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.社会  投稿日:2023/4/13

平成11年の年賀状①「あゝ いつも花の女王」


牛島信弁護士・小説家・元検事)

【まとめ】

・私は加藤周一の『羊の歌』を読み「さくら横丁」という詩の存在を知った。

・その中に、「あゝ いつも花の女王 ほゝ微笑んだ夢のふるさと」という一節がある。

・どの少年にも、限りなく美しいと思われる少女の思い出があって、一生こころのなかにとどまり続ける。

 

 年頭にあたり皆々様のご健勝をお祈り申し上げます。

 昨年のご報告を一、二、申し上げます。

 春。琵琶湖の西岸へ行き、米原から昔の東海道線に乗りました。窓の外を眺めていると、風の向くまま旅に出ているような、束の間の寅さん気分です。

 夏。学生の法律相談に少し付き合って、琵琶湖の南端に行きました。琵琶湖大橋を車で往復しつつ、春の大津の高楼上で食べた湯葉のことを思い出していました。あれほど美味しい湯葉は初めてだったのです。

 秋。四年生の終わりまでいた東京の小学校の同窓会がありました。何年か前に乗ったタクシーの運転手さんがたまたま同級生で、転校生の私にまでわざわざ連絡してくれたのです。おかげで三九年振りにまりちゃんと滋子ちゃんに挟まれて間に立っていました。

 冬。深夜、仕事の合間をぬって事務所で年賀状を書いています。

 通年。この一年も慌ただしく過ぎてゆきました。「日の要求」を果たしつつ、その傍ら相変わらず「青い鳥」を夢見てもいます。今年は五〇歳になります。

 何卆本年も宜しくお導き下さいますようお願い申し上げます。

私は豊島区の大成小学校に4年生の終りまでいた。それが私にとっての東京の小学校である。父の勤務していた総合電機メーカーの社宅が豊島区の東長崎にあり、同じクラスの友人が3人いた。社宅というのは4階建ての鉄筋アパートが3棟ならんでいたのだ。1号館、2号館、3号館と呼んでいた。私は3号館の1階にいた。

私が広島に行ったのと同じ春に1号館の少年は名古屋へ、2号館の少年は横浜へ移って行った。1960年、昭和60年。日本の高度成長を主導した総合電機メーカーは成長に忙しかったのだ。

二人とは、以来会ったことはない。人の別れとはおおかたそんなものだということは、高校を卒業する際に、明日また会うかのように挨拶して別れたのにもかかわらず以来ほとんどの人と会っていないから、人生はそういうものだと、ここまで生きてくると珍しいことでもなんでもないとわかっている。

しかし、私にとっては、その前の若松、今の北九州市若松区から東京への転校は小学校の1年生の夏だったからほとんど記憶にない。東京から広島への転居は事実上人生初めての引っ越しの経験だったといっていい。東京の小学校に移りたて、「チェッ」と担任の先生の前で口にしたら、「東京ではそんな口はききません」とたしなめられた。荒井節子先生といった。母親から「九州の田舎では多少成績が良くったってと東京ではそうはいきません。」と言われた憤慨の言葉を聞いた記憶がある。

大成小学校では、荒井先生が二回出産をしたので、二人の臨時の先生に出逢った。蒲原光子先生と沢田秋子先生。どちらの先生もとても可愛がってくれた。蒲原先生はすこしふっくらとして優しく、授業のほかに怖い怪談をいくつもしてくれたのを覚えている。沢田先生はさっそうとした筋肉質の体つきで子ども心にも美人だった。

荒井先生は小学校の裏手に住んでいて、出産後子どもたちが訪ねて行ってもいいとお許しが出て、クラスの全員が校舎の裏に走って行って小さな庭に立って手を振っている荒井先生に会ったことを覚えている。私よりも20歳くらいは上の方だ。未だご存命かもしれない。小学校の先生というのは、なんとも素晴らしい職業なのだと今更ながら感じる。

