金正恩に衝撃を与えた北朝鮮の大洪水
朴斗鎮(コリア国際研究所所長)
【まとめ】
・7月末、中朝国境の鴨緑江・豆満江流域を大洪水が襲った。
・軍需工業密集地域が直撃され、金正恩総書記はショック。
・災害の原因は、インフラ投資を行わず核ミサイル開発にうつつを抜かす金正恩の無能さ。
7月末に中朝国境の鴨緑江・豆満江流域を大洪水が襲った。北朝鮮は甚大な被害を被り、住民の不安を高めている。被災地は平屋建ての住宅の屋根の高さまで浸水し、どこに道路があったのかわからない状態となった。橋や道路が流失し、電柱の多くが流され、電力供給は完全に断たれた状態となった。
今回の大洪水で金正恩総書記がショックを受けたのは、大被害による民心の離反もさることながら、何よりも軍需工業密集地域が直撃されたことだった。
■ 深刻な被害状況
朝鮮中央通信は、新義州市などで約4100世帯と農耕地3000町歩(1町は3000坪)、そして建物、道路、鉄路が浸水したと伝えたが、人命被害については報じなかった。
これに対して韓国メディアは、少なくとも1100人が死亡し、4100戸が浸水したと報道したが、水が引き復旧作業が始まる中で明らかになった惨状は、それよりもはるかに深刻なものだった。
韓国政府は当初、全体の犠牲者を1500人ほどと予想していたが、実際はさらに多いことがわかった。犠牲者は「北朝鮮の慈江道など北部地域だけで少なくとも2000-2500人に達すると推定している」「重機で土砂を撤去するたびに遺体が引き続き出て来る状況」と見られるとし、被災者も「江原道元山と慈江道だけで3万人に達する」とした(TV朝鮮『ニュース9』2024年8月12日放送)。
こうした大被害にも関わらず、金正恩は、韓国からの支援だけでなく国際機関の支援やロシアの支援まで拒否した。「自分たちの力で道を切り開く」と述べたが、それは北朝鮮の悲惨な状態を外部に知られる恐怖からだと考えられる。また金正恩は、中国側が救助を申し出たにもかかわらず、鴨緑江下流の中洲(黄金坪、威化島、九里島など)に孤立した住民を救助せず、見殺しにしたという。中国側に救助された住民が脱北するのを恐れたからだ。
■ 民心の離反に慌てふためく金正恩
被害の大きさに慌てた金正恩は、7月28日に急遽列車で、大規模な洪水被害を受けた平安北道新義州市と義州郡の水害現場を視察し、水没した被災地をゴムボートで見て回る「愛民パフォーマンス」を演出した。そして党中央委員会第8期第22回政治局非常拡大会議(29~30日)を開き、洪水の責任をすべて当該幹部に押し付け、道党委員会の責任書記と社会安全相を更迭した。
金正恩は、8月8日と9日にも再び被災地を視察した。専用列車前に住民を集め、改造した車両の演説台で演説を行った。演説の中で金正恩は、韓国報道を「われわれが水害を受けた機会を悪用してわが国家のイメージに泥を塗ろうと敵が愚かな企図を続けていることを暴き、敵がつくり上げる捏造資料はわが国家に対する謀略宣伝であり、重大な挑発であり、被害がなく無事である皆さんに対する冒瀆である」(朝鮮中央通信8月10日)と韓国を強く指弾した。金正恩が韓国メディアの報道を自ら否定したのは今回が初めてだが、住民からの非難を恐れての発言と思われる。
その一方で金正恩は、住民懐柔のために、高齢者や幼児など約1万5400人を平壌に避難させる(3ヶ月)方針を明らかにした。この措置は、幼い子どもが家族から引き離される苦痛には何ら配慮しない独善的なものだ。
金正恩は、こうした措置で住民を欺瞞しようとしているが、彼の非人道性は、猛暑にもかかわらず罹災住民を、学校の運動場や空き地などに密集設置した粗末なテントに詰め込んだ行為で示された。そこには電気・水道・空調などのインフラの整備は見られず、医療施設もなかった。映像に映し出された住民の姿は痩せこけ、みすぼらしい衣服でまとわれていた。朝鮮中央TVが紹介される平壌の住民とは全く異なる光景だった。
北朝鮮当局は8月5日、水害復旧戦域に派遣する平壌市党員連隊の集会を持ち、被災地に「白頭山英雄青年突撃隊」(3万名)を送り出した。平安北道の突撃隊(2万名)と合わせて5万名が被災地入りするが、受け入れ体制の整っていない被災地での混乱が予想される。
■ 甚大な軍需工場被害で金正恩にショック走る
金正恩が視察に訪れた鴨緑江下流の平安北道(ピョンアンブクト)がクローズアップされているが、中流の慈江道(チャガンド)、上流の両江道(リャンガンド)も極めて深刻な被害を被った。特に慈江道は、軍需工場と弾薬・武器貯蔵の密集地である。そのほとんどが地下にあるため被害は甚大だった。電力供給も断たれ、工場の稼働は中断した。金正恩が慌てて出動したのは、住民救出の「愛民」を装うためでもあったが、ロシアへの兵器・弾薬供給に支障をきたす軍需工場被害を把握することが主目的だった。
韓国デイリーNKは、一般人が容易に立ち入れない軍需工業地域である慈江道に派遣された朝鮮人民軍の軍人A氏(階級不明)にインタビューを行い、北朝鮮の国営メディアが触れない、被害の実相を伝えた。
A氏との主なやり取りは次のようなものだ。
― 現在、派遣されている地域は?
