国葬は閑散、国民葬は長蛇の列(上)国葬の現在・過去・未来 その3
林信吾(作家・ジャーナリスト)
林信吾の「西方見聞録」
【まとめ】
・1922年2月1日、明治の元勲・山県有朋が世を去った。日比谷公園での国葬は、参列者はわずか1000人ほど、それも大半が軍人だった。
・国葬は明治期には国葬令により天皇が崩御した場合は大喪、皇族や「偉勲(格別な功績)ある者」は勅令によって国葬とするという不文律があった。
・民衆の目に「長の陸軍の親玉」と映った山県有朋の国葬は、「民力休養」を求める世論によって寂しいものとなった。
1922(大正11)年2月1日、明治の元勲・山県有朋が世を去った。享年88。9日には日比谷公園で国葬が営まれたが、参列者はわずか1000人ほど。それも大半が軍人であった。1万人分のテントまで設営していた時の政府の思惑は完全に空振りとなり、人々は「ただの軍人葬」と皮肉ったという。
さかのぼること1ヶ月足らず。1月10日には大隈重信が死去(享年83)。17日にはやはり日比谷公園で「国民葬」が営まれたが、こちらはなんと30万人もの弔問客があった。
まず国葬についてだが、明治期には天皇が崩御した場合は大喪、皇族や「偉勲(格別な功績)ある者」は勅令によって国葬とする、という不文律があった。
1926(大正15)年に勅令として公布された「国葬令」はこれを明文化したものだ。オフィシャルには「大正15年勅令第324号」で、この年の12月25日に昭和と改元されたのだが、これは余談。
山県有朋は1838年、長門国阿武郡川島村(現・山口県萩市川島)で生まれた。幼名を辰之助(一説では辰野助)といい、足軽身分である。
もう少し厳密に述べると、足軽身分の中にも格差があって、幼き日の伊藤博文が養子に入った家が「限りなく武士に近い足軽」であったのに対し、山県家の方は、もっぱら身分の高い武士の屋敷で奉公をする、中間(ちゅうげん)と呼ばれる身分であった。
私は現物を見ていないので、伝聞であることを明記しておくが、明治時代に山県が公開した系図がなかなかユニークで、曾祖父もその父(高祖父)も、名前すら分からず「某」となっているのに、反対側から見ると、清和天皇に始まって源氏の嫡流から山県家ができるまで、8代ほどはやけに詳しいのだとか。まあ、ありそうな話だ。
公平を期すために述べておくと、もともと江戸時代の武士など、いわば戦国時代のどさくさで成り上がった者が大半なので、皆が勝手に源氏だの藤原氏だのと名乗っていた。「維新つながり」で言うなら、坂本龍馬の実家は土岐源氏(明智光秀の出身母体である笑)の桔梗紋を家紋としていたし、彼の本来の主君である土佐の戦国大名・長宗我部氏に至っては「秦の始皇帝の末裔」であると称していたほどだ。
ただ、出自はともかく山県自身は文武両道の才能を備えていた。
身長172センチほどで、当時の日本人としては図抜けた長身であり、宝蔵院流槍術でも腕前を高く評価されていた。
当人もこのことが自慢で、自分のことを終生「一回の武弁」すなわち生まれつきの軍人だと称していたが、一方では、歌道や庭造りにも造詣が深かった。明治初期、黒田家の下屋敷を買い取った際、自ら設計・指揮して壮大な庭園をこしらえたこともある。現在の椿山荘だ。
一方では、リウマチの持病に長年苦しめられたという事情もあって、生活は質素倹約、乾布摩擦など、健康に気を遣っていた。個人で健康に気を配るだけなら、大いに結構なことであるが、この「質素倹約の軍人精神」がやがて「物量の差は精神力で逆転し得る」という、もはやカルト宗教じみた精神論に転化されたことは看過できない。
ともあれ長州の志士たちの中にあって「屈指の武闘派」であった山県は、1863年秋、徳川幕府による長州征伐に対抗すべく、高杉晋作が旗揚げした奇兵隊にはせ参じ、軍監(副隊長に相当する)に抜擢された。この年のはじめには、
「尊皇攘夷の正義をよくわきまえ、殊勝である」
として武士身分に取り立てられている。
司馬遼太郎も書き残しているが、この時期の長州は、藩をあげて一個の革命集団と化したような趣さえあった。それだけに多くの若者が非業の死を遂げ、そのことがまた、現在に至るも長州人のプライドのよりどころとなっていることは、前回述べた通りである。
1869(明治2)年、西郷従道(隆盛の実弟)らと共に欧米を視察旅行して、帰国後は兵部省の再編に当たった。兵部省というのは国土防衛や治安維持を主任務とする、今の防衛省に相当する官庁で、諸外国では国防省と呼ぶのが普通だ。