小学校の先生の話をしていると、広島の幟町小学校での川崎百合江先生のことを書かずにいられなくなってくる。40歳くらいの、すこしきつい顔つきのフチなしのメガネをかけた女性で、離婚していて、私たちと同じくらいの年のお嬢さんが一人いるということだった。なんとも熱心な先生で、毎晩ガリ版に前の日のできごとをB4一枚いっぱいに書いた、それをクラスの全員に配布してくれる。そのころはガリ版を切るといったのものだ。『松の実だより』という名だった。私はそれを綴じた冊子をいまでも書庫に持っている。

私のクラスは6年松組だった。面白いクラスの名まえの付け方をする小学校で、松、竹、梅、そして桜、藤、桐、桃、椿と8組あった。一クラス64人。上の学年には杉もあって9クラスだった。団塊の世代という言葉はのちの時代に使われ始めた言葉で未だなかった。私たちの学年までの3年間、毎年250万人の子どもが生まれていたのを指す。その下の学年を入れると1000万人を超える。小学生の私にとって、人口ピラミッドが正三角形のピラミッド型であるのは、ごく当然のことだった。

川崎先生についての一番の思い出は、私が校庭での朝礼のときに立ち眩みして倒れてしまったときのこと。もう6年生になっていた少年の身体をひょいと軽々と横抱きにかかえて保健室へ運んでくれた。すぐに回復した。母親に報告したかどうかも覚えていた。ただ、そんなに力があるとは見えなかったのに、川崎先生ってすごいんだなと思った記憶がある。そういえば下半身のしっかりした体つきの方ではあった。

大成小学校の続き。

私は、大成小学校の同窓会に出席したことがある。池袋だった。

卒業もしていない私が同窓会に出ることができたのは、ある因縁があってのことだった。

弁護士になって10数年が経っていたころ、タクシーに乗ったときのことだ。もう私にとって公私ともタクシーにのることは日常生活の一部になっていた。

見るともなくフロント・ウィンドウの上に貼ってあるタクシーの運転手さんの名前を見て私はおやっと思った。記憶にあった大成小学校の同級生のHK君の名と同じだったのだ。私は、車が目的地で止まろうとするとき、「運転手さん、失礼ですが大成小学校のご卒業ですか?」とたずねた。頭の中には小学校4年生の、当時でも既に珍しかった坊主刈りの頭と丸い鼻と丸い顔が浮かんでいた。

私の唐突な質問に運転手さんは、「なに?なんだって?どうしてそんなことを訊くんだ?」と少し強い調子で問い返した。当然であろう。だが、一瞬振り返ったその顔が、小学校のときのHK君の顔そのままだった。

私は、「どうも失礼しました」と詫びてから、「私は牛島と申しますが、運転手さん同じ名前のHKさんという方と大成小学校で4年生まで同じクラスだった者なんです。運転手さんのお名前がHKさんとあるので、ひょっとすると私と同じクラスにいた方かなと思いまして、それでうかがいました。」と説明した。

「ああ?牛島?そんな名のヤツがいたっけな。そんな気もするな。」

「いや、無理もないです。卒業はしていませんし、途中でいなくなったのですから。4年生までしか大成小学校にはいませんでしたから」

丁寧に説明すると、運転手さんはようやく想い出してくれたようだった。

「牛島。そんな名のやつがいたな」

ということになった。

私は名刺を渡し、タクシーを降りた。

それだけだった。私はそのときに彼のタクシーを降りた場所を今でも覚えている。

そのHK君が、年賀状にある「何年か前に乗ったタクシーの運転手さん」で「転校生の私にまでわざわざ連絡してくれた」のだ。HK君のおかげでの「三九年ぶり」のたくさんの人々との再会ができたのだった。まりちゃんは私の住んでいた総合電機会社の社宅の隣に一戸建ての家に住んでいた。私は彼女の家の玄関を知らない。いつも社宅との間にある垣根をくぐって遊びに行ったり来たりしていたのだ。社宅の一角には砂場があった。

