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.社会  投稿日:2019/2/13

親の葬式にも出れなかった!骨髄ドナーのリスクと恵み


田中紀子(ギャンブル依存症問題を考える会代表)

【まとめ】

・筆者自身が白血病のドナーとなった経験について語る。

・「自分以外に代わりが効かない1日が存在する」という骨髄ドナーのリスク。

・しかし、ドナーは患者のためだけでなく、むしろ自分のためにある。

 

【注:この記事には複数の写真が含まれています。サイトによっては全て表示されないことがあります。その場合はJapan In-depthのサイトhttps://japan-indepth.jp/?p=44118でお読み下さい。】

 

今、日本中が競泳女子の池江璃花子選手の白血病告白に衝撃を受け、心を痛めているがもちろん私もその一人である。池江さんのこれまでの輝かしい記録は、もちろん我々の想像をはるかに超えた努力の上にあるわけで、誰よりもご自身が一番悔しいはずだ。その気持ちを考えると胸が苦しくなる。また、池江さんは私の娘と同い年で、一人の母としてもいてもたってもいられない気持ちから「何かできることを!」と考え、自分自身が白血病のドナーとなった経験を書き、池江さんだけでなく白血病に苦しむ方々の少しでもお役にたてればと願っている。

▲写真 池江璃花子選手 出典:池江璃花子選手公式twitter

白血病の治療には薬物療法など様々あるが、その中の一つが骨髄移植である。骨髄には型があってそれが適合しないと骨髄提供は出来ない。多くは血縁関係にある親兄弟親類と型が一致するそうだが、中にはそういった血縁者の誰とも型の一致がない場合もある。

また、骨髄提供は自身に持病がないことや、薬を飲んでいないことなど様々な条件があるので、全くの第三者と骨髄の型をマッチングさせることも必要であり、その骨髄を提供しても良いと考える人が骨髄ドナーの登録をするのである。

私が骨髄バンクにドナー登録をしたのは1995年のことであった。当時はまだ白血病は不治の病と言われており、国民はこの病気のことを良く知らなかったと思う。私が、最初にこの問題に関心をもったのは、1985年何と言っても女優の夏目雅子さんがこの病気で亡くなったことで、社会に大きな衝撃を与えていた。その後、1991年に骨髄バンクが設立され、その4年後に私はドナー登録をした。

▲写真 筆者の田中紀子氏 ©田中紀子

そしてドナー登録からなんと17年もの歳月を経た2012年に私はドナーとなる機会を得たのである。連絡が来た時には単純に「嬉しかった」。誰かの役に立てることは誰でも喜びではないだろうか。けれども、ひんしゅくを覚悟で正直なことを言えば、未知なことを体験する好奇心にあらがえない気持ちがあった。

さて、ドナー登録の様々なリスクについては骨髄バンクのサイトを参考にして欲しいがここでは、私個人に起こった出来事リスクについて書きたいと思う。言うまでもないがリスクとそれによる感じ方は人それぞれ違うので、それはご了承の上ご一読頂きたい。

まずドナーの候補に挙がってから、実際に骨髄を提供するまでの間に、何が大変かと言えば、とにかく平日の昼間に休みを取らなくてはならないことである。

もう一度採血され、詳しい検査が行われ本当にマッチするかを調べられるのに半日は仕事を休む。そしていよいよドナーとなることが決まると、家族を連れて弁護士からリスクなどについて説明を受け書類にサインをしなくてはならない。つまり骨髄バンクは本人の意思だけでなく、家族の同意も得なくてはいけないのだ。これが本当に面倒くさく、夫は「どうせ妻は何を言っても聞かない。」とあきらめてくれている人なので問題ないが、心配する母の同意をとるのが少々ややこしかった。そしてここでも半日が潰れる。

