認識。

・もともとアラブの生活圏を育んだのは「都市」の土壌であり、古くから個人主義的な考え方が根付いている。

・ベドウィンと呼ばれる遊牧民は荒れ地でキャラバンからの略奪をして生活しており、ピラミッド型の組織を拡大していくことになったのである。

 

シリーズ第2回において、日本人がアラビアと聞くと「灼熱の砂漠」を思い浮かべるのは、致し方ない面もあるが、それが中東の全てではないことも知るべきだ、と述べた。

 同じように日本人の多くがすり込まれているのが、「アラブは部族社会である」という誤った認識である。これもまた、映画『アラビアのロレンス』あたりが影響しているのだろうか。

 たしかにあの映画では、部族の長を説得したことにより、数千の戦士がロレンスの指揮下に入ってオスマンに戦いを挑む、という風に描かれている。

 1990年8月には、サダム・フセイン大統領の命によりイラク軍が隣国クウェートに侵攻し、併合を宣言した。世に言う湾岸危機で、翌91年の湾岸戦争へと至るのだが、この当時も遠因として、

「もともと〈湾岸イラク地域の一部〉として英国が植民地支配していたのだが、1961年に独立した際、油田の権益を確保したかった諸国が、アラブ社会特有の部族性を利用して、クウェートを分離独立させた」ことにある、との意見を開陳する人が多かった。

現在のウクライナ問題と似たところがあって、クウェートはもともとイラクの一部だというのが、サダム・フセイン大統領の主張だったのである。

 いずれにせよ武力で現状を変えようという試みが支持されるはずもなく、翌年の湾岸戦争でイラク軍は大敗を喫したわけだが、そもそも前述の議論自体、アラブは部族社会である、との前提に立っているわけだ。

 ちなみに、正しい事実関係はと言うと、英国は1899年よりクウェート首長を保護課に置いていた。その後、やはり第2回で述べた通り、アラブがオスマン帝国の支配から脱する動きの中で、1922年、ナジュド・スルターン国(サウジアラビアの原型)とクウェート首長との間で境界線を巡る対立が生じ、英国がこれを仲介。

翌年イラクとクウェートとの国境も策定したのである。石油採掘事業が始まったのは1938年からなので、油田の利権目当てでクウェートを独立させたというのは、因果関係が逆だということになる。

 ただ、イラクにとってはペルシャ湾への出口にクウェートが立ち塞がる形になったわけで、サダム・フセイン大統領以前にも、併合を試みる動きはあった。

 その後「人道支援」の名目でサマーワに派遣された自衛隊や、派遣を積極的に後押しした外務省(防衛省は憲法との兼ね合いなどで消極的だったと伝えられる)も、部族長さえ懐柔すれば地域の安定は保たれる、と考えていたようだ。現実はそう甘くはなかった上に、都合の悪い記録は葬られてしまう、という事態が起きたわけだが。それのどこが間違いなのか。

 もともとアラブ人の生活圏は「都市と荒れ地」から成っており、いわゆるアラビア文明を育んだのは、疑いもなく都市なのである。

 かつてサダム・フセイン自身が西欧の近代文明を揶揄して、

「ロンドンがテムズ河畔の寒村に過ぎなかった頃、バクダードの目抜き通りにはガス灯がともされていた」

などと語ったことがあるが、他にもヨルダン、レバノン、シリアのダマスカスなど、紀元前から栄えた都市がいくつもある。エジプトのカイロなど、新しい方なのだ。

 都市の周囲には農村地帯があり、農民は食料の供給源で、公益の顧客でもあるという位置づけだった。

 ここでは、部族社会どころか古くから個人主義的な考え方が根付き、今に至っている。たとえば、姉妹が並んで街を歩いていても、一人は敬虔なムスリムでヒジャーブと呼ばれるスカーフで髪を覆い、真夏でも長袖を着ているのに、もう一人は髪を覆わないどころか「ヘソ出しルック(古いかな笑?)」で闊歩しているという光景が、本当に見られる。

 

