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.国際  投稿日:2024/8/16

懲役刑を言い渡された学生運動家、アウン・ポー・モウさんが見据えるミャンマーの未来


本田路晴(フリーランス・ジャーナリスト)

【まとめ】

・元ヤンゴン大学自治会中央執行委員会所属のアウン・ポー・モウ氏に話を聞いた。

・厳しい尋問とコロナ感染の恐怖の下で刑務所生活を送り、証拠なしの状況で3年の実刑判決。

・タイに逃れたモウ氏は、市民的不服従運動を理由に学位を取れない人のため教育から手を付けるべきだと言う。

 

2021年2月1日のミャンマー国軍による軍事クーデターから3年6ヶ月以上が経った。クーデター発生直後は主要都市ヤンゴンをはじめとする各地で市民や学生たちによる抗議デモが行われたが、国軍はこれを徹底的に弾圧した。民主主義国家では当たり前の街頭に出ての抗議活動は、ミャンマー国内ではもはや実施不可能となった。

元ヤンゴン大学自治会中央執行委員会(ヤンゴン大学学生自治会)の委員、アウン・ポー・モウ氏(24歳)はクーデター発生から約1ヶ月後の21年3月3日、最大都市ヤンゴンの南部タムウェ郡区の街頭で抗議活動中に逮捕された。約1年10カ月に及んだ獄中生活を経て、現在は隣国タイに逃れている。

ゴールデン・ウィーク中、アウン・ポー・モウ氏と北部チェンマイと北西部メソトで会い、その後も日本からオンラインで対話を重ねた。刑務所収監時の様子、尋問の様子、未だ終止符の見えないミャンマー国軍との戦いの中で思い浮かべる未来像などについて聞いた。

■ 抗議活動中の突然の逮捕

「当時のミャンマーでは各地で人々が街頭に出て抗議活動を行っていた」。

逮捕された当日も一連の街頭での抗議活動の一つだと思いデモに参加していた。300人が一斉に逮捕された。しかし、逮捕された殆どが1ヶ月後には釈放された。

アウン・ポー・モウ氏がヤンゴン大学学生自治会の委員であると同時に、クーデター後に結成されたゼネラル・ストライキ(ゼネスト)委員会のスポークスマンも務めていたため、ミャンマー国軍は逮捕前から要注意人物として目をつけていた。

「ゼネスト委員会は学生自治会、労働組合、農民組合、政治団体に加え、ロヒンギャの人々も参加するアンブレラ組織だった。みなそれぞれの草の根組織のメンバーたちだった」。軍政には様々な組織が集まり結成されたゼネスト委員会は脅威としか映らなかった。

逮捕された300人はヤンゴン郊外のインセイン刑務所に移送され国軍による尋問は逮捕された日から始まった。

「国軍は最初からリストを作っていたのだろう。私のような学生自治会のリーダーや元リーダー7人が選ばれ、刑務所内で早速に尋問が始まった」。

翌日、7人のうちから4人が選ばれ、軍の尋問センターに送られた。「目隠しどころか、頭から布を被せられたので、どこに連れて行かれたか分からない。車で1時間ほど行ったところだった」。

四人は別々の部屋で尋問を受けた。主にゼネスト委員会の組織構造と資金調達方法について繰り返し聞かれた。加えて、生まれてから今日までの自らの生い立ちについても聞かれた。軍の望まない回答をすると鉄拳が飛んだ。

「拳で頭の後頭部を何度も殴られた。顔に目立つ傷や炎症などが残らないように彼らなりに配慮したのだと思う」。

尋問は三日間に及んだ。食事は与えられたが眠ることは許されず、入れ代わり立ち代わり入る尋問官の質問に答えないと容赦なく拳で後頭部を殴られ続けた。寝不足で意識朦朧となる中、何度も同じ質問を繰り返され、その都度同じ回答を返した。「自分は拳で殴られただけだったけど、棒で叩かれるなど、もっと過酷な仕打ちを受けた人もいる」。

3日後、インセイン刑務所に戻される。

100人部屋でのコロナ感染の恐怖

インセイン刑務所には当時、約7000人の囚人がいて約700人が政治犯だったという。

収容された部屋には約100人が収容されていた。「辛うじて横になるスペースはあった」が横幅は1フィート(約30センチ)程度しかなかったので、寝返りを打つことはできなかった。横にすらなれないこともあった。

コロナウイルス感染症が刑務所内で蔓延した時は逃げ場がなく、アウン・ポー・モウさん自身も感染した。

「刑務官から僕ら全員にビタミンCとアモキシシリン(ペニシリン系の抗生物質)のカプセルが配布された」。でも、それらは収容者の家族が差し入れたものを刑務所が一つにまとめ皆に配ったものだった。