▲写真 骨髄提供者となられる方へのご説明書 ©田中紀子

さらに一番参ったのがあくまでも私の場合だが、手術の前に「元気な時の自分の血」をとっておき、それを手術後に自分の身体に戻すということをやるのだが、この時、献血のように自分の血を採取していて、それを見ていたらまさに血の気が引き、血圧が急降下してしまって起き上がれなくなってしまったのである。情けない話なのだが、私は威勢がよく「口喧嘩は負けた事がない!」と若い頃豪語していたタチなのだが、血を見ることが非常に苦手である。確か看護婦さんが焦る位、血圧が下がってしまい、その日は全く仕事に行けなくなり、ぜいぜい言いながら家に帰る羽目になった。これは、こういう「血を見るのが苦手」ではない人は、全く経験することのないリスクであろう。

さて、いよいよ骨髄提供の手術をするわけだが、ご承知の方もいらっしゃるかと思うが、この手術日というのは、こちら側だけでなく、最も重要なのは白血病(他の病気でも適用される場合もあるが)患者さんが移植を受ける日なのである。そしてこの移植の日が決まると患者さんは放射線治療に入っており、予定通り移植を必ず受けなければ命の危険にさらされることになる。だから弁護士の同意書を書いたあとは、何があっても絶対に辞退することはできないのだ。

これは本当に緊張することで、私の場合「インフルエンザにならないように」「事故っちゃいけない」と普段どちらかと言えばめちゃくちゃな生活習慣なので、この間は実に気をつけて過ごすこととなった。

ところが!である。人生というのはままならぬもので、ここで我が家に緊急事態が発生した。なんと私の入院前日に義父が亡くなったのである。これにはさすがに茫然とした。

ただでさえ私は評判の悪い嫁である。ギャンブル依存症で夫婦が揉めていた時は、義父母の前で大喧嘩をし、挙げ句私は夫のことをひっぱたいてしまった。さらに、その後ギャンブル依存症の自助グループや回復施設の活動で、ものすごく忙しくなり、夫の実家のイベントごとなど殆ど顔を出せなくなっていた。それでも義父というのは寡黙な、優しい下町の職人として生涯を全うした人で、嫁の私に文句は死ぬほどあっただろうが、特に何か言われたことも、嫌味も、まして怒られたことなど一度もなく、いつも黙ってニコニコ笑っているような人だった。今思いだしても感謝しかない。それなのに私は義父の葬儀にも行かれないという事態になってしまったのである。

入院の前日、自宅に寝かされ義母や夫の姉兄ら親類一同そして我が家の子供達が集まって義父の亡骸にお別れをしていた。特に感受性豊かな当時小学校5年生だった息子が、階段の隅っこに座り、ショックのあまり一人涙をホロホロと流しながら、声を出さずに泣いている姿をみて「子供達が生まれて初めて身内の死に触れショックを受けているのに、母親の私は一緒にいてやれない。」そしてこれだけ心配をかけたにも関わらず、優しく見守ってくれた義父の葬儀にも立ち会わない嫁、この罪悪感で心が潰れてしまいそうであった。

そう、私が考える骨髄ドナーのリスクは、絶対に外せない自分以外に代わりが効かない1日が存在すること。この一言に尽きると思う。正確には前後合わせたら最低でも3日間は絶対に外せないのだ。

私の場合は義父であったが、万が一自分の子供に何かあったら?大切な人が亡くなったら?例え配偶者が事故にあっても、自分は駆けつけられないのである。こんなリスクがあることを、引き受けた時は想像もしなかったが、まさに身をもって体験することとなった。

それでも腹をくくり勇気を出して義姉と義母に「ごめん、私骨髄バンクのドナーになってて、明日から入院なんだわ。だからお葬式行かれない。」と伝えると義姉も義母もこころよく「のりちゃん、もちろんそっちを優先して。生きてる人の方を大事にして。」と言ってくれた。私がもし嫁にこう言われたら、絶対に嫌味の一つも返すはずで、義姉と義母の優しい気遣いにも心から感謝している。

さて、ではドナーの手術によるリスクである。

手術自体は全身麻酔なので、何も分からないまま終わってしまう。この全身麻酔の影響や手術後の経過は人それぞれなので、何とも言えないが、私は1日だけ若干発熱し、頭痛がした以外は、翌日からは全くなんの悪影響もなかった。しかしこれは骨髄バンクのコーディネーターの方によれば比較的珍しいそうで、皆さんなんらかの不定愁訴は多少なりともあるそうである。

