[神津伸子]【代打の切り札 勝利を呼ぶ男】~「野球は人生そのもの」江藤省三物語 7~
神津伸子(ジャーナリスト・元産経新聞記者)
ドラフト1期生。巨人軍での野球の神、天才との出会い。江藤がドラフト一期生として巨人に3位指名で入団した。在籍したのは3年間、V9の2~4年目、黄金期のはしりだった。当時の監督は、”野球の神”川上哲治。新入団のキャンプミーティングでの話が忘れられないと、江藤は話す。約一時間ほどのミーティングでの川上の話を、江藤はずっとメモを取り続けた。この子供の頃から習慣づけられた”書く”という事が、江藤の人生も大きく変えていくことになるのだが、それは後述する。
ミーティングには、当たり前だが、長嶋茂雄、王貞治、金田正一という、とんでもない豪華メンバーも同席していた。が、緊張している間はない。川上の話の数々は、今の指導にも使えることが沢山あった。
例えば、正力松太郎の言葉を引用しながら
「大リーグに追いつき、追い越せ」
「野球は理屈ではない。理屈を越えたところにある」
「野球は理論ではない、実践である」
「壁にぶち当たったら、努力をしろ。必ず何かが見えて来る」
50年後の今でも、ピンと来る教訓ばかりだった。
江藤のデビュー戦は、忘れもしない。入団したその年の5月、ゴールデンウィーク中だった。2安打放ち、しばらくスタメンとして、起用された。興奮したことを、昨日の事のように覚えている。見回すと1塁には王貞治、3塁には長嶋茂雄、ショートには土井正三が守っている。やばい、これはエラー出来ないぞ、と。半端なく豪華な内野陣だった。一方で、
「同じチームメイトなのに、見ていて惚れ惚れしていました」
守備では、その後、土井正三と競い合うようになった。守備が鉄壁な絶対的二塁手には、かなわなかった。「打撃では負けていなかったのだが」。大学時代は1期上の立教出身で、学生時代はかなわないと思ったことがなかった土井は、プロに入団してから、とんでもない成長を遂げていた。だが、負けてはいられない。練習に励んだ。
当時の巨人軍の練習場であった、『地獄の多摩川グラウンド』(江藤)では、とにかく来る日も、来る日も練習、練習、練習であった。とにかく、皆一流だから、球が速さが半端ではない。江藤も必死に食らいついて行った。また、一流な人々の”自主性”は凄かった。トップの中のトップのそれは、見ている江藤を引き付けた。
江藤は、いつもめちゃくちゃ素振りをする王を尊敬していた。放っておいたら2000本でも振る勢いで、ひたすら振っている。しかも、正月返上で振っている。「王さんが、あの頃1年間の内休んだのは、多分1、2日だけだったと思う」江藤は、こう振り返る。年間55本のホームランを放ち、タイトルを取ったそのシーズンオフさえ、王は全く変わらなかった。「兄・愼一は遊んでいたが」(江藤)
どうしても間近でその王の様子が見たくて、あわよくば自分も習いたくて、当時、王と二人三脚を組んでいた打撃コーチの荒川博の家の門を叩いたこともあった江藤だった。
「王さんは、努力する様が見える天才。長嶋さんは感性が半端ではなかった。していただろうけど、努力しているように見えないタイプだった。野村さんや森さんは、本当に沢山の本を読んでいる理論派だった。今、思えば、自分には当時、そこまで出来なかった」
そのためか、転機は早く来た。
「”女神”呼ぶ代打男・江藤」バット1本に賭けたプロ人生。兄・愼一とのホームラン競演の試合が、最も思い出に残るシーンだ。
1969年、中日ドラゴンズに移籍。最初はレギュラーにも起用された。定位置は5番セカンド。満塁など、好機に強かった。スタメンが知らされるのは、当日。与那嶺要監督から「今日、行け!」と、実にシンプルに言われるだけだ。が、次第に調子が落ちて行き、「よかったのは、その年の5月2日頃までだった」