砂場と書いて、私はあることを思いだす。

私と同じときに転校したTH君のことである。名古屋へ行った少年である。その砂場で、少し前、TH君から彼の二つくらい上の姉について、こんなことを聞いたことがあったのを、どういうわけが今でもよく覚えているのだ。

「胸がおおきくなってきてるみたいなんだ。ちょっとでも押すととっても痛いらしいんだよ。」

すらりとした素敵なお姉さんだった。私は彼とは仲良しだったから、いろいろな話をしているのだが、どういうわけか、いまでもそのことが記憶に残っている。

似たことで覚えていることが別にもある。私が広島の小学校に転入した後のことだ。私の家は学校から歩いて5分ほどのところにあった。私が風邪で休んだとき、同級生2,3人の女生徒が病気見舞いに、自宅を訪ねてくれた。そのなかに、クラスでも飛びぬけた美人の女生徒がいた。

私はそのときの会話の内容は少しも覚えていない。私が覚えているのは、そのI嬢が水色のカーデガンを着ていて、そのカーデガンの胸からお上半身が大きく白地になっていてその白地が細い小豆色の7センチ角ほどの格子模様で飾られていたことだ。私と話しながら、彼女はそのカーデガンの左右の裾を、はにかみながら両手の指先で下へ引き下げていた。カーデガンにはくっきりと彼女の二つの乳房の膨らみが浮き立っていた。もちろん誰にも話したことはない。ただ、それまで意識していなかった異性を彼女に感じたのだ。どきどきしたと言っていい。

のちに大学生になって、私は加藤周一の『羊の歌』を読み「さくら横丁」という詩の存在を知った。

春の宵 さくらが咲くと 花ばかり さくら横丁」というリフレーンが何回も出て来る、ロンデルの脚韻を踏んだという韻律詩だ。そのなかに、

あゝ いつも花の女王 ほゝ微笑んだ夢のふるさと」という一節がある。(加藤周一 13巻 449頁)

その女生徒について、加藤周一は、「彼女は大柄で、華やかで、私には限りなく美しいと思われた」と書いている。「女王のように崇拝者たちを身の廻りに集めている」とも書いている。私は、彼のその詩句に接したときに、小学校の同級生だったI嬢を思い出さないではいられなかった。大柄ではなかったが、とても華やかだった。美しい女性とだと担任の女性の先生も認めていた。「笑顔があるといいのにね」というのが先生の寸評だった。

加藤周一は「私は彼女と一度も言葉を交わしたことがなかった。」と記している。(加藤周一著作集14巻 61頁)私は同級生だったからI嬢と話したことは何回かあった。しかし仲良しグループではなかった。彼女は直ぐ近くに自宅兼店舗があり、履物を商っている店の次女だった。長女は私と同じ中学に入っていたと記憶している。

I嬢との限られた会話のなかで二つのやり取りが強く印象に残っている。

一つは、私はクラスの女生徒をなにかでからかっていたときのことだ。それを見咎めたI嬢は私に向かって、「なによ、外部のくせに」と非難した。外部というのは、通学区域外から越境入学している生徒を指す。私は通学区域である上幟町への転居を予定していたが、そのときには「外部」である安芸郡府中町に住んでいたのだ。当時、すでに中学受験のために「外部」から幟町小学校へ越境通学する者は少なくなかったのである。現に、私とともの最難関校といわれていた広島大学の附属中学校の入学試験に、クラスで二人だけ合格したN君も外部だった。だから、本来の通学区域の生徒たちはそうでない生徒に対してもともと愉快でない思いがあったのだろう。

もう一つも受験にかかわる。私たちのころには、女生徒にとっての受験は、男女共学である広大附属中学校を除けば、ノートルダム清心中学と女学院中学に限られていた。この女学院というのは岸田総理の奥様の母校である。

その女学院中学にI嬢が受験すると知り、私は彼女に向かって、「へえ、君が女学院を受けるのか。そんなにできるんだ」と言った。からかいの意味はまったく無かった。ただ、ふだんから受験勉強の意味で「できる」女生徒だとは認識していなかったのだ。できる女生徒は二人いて、一人は自転車屋の娘のT嬢だった。もう一人は、わざわざ6年生から越境入学してきた府中町に住んでいる別のI嬢だった。T嬢ともこのもう一人のI嬢とも私はとても仲良しになっていた。小学校を卒業した後にも二人とはいろいろなことがあった。

