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.国際  投稿日:2019/2/2

英国新聞事情(中)~ロンドンで迎えた平成~その1


林信吾(作家・ジャーナリスト)

林信吾の「西方見聞録」

【まとめ】

・メディアにおける「病名発表」と「報道自由」の兼ね合い。

・昭和天皇を戦争犯罪人と決めつけた、英国新聞社『サン』の右翼的表現。

・「営業右翼」への日本外交官の対応は大誤爆だった。

 

【注:この記事には複数の写真が含まれています。サイトによっては全て表示されないことがあります。その場合はJapan In-depthのサイトhttps://japan-indepth.jp/?p=43892でお読みください。】

 

昭和が終わり、平成の世となった時期の思い出を書かせていただいているが、もう少し具体的に言うと、1988年9月19日、昭和天皇が体調を崩して治療を受けている、と発表されてから、1989年1月7日の崩御まで、3ヶ月あまりの話ということになる。

この時期私は、英国ロンドンで現地発行日本語新聞の記者として働いていたので、日本と英国、それぞれのメディアから情報を得ることができていた。前回述べたように、まだインターネットが普及していない時代であったが、その割には恵まれた情報環境にいたのである。

9月22日には『タイムズ』紙が、公表されたデータから英国人医師が診断を下したものとして「膵臓頭部のガンであろう」とする記事を掲載した。これについて私は、当時ロンドンで研究生活をしていた日本人医師に連絡を取り、「患者の病名というものは、医師が100パーセントそうだと確信している場合でも、なかなか断言しにくいものなんですよ。まして陛下を診察したわけでもない外国の医師が、データからの推測だけで病名を新聞に発表するというのは、これ、はっきり言って医師の良心にもとるんじゃないでしょうか」というコメントを得た。

日本では朝日新聞』が、病名はガンであろうとする記事を掲載して、こちらはだいぶ物議を醸したようだったが、私はやはり職業柄と言うべきか、報道の自由との兼ね合いもあって、なかなか面白い議論だという考えが先に立っていたのである。

前日、つまり9月21日付の『サン』に至っては、「地獄がこの悪辣なエンペラーを待ち構えている」などという記事を掲載した。

▲写真 1975年(昭和50年)10月2日、訪米した天皇・皇后と米国大統領フォード夫妻 出典:White House Photographic Office

ここでまたまた予備知識と言うか、前回の話の続きを少しさせていただくが、高級紙について『タイムズ』は保守的な層に、そして『ガーディアン』がリベラルな層に読まれている、と述べた。

タブロイド判の大衆紙にも同様の傾向があって、代表的な例としては『デイリー・ミラー』紙が労働党よりであるのに対し、この『サン』というのは右翼と見なされている。国粋主義で反EU、移民をはじめ有色人種に対しては差別的な表現もいとわない新聞だ。

したがって、昭和天皇を戦争犯罪人と決めつけて「ヒロヒットラー」などという書き方をするのも、これが初めてのことではなかった。

しかしながら日本人にとっては。やはり時期が時期だ、という問題があったのだろう。駐英日本大使館が、同紙に抗議文を送りつけたのである。さらには本国においては、外務省が英国の駐日大使を呼びつけて「遺憾の意」を示した。

英国側のリアクションだが、まず後者について言えば、今思えば当たり前だが、「英国は言論の自由が保障された国家である」との一言で突っぱねられてしまったし、前者の『サン』紙への抗議文に至っては、まんまと彼らの商売に利用された。

「ジャップ(平気でこの言葉を使うのだ)が本紙に抗議」などという大見出しと共に、大使の署名がある抗議文の写真を掲載し、「我々は英国と日本との友好関係は尊重するが、だからと言って過去を忘れたわけではないのだ」という趣旨の記事を掲載した。

最近も、どこかの国との間で似たような応酬を耳にするが、英国の大衆紙はさらに念が入っていて、日本大使館と『サン』紙の主張のどちらが正しいか、自分たちの読者に投票を呼びかける(!)という企画まで打ち出した。もちろん翌日の大見出しは「数万人が本紙を支持」となったわけで、彼らの商売に利用された、という私の評価は、この事実を踏まえたものである。「営業右翼」の言うことに公的機関がわざわざ取り合うから、こういう結果になるのだ。

それはそれとして、私もジャーナリズムで働く一人の日本人として、日本の外交官たちのこうした言動には、違和感を抱かざるを得なかった。前述のように『サン』という新聞がひどい書き方をするのは、これが初めてのことではない。日英の貿易摩擦が深刻化した1987年には「イエロー・ペリル(黄禍)」などという大見出しとともに、日本のいわゆる非関税障壁への悪口雑言を並べ立てた。いわく、「彼らは高速道路の駐車スペースひとつとっても〈我らのジャガー〉には小さすぎる物を作っている」等々。

アホとしか言いようがないが、このように、たとえアホな論旨であれ、日本人一般が侮辱されている時には黙って見過ごしておいて、天皇の悪口を書かれたとなったら大使自らが抗議文を送りつけるとは、どういうことか。

しかもその抗議文の中で、昭和天皇を「我らの元首」と明記していた。空気読めよ、という言い方が流行するのは、もう少し後の話になるが、外交官といえど公務員には違いないのだから、まずは日本国憲法読めよ、と言いたくなるではないか。日本国は主権在民ではないのか。

そこで私は、前述の英国ニュースダイジェストで、こうした問題を指摘し「外務省・大使館の大誤爆」と題した記事を掲載した。この記事については、対照的なふたつのリアクションがあったので、報告しておく。

まずは日本共産党の機関誌『赤旗』で、ロンドン特派員電(いたのか……!)として。この記事が紹介された。やはり日本国内では、こういう声が封殺されていたのだろうか。

もうひとつは『朝日新聞』のロンドン特派員(当時)から、「林君は、ずっとこっち(英国)にいた方がいいと思うよ」と忠告されたことだ。日本であんなこと書いたら、右翼に襲撃されちゃうよ、ということであった。当時の私はまだ30歳前の血気盛りで、「右翼が怖くてパチンコ屋に行けるか」などとうそぶいていたものだが、実際にこの半年ほど前、1987年5月3日には『朝日新聞』の阪神支局が散弾銃を持った人物に襲われ、記者2人が死傷した、世に言う「赤報隊事件」が起きていた。同紙の記者の眼に私の言動は、怖い物知らずにもほどがある、と映ったのかも知れない。

▲写真 赤報隊事件で2人の記者が殺傷された朝日新聞阪神支局 出典:Wikimedia Commons; ABNOIC

このように私にとって昭和の終わりとは、一方で過去の戦争責任と向き合い、他方で日本国内に今も根強くある「天皇タブー」と向き合う日々であった。そして、1989年1月7日、いよいよ「Xデー」がやってきた。

(下に続く。

トップ写真:昭和天皇記念館 出典:Frickr;Hayato.D


この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト

1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。

林信吾

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