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.国際  投稿日:2024/8/17

日中関係の再考 その5 尖閣問題の真実


古森義久(ジャーナリスト/麗澤大学特別教授)

「古森義久の内外透視」

【まとめ】

・尖閣諸島をめぐる日中両国の対立は危険度が高い。

・1992年、中国は領海法という国内法を突然発表、尖閣諸島を釣魚島と呼んで中国領土と宣言。

・その後、日中両国の尖閣諸島に対する言動は対立のままとなった。

 

日中関係の対立点について書いてきた。中国側による日本への敵対的言動も具体的に指摘した。そのなかでも尖閣諸島をめぐる日中両国の対立は危険度が高い。中国側が軍事力を使ってでも、その占拠を辞さないという姿勢だからだ。

その危険を踏まえて、そもそも尖閣諸島をめぐる日中両国の争いとはなにかを少し詳しく報告しておこう。すでに述べたように、日本政府は尖閣諸島の日本帰属はあまりにも明白であり、疑問の余地はないから、領土紛争は存在しない、という立場を公式にとっているのだ。つまり日本側の主権や領有権に疑義はない、ということである。

日本国が東シナ海の尖閣諸島を自国領土だと公式に宣言したのは1895年(明治28年)だった。それまでの10年間、この無人島が他のどの国も主権や領有権を主張していないことを確認したうえでの領有権宣言だった。

その後の50年間、尖閣諸島は日本領土として国際的にも認知されてきた。日本が実効支配し、日本人が漁業などのために居住するという状態も続いた。日本が第二次大戦での敗北で一連の領土を失う過程での1943年のカイロ宣言、1945年のポツダム宣言でも、尖閣諸島は影響を受けなかった。

ただし1945年8月の日本の敗戦とともに、尖閣諸島はアメリカ合衆国に占領された。沖縄の一部とみなされての措置だった。1951年のサンフランシスコ講和条約でも尖閣諸島は日本の領土の放棄対象には含まれなかった。だがその施政権はアメリカに与えられ、沖縄とともに暫定的にアメリカの統治下におかれた。

その尖閣諸島のアメリカによる統治は1972年5月の沖縄の日本への返還まで続く。この期間、尖閣諸島はアメリカ軍の射撃演習の場にも頻繁に使われた。だが沖縄返還とともに尖閣諸島は疑いなく本来の日本固有の領土へと戻ったのである。

中国と中華民国が尖閣諸島の領有権を主張し始めたのは1968年以降だった。それまでは日本の主権や領有権になんの留保をもつけていなかったのだ。この中国側の新たな動きは明らかにこの時期に国連機関の調査により、尖閣諸島周辺の海底に石油や天然ガスの資源が埋蔵されているという可能性が示されたことだった。

この調査は国連アジア極東経済委員会(エカフェ ECAFEという機関によって実施された。この機関は国連経済社会理事会の地域委員会の一つで、アジア太平洋地域の経済、社会開発のための協力機関だった。

日本は1972年9月に中華民国、つまり台湾と断交して、中華人民共和国、つまり北京政府との国交を樹立した。その結果、尖閣諸島の主権問題も、当面は北京政府が相手ということになった。ところが当初は北京政府も日本側へのかなりの抑制をみせていた。

中国は1972年 当時の周恩来首相が田中角栄首相に「(尖閣問題については)いまは話したくない。石油が出るから問題になった。石油が出なければ、アメリカも台湾も問題にしない」と述べていた。

日本側では1975年に宮澤喜一外相が「棚上げで交渉という事実なし」と述べた。当時、日中双方の一部に「尖閣問題は日本側が中国側の要求をある程度認める形で、今後の交渉のため棚上げすることに同意したのだ」という推測を否定する宮澤氏の言明だった。

さらに1978年には日中平和条約交渉で来日した鄧小平国家副主席が 「自分たちの世代には智恵がないから次の世代に任せたい」と語った。これに対して当時の福田赳夫首相はなにも述べなかった。

つまり中国側もこの期間、尖閣諸島の主権や領有権に関して、日本側の主張を否定して、自国の主張を前面に出すという態度はまったくとらなかったのだ。ところがこの態度が一変したのが1992年だった。

中国政府は1992年4月、領海法という中国の国内法を突然、発表し、そのなかで尖閣諸島を釣魚島と呼んで中国領土だと宣言したのである。国内法で他国の領土を一方的に奪取するという中国独自の手法だった。

その後、日中両国の尖閣諸島に対する言動はまったく対立のままとなった。とくに2012年には日本側が尖閣諸島を国有化すると、中国側の反発が激化した。尖閣諸島の地主はそれまで日本側の民間人だったのだ。その国有化の措置がいかにも中国側の反発を招いたという指摘があるが、これは正確ではない。尖閣をめぐる日中衝突の原因は日本側が作ったのではないのだ。

中国側はすでに2005年ごろから尖閣諸島の海域への正面からの侵入を始めていた。当時のこの侵入部隊の母体は国家海洋局と呼ばれていたが、その後の2013年には国家海警局と改称された。いずれも中国人民解放軍の海軍の指揮下にある人民武装警察の部隊である。

2010年にはこの中国海警の司令下にある漁船が日本領海に侵入し、さらにその動きに警告を与えた日本側の海上保安庁の船に意図的に体当たりした。中国海警は一般の武装艦艇の下部に「民兵」という組織を有する。この「民兵」は一見は小型の漁船にみえるが、多くは武器を持っており、中国海警の命令で行動する。だがら「中国漁船」というのも多くはこの武装組織の末端なのである。

日本側は中国側のこうした武力を踏まえた攻勢に、肝心の尖閣諸島が民間所有では国家として適切な対応ができないと判断したわけだ。その過程では当時の東京都知事石原慎太郎氏が尖閣を私有から東京都の所有にしようと動いたという経緯があった。

当時の民主党の野田毅政権はこの動きに対して、大あわてで、国家による尖閣諸島の買収という手段をとったのだった。その背後には対中強硬派とされる石原氏に事態を任せておいては、なにが起きるかわからないという心配があったのだろう。

だが中国側はこの民主党政権の尖閣国有という措置に猛反発して、中国の国内の日本の公的施設や商業施設の破壊をも含む大規模な「反日暴動」までをも引き起こした。もちろん政府の意向による日本への威喝行動だった。

(その6につづく。その1その2その3その4

トップ写真:魚釣島 出典:内閣官房領土・主権対策企画調整室




この記事を書いた人
古森義久ジャーナリスト/麗澤大学特別教授

産経新聞ワシントン駐在客員特派員、麗澤大学特別教授。1963年慶應大学卒、ワシントン大学留学、毎日新聞社会部、政治部、ベトナム、ワシントン両特派員、米国カーネギー国際平和財団上級研究員、産経新聞中国総局長、ワシントン支局長などを歴任。ベトナム報道でボーン国際記者賞、ライシャワー核持込発言報道で日本新聞協会賞、日米関係など報道で日本記者クラブ賞、著書「ベトナム報道1300日」で講談社ノンフィクション賞をそれぞれ受賞。著書は「ODA幻想」「韓国の奈落」「米中激突と日本の針路」「新型コロナウイルスが世界を滅ぼす」など多数。

古森義久

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