加藤周一は、その花の女王について、『さくら横ちょう』の最後の部分で、「会い見るの時はなかろう 「その後どう」「しばらくねえ」と 言ったってはじまらないと 心得て花でも見よう」と詠っている。その後にロンデルの韻律にしたがって、「春の宵 さくらが咲くと 花ばかり さくら横ちょう」というリフレーンが続いているのだ。

私は履物屋の娘だったI嬢と、卒業してから会っていただろうか。

たぶん。

それは同じく同級生だったK君がI嬢と親しくしていたようで、卒業してしばらく経ったころ、男性の同級生が集まった際に、帝国ホテルのラウンジで飲んでいて、

「おい、I嬢に電話してみないか」とK君が言いだしたことがあったのだ。

いま思い出してみると、携帯電話で話した記憶だが、未だそんなものはなかったはずである。どう連絡したのか。

とにかく、私はI嬢に電話をかけたK君に電話を替わってもらってI嬢と話したのだ。未だ結婚していないと聞いていた。それが、未だというニュアンスがあってのK君とのやり取りだったから、30歳は超えていたのだろうか。

K君とはときどきI嬢と会っている様子だったが、私自身は、その後I嬢についてK君と話すことはあったが電話をしたことはない。それでも、なにかでもう若くなくなっていたI嬢に会ったような気がしてならない。たぶん、そんなことはなかったのだろう。しかし、どういうわけが私の頭のなかでは会ったという気がしてならないのだ。

こんな些末なこと、それも60年以上まえの細かなことがどうして大脳の記憶装置からひょっこり出てくるのか。逆に60年経ってしまったから思い出すのか。

しかし、彼女の水色のカーディガンはずっと覚えていた。しかし、いま思えばセーターだったのかもしれない。どちらにしても、水色と白地、そして小豆色の格子模様だけははっきりと覚えている。I嬢も、その子どもだった自分がいつも着ていたカーディガンのことを覚えているに違いない。

私はつくづく思う。少年には、誰にも「花の女王」がいるのだと。加藤周一のように、たとえ話がなくとも、どの少年にも、限りなく美しいと思われる少女の思い出があって、それは一生こころのなかにとどまり続ける。相見るのときはもちろんなく、もはや口にして誰かに話すことはなくとも、少年でなく老人になった男のこころのなかに目のまえの人生以外の人生があり得たかもしれないよすがとして、じっと残り続けているものだ。

ご存じの方もあろうか。加藤周一のこの詩は別宮貞夫と宮田喜直の二人が曲をつけている。東大の合唱部にいた友人に誘われた演奏会で中田喜直の曲を聴いたことがある。また、加藤周一の石碑がさくら横ちょうにあり、ステンレスの丸く巻いた角をつけた羊の石像の下の台石にこの詩句が刻まれている。渋谷区金王神社近くである。

トップ写真:イメージ 出典:Mlenny/GettyImages




この記事を書いた人
牛島信弁護士

1949年:宮崎県生まれ東京大学法学部卒業後、検事(東京地方検察庁他)を経て 弁護士(都内渉外法律事務所にて外資関係を中心とするビジネス・ロー業務に従事) 1985年~:牛島法律事務所開設 2002年9月:牛島総合法律事務所に名称変更、現在、同事務所代表弁護士、弁護士・外国弁護士56名(内2名が外国弁護士)


〈専門分野〉企業合併・買収、親子上場の解消、少数株主(非上場会社を含む)一般企業法務、会社・代表訴訟、ガバナンス(企業統治)、コンプライアンス、保険、知的財産関係等。


牛島総合法律事務所 URL: https://www.ushijima-law.gr.jp/


「少数株主」 https://www.gentosha.co.jp/book/b12134.html



 

牛島信

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