 もともとイスラムの信仰の基礎にあるのは、信者個人と神との関係性で、一族郎党こぞって信心深くなければならない、という発想には立っていない。

 都市の周辺には農地が広がり、都市の人々にとって農民とは、食料の供給源であり公益の顧客でもある、という位置づけであった。そのさらに外側と言うか、農耕に適さない荒れ地で暮らすのが、ベドウィンと呼ばれる遊牧民である。

 荒れ地と砂漠は必ずしも同義語ではないが、実際問題として草地と水がある場所は限られており、彼らベドウィンはラクダに乗って、羊の群れを引き連れながら気が遠くなるような距離を移動する。

 このように都市や農村とは別世界の、厳しい自然環境の中で生き抜くためには、集団の結束を保たなければならず、いきおい部族長に権力が集中した。

 ちなみに、昨今の英語メディアでは、部族(トライバル)という言葉は未開人というに近いニュアンスがあるため、氏族(クラン)と言い換えるようになってきている。

 話を戻して、アラブの男性の多くが、模様の入った布で髪を覆っているのを、映像などで見たことがおありだろう。一般にアラブの民族衣装だと思われているが、元をただせばシグと言い、ベドウィンが好んで着用するスカーフの一種である。

 頭に巻いて、直射日光から保護する効果もあるが、砂嵐の時など、顔の下半分を覆うこともできる。

 模様も、実は氏族によって異なるので、戦闘の際には敵味方識別の効果もある。スコットランドのキルトの模様も、日本ではタータン・チェックとして知られているが、あれもまた氏族によって模様が異なるのだ。

 今、戦闘という言葉を用いたが、彼らベドウィンの生活は、定期的に農村を訪れては羊を売り、代わりに穀物や日用品を買うという形で成り立っていたが、もうひとつ、略奪も大いなる収入源であった。

 都市の経済活動は、交易に依るところが大きかったわけだが、その担い手はキャラバン(隊商)であったことはよく知られている。

 船を用いての海上交易が、海賊に襲われるリスクと背中合わせであったように、砂漠を行くャラバンは、常にベドウィンに襲撃されるリスクを背負っていた。『月の沙漠』の世界観は童謡の中だから成立するので、本当に王子様とお姫様が護衛もなしに旅に出たら、まず生きては戻れなかっただろう。

 しかも度しがたいことに、ベドウィンの「生活の知恵」とは、自分たちより大人数のキャラバンは襲わない、というものであった。このこともまた、氏族長を頂点とするピラミッド型の組織を維持しながら人数を増やして行く動機になった。

 さすがにそれは偏見ではないか、と感じた読者もおられようか。実は私も同じように考え、若林博士に質問を投げかけた。答えは端的に、「偏見ではありません。ファクトです」というものだった。

 博士は19世紀のTIMES紙まで調べて、彼らの生態についての報道や報告をフォローして、こう言い切るのだ。

 専門家による「ファクトチェック」を経た情報なのである。古来ベドウィンによる略奪は、世界的に知られるところで、最大の被害をもたらしたのは、1757年にメッカに向かう巡礼団が襲われ、2万人近い死傷者を出した事件である。

 信仰の点で、そのようなことが許されるのか、との疑念も沸いたが、考えてみれば、ヤクザの事務所には決まって神棚が置かれているし、マフィアは皆、敬虔なカトリックだ。

 第二次世界大戦後、略奪のニュースに接することが減ったが、これは単純に、航空機や自動車によるパトロールが行われるようになったからに過ぎない。

 次回は、宗教とお金の問題について考察する。

<解説協力>:若林啓史(わかばやし・ひろふみ)

1963年北九州市生まれ。1986年東京大学法学部卒業、外務省入省。

アラビア語を研修しイラク、ヨルダン、イラン、シリア、オマーンなどの日本大使館で勤務。

2016年より東北大学教授。2020年、京都大学より博士号(地域研究)。『中東近現代史』(知泉書館)など著書多数。

『岩波イスラーム辞典』の共同執筆者でもある。

朝日カルチャーセンター新宿校にて「外交官経験者が語る中東の暮らしと文化」「1年でじっくり学ぶ中東近現代史」を開講中。いずれも途中参加・リモート参加が可能。

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トップ写真:ラクダと一緒のベドゥイン 2016年11月16日 ヨルダン

出典:Photo by Frédéric Soltan/Corbis via Getty Images




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