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.国際  投稿日:2022/8/16

「我々はもう一度勝てる」とロシアは言う(下) 戦争と歴史問題について その3


林信吾(作家・ジャーナリスト)

林信吾の「西方見聞録

【まとめ】

・国民の士気を鼓舞する「大祖国戦争」の呼称や運がバルバロッサ作戦でソ連の勝利に導いた。

・プーチン政権以降、節目の年だけで行われた大規模な祝賀パレードが頻繫に開催されている。

・経済制裁やソ連邦が崩壊した直後の混乱、愛国プロパガンダなどを経験したロシア市民は「苦戦慣れ」しているらしい。

 

ロシアでは、日本の降伏を持って第二次世界大戦が終結した9月2日を「第二次世界大戦終結記念日」としている、と前回述べた。

 このあたりの歴史を少しは勉強してきた私などは、

「火事場泥棒成功記念日」

 とでもしておけ、と言いたくなるのだが、その話はさておき、これまた前回からの続きではあるが、ナチス・ドイツとの戦争に勝利した「大祖国戦争終結記念日」(5月9日)を、ロシア政府がことさら盛り上げている理由に着目しよう。

 1941年6月22日、ナチス・ドイツ軍が突如としてソ連邦に攻撃を仕掛けた(世に言うバルバロッサ作戦)。ドイツ側では対ソ戦とか、単に東部戦線と称していたのだが、ソ連邦の側では国民の士気を鼓舞する目的で「大祖国戦争」の呼称が当初より採用された。

 ナポレオン・ボナパルト麾下の大軍を迎え撃ち、最終的に勝利を得た11812年の戦役が「祖国戦争」と呼ばれたので、あやかったものらしい。

 以前にもこの連載で、今次のウクライナ侵攻と似たところがある、と記したことがあるが、当初ナチス・ドイツの目論見では、ソ連邦はスターリンの恐怖政治によって疲弊し、赤軍の組織もガタガタなので(不幸にも、これ自体は事実であった)、フランスを席巻した「電撃戦」を再現すれば、簡単に片がつくと考えていたのである。

 ところがソ連邦は予想外にしぶとく抵抗した。とりわけ、ウクライナの軍需工場は大半がウラル山脈のあたりまで疎開して生産力を温存し、やがてここから、大量の兵器が供給されることとなれる。

 この疎開作戦の指揮をとったのが、同地の共産党書記長で、後に有名な「スターリン批判」演説を行って、世界中の共産主義者に衝撃を与えることとなるニキータ・フルシチョフだ。彼はモスクワ生まれだが、ルーツはウクライナにある。

 加えて、運もソ連邦に味方した。

 バルバロッサ作戦の準備が佳境に入った頃、バルカン半島で反ナチスの抗議デモが頻発し、これを機にナチス・ドイツ軍はユーゴスラビアに侵攻。この結果、ソ連邦に攻め込んで以降の戦争プログラムは、ことごとく4週間遅れとなった。おまけに、例年より早く「冬将軍」が到来し、電撃戦で勝利を得る計画で、ろくな防寒装備も支給されなかったドイツ兵は、薄いデニムの戦闘服で酷寒に耐えねばならなかったのである。

 それでも当初、ナチス・ドイツ軍の攻勢はすさまじく、首都モスクワのおよそ40キロ手前(平坦な地形ゆえ、丘の上から市街が一望できたと伝えられる)まで迫ったが、そこから押し戻され、ついにはベルリンを占領されるに至ったのだ。

 こうした歴史があるので、私などはてっきり、ソ連邦時代は毎年祝賀行事を行っていたのかと思っていたのだが、今次も取材に応じてくれたロシア人女性によると、大規模な祝賀パレードが行われたのは、終戦の年である1945年から、65年、85年、95年という節目の年だけであったそうだ。

 そう言われて、あらためて考えてみれば、毎年のように新兵器を披露する軍事パレードは革命記念日であった。11月7日で、ソ連邦が樹立されたのは「十月革命」だが、これは当時のロシア帝国が旧暦を採用していたためである。

 ところが2000年代に入り、ウラジミール・プーチン大統領の時代となってから、様相が変わり始めた。

前述の「大祖国戦争終結記念日」が重視されるようになり、毎年のように祝賀行事が催されるようになったと聞く。そればかりか、軍人の功績を称える「ベテランの日」も、政府が後押しするイベントに変わった。

ベテランとはこの場合「帰還兵」の意味で、もともと民間で行われていたものだが、2015年以降、政府が関与して、今や日本を含む世界43カ国のロシア人コミュニティーで開催されるイベントになっている。

写真)大祖国戦争記念日の祝賀パレード(2022.6.24)

出典)Photo by Kirill Yasko – Host Photo Agency via Getty Images

プーチン政権がウクライナ南部クリミア半島に兵を進め、実効支配したのが2014年のことであるから、このことと無関係だと考えるのは難しいだろう。

こうした愛国プロパガンダの流れは、教育現場にも及んでいる。

かつては、つまりソ連邦の時代も含めて、小学校では戦争の歴史などはほとんど教えず、中学生になってから歴史が正課に取り入れられたのだが、今や小学生も「大祖国戦争」について学ぶようになっている。こうした愛国プロパガンダのスローガンは、

「我々はもう一度勝てる」

 というもので、アフガニスタンやチェチェンにおける戦役についても、わが国は常に正しかった、と総括されている。そればかりか、小中学校の教師が、この戦争はおかしい、などと発言しようものなら、生徒に密告されてしまうのだとか。

 まるでスターリン時代の再来ではないか。ロシア人はそれをどう受け止めているのか、と疑問に思わざるを得なかったが、くだんのロシア人女性の答えは、端的に、

「それは世代によって違うでしょうね」

 というものだった。彼女自身は、小学校を出たのとソ連邦が解体されたのが、ちょうど同じ時期だったので、かえってソ連邦に悪いイメージがないそうだ。

「あの時代に戻りたい、ということではなく、子供時代の楽しい思い出が、たまたまその(ソ連邦の)時代と重なっていただけです」

 と前起きして、

「祖母などは、とにかく怖い時代だった、という認識みたいですね。母はそこまでではありませんが、私に対しては〈大きな声で自分の意見を言っちゃ駄目〉〈前に出ては駄目〉みたいなことを、よく言ってました」

 と語ってくれた。

 こうしたプロパガンダの効果もあってか、泥沼化が伝えられる割には、ロシアの一般市民の間に、さほど悲観的な空気は流れていないという。おかしな言い方だが「苦戦慣れ」しているし、経済制裁にせよ、ソ連邦が崩壊した直後のひどい経済混乱を経験した世代は、今はまだ普通に食べられるではないか、となるらしい。

「どちらも(ロシア人、ウクライナ人ともに)頑固と言うか、後に引かない人たちですから、この戦争は、すぐには終わりそうもないですね」

 日本において戦争反対の声を上げ続けているロシア人女性までが、ため息交じりにそう言うのを聞くと、私などもつい、ロシアで政変が起きることくらいしか道はないのだろうか、という考えにとらわれてしまいそうになる。

 それでもなお、戦争を止める努力を諦めてはいけない。

 なにもしなければ、なにも始まらないのだから。

 

トップ写真:ソ連軍がドイツを侵攻する中、ソ連の自走砲が敵の本拠地に向けて発砲。(1945年)

出典:Photo by Victor Temin/Slava Katamidze Collection/Getty Images




この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト

1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。

林信吾

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