[為末大]民主主義の難しいところは「選挙で選ばれた人をリーダー」としてを受け入れねばならないこと〜「人物の好き嫌い」と「人物の能力評価」の違い
為末大(スポーツコメンテーター・(株)R.project取締役)
◆民主主義のややこしいところ◆
東京都知事に舛添さんが当選した。開いてみれば圧倒的な得票数だったそうだ。別の候補者を応援していた人も、舛添さんの方針に賛成できない人もいただろうけれど、これで途中で辞任をする事にならなければ4年間は舛添知事の元で都政が行われていく。
学生の時だったか、旅行でどこに行こうかという話をしていた時に、みんなで投票で決めた事がある。行き先は九州の方に決まったのだけれど、二人が「北海道がよかった」と言い張った。結局、最後は九州に行ったのだけれど、二人が渋々だったので随分気を使った。
民主主義のややこしくて難しいなと思う所は、「選挙の仕組み自体を信用する」という事だと思う。それはつまり、誰を応援していても、一旦決まった以上は、一応は「その人をリーダーとする事で協力し合いましょうよ」、「足を引っ張るのはやめましょうよ」、という事。
違う人を選んでいても、自分の意図とは違っても、結果として「選ばれた人がリーダーという事で納得しましょうね」、という前段階があって選挙なのだと思う。けれど、これが心情的に難しい。強いイシューがあればあるほど難しい。
いろいろ個人的に思う事はあるけれど、リーダーが決まった以上それを受け入れる事ができるかどうか。練習が必要だなあと思う。
◆人格と能力◆
人や歴史にまつわる本を読んでいて、人格的に問題があったとされる人や、悪人についての評価で時々気になる事がある。その人が如何に人格的に問題があったか、悪行を成したかを語っているのに、時々「如何に能力がなかったか」にすり替わっている。
ヒトラーについて如何に彼の能力が低かったかと書いた本があったのだけれど、「能力が低い人間にドイツ人はみんなだまされました」というロジックが僕にはどうしても理解できない。やはりそれなりに政治的勘や、カリスマ性があったのだろうと考えた方が合点がいく。ただそれが悪人だった、と。
僕は能力が低い人間が悪人だったとしたら、大して問題がないと思う。むしろ能力が高い人間が悪人だからこそ、事が大きくなる。本当は気に食わないが理由なのに、そこに無理矢理、能力面に原因を見いだそうとすると何かおかしな事になる。
「能力」と「好き嫌い」を分けて考えられない人は、ライバルの実力を過小評価するきらいがある。本当は“嫌い”なのに“能力が低い”に変わってしまう。色眼鏡をかけてしまい相手の実力をそのまま捉えられないからそもそも戦略、戦術が歪んでしまう。
政治家や経営者が無能だという人もいるけれど、人を率いたり票を集めるという事ができる人はどのくらいいるだろうか。もし能力が低いなら、多分世間の目に触れる人にはなっていない可能性が高い。そこからスタートして方向性の是非について議論した方がよほどいい気がする。
実は「ただの好き嫌い」を、「人物の能力評価」にすり替えてしまうとそこから出てくる答え自体が歪んでしまう。その答えを元にとる行動自体もまた的外れになりやすいのだと、僕は思う。
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