慈江道の慈城(チャソン)郡、満浦(マンポ)市、江界(カンゲ)市まで行ったり来たりしつつ作業を行っている。
― 被害状況は?
鴨緑江沿いの家屋はことごとく浸水したと見ていいだろう。住民はすべて避難している。一般住宅、農家、工場もすべて水に浸かり、道路、堤防、橋もほとんどが壊れた。電気や水道の供給など考えられない。慈江道は大型軍需工場が多く集まっている地域だ。軍需工場には電気を優先供給され、24時間稼働をしていたが、今回の水害でこれらも生産を停止した。
― 人的被害は?
生まれて初めて遺体を見た。とても辛く苦しかった。現場では毎日遺体を見る。中には嘔吐する軍人もいた。救助に来たのに毎日遺体収集を行っている。それほど死んだ人が多いということだ。死者、行方不明者の統計は、道・市・郡の非常災害対応組が調査して、毎日中央に報告していと聞いている。
― 慈江道には、将子江(チャンジャガン)工作機械工場、2・8機械総合工場、江界トラクター工場、江界精密機械総合工場など軍需工場が集まっているが、すべてが稼働を停止したのか?
そうだ。満浦市の軍需工場では、地下への坑道まで多くが水に浸かってしまった。軍需品生産に必要な機械や資材もすべて水びたしになった。今回の党中央委員会第8期第22回政治局非常拡大会議(7月29日―30日)で、慈江道委員会の責任書記が解任されたのは、人命を救えなかったというのが理由ではなく、軍需工場まで浸水被害を受けた責任を問われたものだ。
軍需工場の浸水は極めて深刻な状態だ。爆薬の原料は濡れたからといって乾かすわけにもいかず、すべて捨てるしかない。上層部は、民家が浸水したことより、軍需工場が坑道まで水に浸かったことをずっと深刻に捉えている。
以上の対話を見ても、軍事工業地帯の被害状況がいかに深刻かがわかる。
金正恩は、水害地をゴムボートで視察する映像を流し、「人民愛」を見せつけ、責任を幹部に押し付け、幹部の粛清と更迭を行ったが、災害の根本的な原因は、インフラ投資を行わず、核ミサイル開発にうつつを抜かす金正恩の無能さにある。金正恩は、被害住民を尻目に8月5日にもミサイル発射台250台を国境の第1線部隊に引き渡すセレモニーを行い緊張を高めた。
今回の水害が、金正恩が引き起こした人災であるとの認識は、北朝鮮住民の中にも広がりつつある。特に海外に派遣された労働者や外交官はすでにそのことを察知している。
以上
写真:北朝鮮の金正恩総書記(左)とロシアのプーチン大統領(右)が歓迎式に参加する様子(2024年6月19日 平壌)出典:Photo by Contributor/Getty Images
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この記事を書いた人
朴斗鎮コリア国際研究所 所長
1941年大阪市生まれ。1966年朝鮮大学校政治経済学部卒業。朝鮮問題研究所所員を経て1968年より1975年まで朝鮮大学校政治経済学部教員。その後(株)ソフトバンクを経て、経営コンサルタントとなり、2006年から現職。デイリーNK顧問。朝鮮半島問題、在日朝鮮人問題を研究。テレビ、新聞、雑誌で言論活動。著書に『揺れる北朝鮮 金正恩のゆくえ』(花伝社)、「金正恩ー恐怖と不条理の統