ともあれ、もとは単一の官庁であったのだが、いかなる目論見によるものか、陸軍省と海軍省とに二分された。1872(明治5)年のことである。
同時にこのことは、山県を頂点とする長州人脈が陸軍の、一方、西郷らの薩摩人脈が海軍の主流を占めたことを意味する。事実「長の陸軍、薩の海軍」と呼ばれていた。日本海軍隊の育ての親と称される山本権兵衛、連合艦隊司令長官としてロシアのバルチック艦隊をワンサイドゲームで屠った東郷平八郎が、いずれも薩摩出身だ。
ただ、日露戦争の当時すでに「薩の海軍」の方は出身地などにこだわらず、秀才をさらえこむようになったが、山県が作り上げた「長の陸軍」は、依然として人脈が生きていた。嘘か本当か知らないが、陸軍大学校の入試に際して、答案用紙に「山口県出身」と書くと、自動的に点数が加算された、などという話まである。
山県自身、明治期の政治的混乱の中で、幾度か失脚の危機にさらされたが、その都度うまく立ち回って権力の座にとどまることができたのは、ひとえに長州人脈の力だと考えていたようだ。その反動と言うべきか、自身を政治的に追い詰めた議会政治家や民権派の新聞に対しては、不信感を隠そうともしなかった。
大日本帝国憲法の制定に至る過程で、伊藤博文はドイツ(=プロイセン)の世に言うビスマルク憲法を手本にしたと前回述べたが、山形もまたビスマルクと、その参謀総長であったモルトケを非常に尊敬し、ドイツ流軍学をもって日本陸軍の手本とした。前述の椿山荘に二人の銅像を飾ったという逸話もある。
いずれにせよ、大衆的人気を得られるタイプの政治家とはほど遠かった。
さらに言えば、大正という時代の世相も無関係とは考えにくい。
大正デモクラシーという言葉は、今や歴史教科書の片隅にあるくらいなものだが、もともとは「民力休養」を求める世論に端を発している。
明治の日本は、日清・日露の戦役で勝利を博し、世界の一等国と肩を並べた、と自負するまでになったが、そのために払った犠牲もまことに大きなものであった。
とりわけ日露戦争においては、海軍が作戦の妙を得てロシアのバルチック艦隊を屠ったのに対し、陸軍は苦戦の連続で、機関銃など最新装備の敵に対し、銃剣突撃を繰り返した。あまり知られていない事実だが、死傷者の数を見比べると、日本軍の方がかなり多かったのである。
山県が主導した徴兵制度の評判もひどく悪く、新兵に対するイジメなどを指して「徴兵・懲役一字の違い」とまで言われていた。
このような背景から、そろそろ軍備拡大に歯止めをかけ、国民の税負担を軽減すべきではないか、と主張する人が増えはじめた。これが「民力休養」の具体的な意味であることは、言うまでもない。
これだけなら、御説ごもっとも、と受け取る向きもあろうが、現実はそこまで単純な話ではなかった。「民力休養」を願う気持ちが、莫大な国家予算を毎年受け取っていた軍隊を「税金泥棒」と見なすような風潮に転化され、食堂やカフェーでは軍服を着ていると居心地が悪く、女学校を出た娘は軍人の嫁になりたがらない、という世相になっていたのだ。どうも日本人は、なにかしらの対象を見つけると、よってたかってバッシングを加えることが正義だと考えがちなのではないだろうか。
その判断は読者に委ねるとして、民衆の目に「長の陸軍の親玉」と映った山県有朋の国葬が、いたって寂しいものになってしまった理由は、ご理解いただけたことと思う。
現在と違って、天皇の勅令によって国葬と決まったものであるからには、表だって反対の意思表示などできなかったが、市井の臣民と言えど「参加しない自由」くらいはあると考えられたのである。
一方の大隈重信については、なぜ国葬でなく国民葬であったのかという問題も含めて、次回語らせていただこう。
トップ写真:大山巌の葬儀に出席する山県有朋(左)。1916年12月17日 出典:Photo by Hulton Archive/Getty Images
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この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト
1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。