プロレスの味方は、いたしかねます(上)スポーツの秋雑感 その3
林信吾(作家・ジャーナリスト)
林信吾の「西方見聞録」
【まとめ】
・プロレスは格闘技と認められず、シンパシーなし。ファンの思いは否定せず。
・米国でプロレスはエンタメ・ショー業界に加盟も。日本は真剣勝負が建前。
・ゆえにファンが過激さ求め、生命に関わる事故も。危険な技の規制検討も。
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作家の村松友視氏には『私、プロレスの味方です』(ちくま文庫)という著作がある。一方、ジャーナリストの立花隆氏は、「昭和天皇には戦争責任がある」とはっきり書いた時よりも、「プロレスはくだらない」と決めつけた時の方が、読んだ人からのいわゆるネガティブな反応がずっと多かった、と述べたことがある。
私は、どちらかと言うと立花氏寄りの立場だ。いささか曖昧な表現になるのは、私自身はプロレスにシンパシーなど抱かないけれども、プロレスが大好きという人たちの思い入れを、むげに否定する気にもなれないからである。
少し個人的な話をさせていただくと、20年ほど前に他界した祖母が、
「アントニオ猪木が、血だらけになってまだ立ち上がって戦うのを見ると、私も頑張らなくちゃ、と思えるのよ」などと語っていたのを、今でも覚えている。その効用なのかどうか、祖母は96歳での大往生だったが、野球、プロレス、相撲いずれも毛嫌いしていた学究肌の娘(=私の母親)は、61歳で祖母に先立った。
話を戻して、村松氏の著書が話題になったのも、敏腕編集者から小説家に転じたインテリが、自分は「プロレス者」であると公言したところに、その理由が求められる。今でこそ、たとえば私などが「サッカー者」を名乗っても、誰からもなにも言われないが、この本が出た当時(情報センター出版局からの初版は1980年)は、プロ野球や大相撲を含めて、TV中継されるような観戦スポーツに熱中するなど、「インテリのやることではない」というに近い風潮が、まだまだ残っていた。
私見ながら、その後わが国は、いささか行き過ぎた大衆社会になっていったのではないだろうか。具体的にどういうことかと言うと、大学教授あたりが実はカラオケ好きだったり、プロレス好きだったりすると、
「あの人はインテリらしくない」と評価される。そう、これは「親しみが持てる」といった意味の、誉め言葉となっていたのだ。その裏返しとして、立花氏のようにプロレスをこきおろすと(知性、感性、品性が同時に低レベルにある人だけが熱中できるものなのだとか)、「なんだ、インテリぶりやがって」という具合に「炎上」するのである。昭和天皇の戦争責任問題とはまた別のベクトルで「同調圧力」が働くと言えばよいか。
では、私がなぜプロレスにシンパシーなど抱かないのかと言うと、これでも武道有段者なので、あれを格闘技と認める気には到底なれないからだ。20代の頃、英国ロンドンはじめヨーロッパで少林寺拳法の道場を訪ね歩いて修行し、その経験談を『吾輩は黒帯である』(小学館)という1冊にまとめさせていただいたが、その中で、アントニオ猪木が挑戦してきたら受けてやる、と書いた。私と彼が柔道でいう軽量級で戦う、という条件で。
「体重が半分になった猪木相手なら、やすやすと負けるつもりはない」
というわけだ。
……これは、真面目な話なのである。いや、少なくとも書いた当人は大真面目なのである。
「最強の武道」はなにか、などという話を突き詰めていったら、最終的にはこういうことになるだろう、という文脈で、私は前記のような文章を書いた。プロレスラーの、あの筋肉の壁のような肉体の前には、なまじの蹴り技など通用するわけがない、ということもちゃんと書いた。その前提で、どういうルールで戦うのか、という問題を抜きにして「最強」を論じてどうするのかと、私は問いかけたのだ。
プロレス界では、興行の主体となる会社を「団体」と呼ぶのだが、米国最大の団体は、スポーツではなく、台本が存在するショーであることを明らかにし、エンターテインメントの業界団体に加盟していると聞く。なんでも、その方が保険料が安い上に、株式を上場する際に(!)、業務内容の透明化を求められたからだとか。
日米以外にプロレスが盛んな国として、メキシコが上げられるが、かの国では「ルチャリブレ」と呼ばれている。スペイン語で、自由に戦う、といったほどの意味だが、その言葉とは裏腹に、ボクシングと同様、プロのリングに上がるには、ちゃんとライセンスが必要なのである。
写真)プロレス技のバックドロップ
出典)FakeZarathustra(Wikimedia Commons)
一方、わが国ではプロレスリングと言いつつ、アマチュアとプロの定義など存在しないも同然である(学生プロレスまである)。ならば、エンターテインメントに徹すればよさそうなものだが、そこまで割り切ることもできないらしい。真剣勝負というタテマエにこだわっている。
その結果としてファンが、より過激な攻防を求めるのようになったことから、危険きわまりない「空中殺法」が毎度用いられるようになり、生命に関わるような事故が繰り返し起きている。
古代ローマのコロッセオで剣闘士が戦っていた時代から、格闘を見世物にしたなら、観客はより過激で残忍なシーンを見たがるようになるものだ。
プロレス団体の側も、さすがに「仕事だから」では済まされなくなってきたらしく、危険な技を規制することも検討していると聞く。
どのような競技・イベントであれ、ファンの熱い声援が、大いなるエネルギーとなることは間違いない。しかし、それも度が過ぎるとありがた迷惑だ、ということなのだろう。
トップ写真)プロレス
出典)Hugo Fernandes( Wikimedia Commons)
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この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト
1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。