二塁手には、当時、高木守道がいて、レギュラーポジションは獲れなかった。ならば、バット1本で勝負してやろうと。代打の切り札を、目指し、実現した。当時の新聞には次のような見出しが次々と並んだ。
「”女神”呼ぶ代打男・江藤」、「代打江藤また快打」(中日スポーツ)
「代打江藤のニラミ千金」(中日新聞)、
「乗りに乗る江藤 打てばヒット、代打10割」(同)
「江藤”ひと振りに”専心」(名古屋タイムズ)
などなど。
嬉しかった。
中でも忘れられないひと振りは、1973年4月18日、川崎球場での中日VS大洋(現・Dena)の、兄・愼一との競演アーチ。
この試合は大洋が先取点を取り、中日が逆転とシーソーゲームだった。6回裏に兄が中日・水谷寿投手から4-3とリードするソロホームランを放った。このまま勝負が決まれば、江藤愼一はお立ち台で、ヒーローインタビューの予定だ。が、最終回、省三は与那嶺要監督に呼ばれた。
「代打、江藤」
「痺れましたね」(江藤)
好投を続けていた大洋のリリーフ、平松政次。2ストライク2ボールからのスライダーを振り抜いた。打球はレフトを守る兄の頭上を越えて、左翼席中段へライナーで飛び込んでいった。
兄には、慶應の学費も出して貰っていた。いい恩返しが出来たと思った。大洋のロッカールームでも
「あいつが、オレのヒーローを帳消しにしやがった」
と、愼一は悔しがっていたという。
兄は、現役中に3回、首位打者を獲得した。長兄だったから、その稼ぎで、3人の弟たちの大学の学費を負担し、卒業させた。残念ながら、2008年に亡くなり、自分が再度、慶應のユニフォームを着たのは、見てもらえなかったのが、悔いが残ると省三は言う。
その後も、省三は代打に命を賭け、1972年には通算打率3割まで伸ばした。が、76年には、心身共に限界を感じ、引退を選択した。
引退を選択した理由は、いくつかあった。
当時の選手たちの引退のタイミングの平均が34、5歳で、自分もその年齢に達したこと。何より、調子が上がって来ても、一軍に引き上げられることがなかった。
通算11年の通算成績は、464試合、打率.267、65打点、12本塁打。
(8につづく。
【“24の瞳”少年・高校球児を指導する男】〜「野球は人生そのもの」江藤省三物語 1~
【誰にでも甲子園はある】~「野球は人生そのもの」江藤省三物語 2~
【教え子の一言に「ふるえた」。】~「野球は人生そのもの」江藤省三物語 3~
【教えは受け継がれてゆくものだから】~「野球は人生そのもの」江藤省三物語 4~
【甲子園春夏出場 父・兄の背中を見て始めた野球】~「野球は人生そのもの」江藤省三物語 5~
【輝く時 慶應義塾大学野球部選手時代】~「野球は人生そのもの」江藤省三物語 6~
も合わせてお読みください)
<江藤省三プロフィール>
野球評論家。元プロ野球選手(巨人・中日)、元慶應義塾大学硬式野球部監督熊本県山鹿市生まれ。
会社員(父は八幡製鐵勤務)の四人兄弟の三男として誕生。兄(長兄)は元プロ野球選手、野球殿堂入りした愼一氏。
中京商業高校(現中京大中京)で1961年、甲子園春夏連続出場。同年秋季国体優勝。
卒業後、慶應義塾大学文学部に進学、東京六大学野球リーグで3度優勝。4季連続ベストナイン。
63年、全日本選手権大会で日本一となる。
65年、ドラフト元年、読売巨人軍に指名される。
69年、中日に移籍。代打の切り札として活躍。76年引退。
81年、90年から2度巨人一軍内野守備コーチ。
以降、ロッテ、横浜でコーチ歴任。
解説者を経て、2009~13年、慶應義塾大学体育会硬式野球部監督。
10・11年春季連続優勝。
この間、伊藤隼太(阪神)、福谷浩司(中日)、白村明弘(日本ハム)のプロ野球選手を輩出。
14年春季リーグ、病床の竹内秀夫監督の助監督として、6季ぶりに優勝に導く。