「治るのに1ヶ月かかった。700人いた政治犯のうち、約20人がコロナウイルス感染で死亡したと後で聞かされた」。

■ 3年の実刑判決

逮捕されてから9カ月後の21年12月22日、インセイン刑務所内で行われた法廷審理にて、扇動罪で重労働を伴う3年の実刑判決を言い渡された。

21年12月24日付の独立系メディア「ミャンマー・ナウ」によると、アウン・ポー・モウ氏の母親は、「扇動したと言いますが彼ら(軍政)は何の証拠も提出できませんでした。息子は3回ほど抗議活動に参加したと自白しただけです」と述べた上で、「私たちは少なくとも、司法制度がまだ公正であることを望んでいました。あまり期待はしていませんでしたが、最後の希望の光でした。何の証拠もなしに実刑判決を受けたのは本当に悲しいことです」と司法の公平性を疑問視した。

■ 突然の釈放

2022年3月、ヤンゴン郊外のインセイン刑務所からバゴーの刑務所に移送される。100人部屋から40人部屋となったが部屋も小さくなったため密度は変わらなかった。

ヤンゴンに残された母親や弟に手紙を書いた。「母からも手紙をもらいましたが4ヶ月前の手紙だったこともあります」。手紙は検閲を経てからでないと郵送されないのか、届くまでに時間がかかった。

翌23年1月4日のミャンマーの独立記念日の恩赦で突如解放される。「何の前触れもありませんでした」。

弟は突然の兄の帰宅に大喜びした。母と弟からは学位を取るために大学に復学するつもりはないのかと問われた。その選択肢を取ることはなかった。「仲間たちがまだ刑務所にいたり、武器を持って戦ったりしているのに私だけ平和裡に勉強することは考えにくかった」。

数学専攻のヤンゴン大学4年生の時に逮捕されたので、現在も大学卒業資格は得られずにいる。釈放された翌月の2月にミャンマー東部カイン州ミャワディからタイ北西部のメソトに入る。

■ タイでの日々 同世代の日本の若者へのメッセージ

メソトではミャンマー国軍による徴兵を逃れ、タイにやってきたミャンマー人学生のタイの大学への編入などの支援をする。

クーデター後、多くの学生がCDM(市民的不服従運動)に参加したため未だに学位を取得できずにいる。アウン・ポー・モウ氏は「私たちの革命が何か前向きで意義のあることをするのだとすれば、まずは最初に教育から手をつけるべきだと考えている」とした上で、軍政にただ従うだけでなく、何が正しく、何が正しくないかを見極められる人材を作るためには「僕ら、若い世代はもっと教養を身につけ、批判的に物事を見る眼を養う必要がある」と訴える。

ただ、言語が違うミャンマーの学生全員を隣国タイの大学が受け入れることはできない。アウン・ポー・モウ氏は欧米の支援を受けるオンライン大学「Virtual Federal University(バーチャル連邦大学)」で授業を受講して、中断していた学業を再開し学位を取るよう学生たちに働きかける。同大学は民主化運動に参加するミャンマーの学生たちによって構想され、軍政に反対する学生たちに無償で教育を提供している。

ただ、提供できるコースや専攻は文系に限られているため、数学専攻のアウン・ポー・モウ氏は学位を取得できずにいる。

最後に、日本の同世代の若者へのメッセージを聞いてみた。

「自由はとても大切にされるべきものだ。ただで手に入るからと言って、それが永遠に続くものだと考えるべきではない。その点で、私たちの世代の政治的課題は変わらない。それは、真の自由を守り、実現することにある」と力強い答えが返ってきた。

今後はオンラインを通し、世界の同世代の若者と対話し、ミャンマーの自由を守るための共闘を呼びかけたいとしている。

-関連記事-

アウン・ポー・モウ氏が扇動罪で重労働を伴う3年の実刑判決を言い渡されたことを報じる2021年12月24日付、独立系メディア「ミャンマー・ナウ」記事

https://myanmar-now.org/en/news/junta-hands-yangon-university-student-union-leader-three-year-prison-sentence/

トップ写真:逮捕時の様子や軍の尋問センターでの経験を話すアウン・ポー・モウ氏 2024年4月25日・タイ北部チェンマイにて(撮影:本田路晴




この記事を書いた人
本田路晴フリーランス・ジャーナリスト

沖縄平和協力センター上席研究員。読売新聞特派員として1997年8月から2002年7月までカンボジア・プノンペンとインドネシア・ジャカルタに約5年滞在。その後もラオス、シンガポール、ベトナムで暮らす。東南アジア滞在は足掛け10年。広島平和構築人材育成センター(HPC)シニア研修員、国際NGO日本代表を経て2022年9月より現職。趣味は古寺巡礼と史跡巡り。

本田路晴

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