しかし大変だったのは退院後からの1週間である。とにかく針をいっぱい刺した腰が鈍痛に見舞われ、階段が登れなくなっていた。歩くことはそれほど大変でもなかったが、階段がゆっくりゆっくりそろそろとしか登れないほど痛かった。あんまり痛いので、腰を鏡で見てみたら、腰一面内出血していてそのグロテスクな様子に我ながら驚いた。面白いことにこの内出血が段々小さくなって下がっていって、見えなくなったころにはすっかり痛みもひいてしまった。その後何の後遺症も感じられない。

このように確かに骨髄バンクのドナーにはリスクが伴う。けれどもやはり私は「やらせてもらってよかった!」という思いしかない。ドナーというのはどう考えても患者さんのためだけではなく、ドナー自身のためにあると思っている。

もしドナーにならなければ、夫の家族に感謝する謙虚な自分がいただろうか?息子の涙をこれほど鮮明に覚えていただろうか?そしてもちろん白血病という病気について考える日が来ただろうか?

でも何よりも一番大きかったのは、一生出会うこともない、どこの誰かも知らない人を助けねば!という思いに駆られ、うだうだと心配する母を説得し、仕事の日程を調整し、苦手な「血を見ること」にも挑戦し、そして義父の葬式に出ないことを決意し、家族に許しを得る・・・そんな困難に挑戦する自分を「案外いい奴じゃん!」と好きになることができた。こっそりと自分で自尊心を溜めこむことができたのである。

「骨髄バンクのドナーになった」と言うことは実にはばかられることである。「いかにも良いことやってます!」とアピールしているようで気恥かしい。理解されず「自業自得だ!」と罵倒されながら「依存症の偏見を解消するぞ!」と闘志を燃やしている方が、よほど私らしい気がする。

けれども2016年に中日新聞さんが私のドナー体験を取り上げて下さり、国会でもその記事を「日比プラン」を推進されている大西健介先生が取り上げて下さった。その時に、「なるほど、私の骨髄バンクのドナーとなった体験談もまた誰かの役に立つのかもしれないな」と思った。

骨髄バンクのドナーを経験した私が、ドナーを考えている方に何かお伝えすることがあるとしたら、「ドナーは患者さんのためだけでなく、むしろ自分のためにある。」ということである。その経験は、おそらく思っていた以上に面倒くさいし、大変だし、私のようなアクシデントに見舞われるかもしれないし、もしかしたら身体的な障害を被る可能性だってゼロではないのである。でもそういう感情的な恐れや、周囲の環境調整をしていく自分をきっと愛することができると思う。

私は、骨髄バンクを通じ一度提供者のご家族から感謝のお手紙を頂いた。嬉しいことではあったが、私はお返事を出さなかった。それは私に感謝して貰うことは筋違いだと思ったし、ドナーのことなど気にせず生きて!という私なりのエールで、おそらくお相手には全く通じていないと思う。

でも、感謝すべきは闘病生活に身をもって投じ、私たちに勇気を与えた、夏目雅子さんや本田美奈子さんら患者さんご自身の姿であり、骨髄バンクの運営に尽力された方々だと思っている。

それでもこうしてあざといと思われるかもしれないとびくびくしながら、体験を書かせて頂いたのは、ドナーというのはそれだけの価値が私にあったからであり、もちろんドナーが増えて助かる人が増えたらいいなという思いがあるからである。

骨髄バンクのドナーには55歳までしかなれない。今年の9月で私もこのお役目をおりることになる。若い世代に何かの参考になれば有難いと思う。

トップ写真:出典 Photographer’s Mate 2nd Class Chad McNeeley


この記事を書いた人
田中紀子ギャンブル依存症問題を考える会 代表

1964年東京都中野区生まれ。 祖父、父、夫がギャンブル依存症者という三代目ギャンブラーの妻であり、自身もギャンブル依存症と買い物依存症から回復した経験を持つ。 2014年2月 一般社団法人 ギャンブル依存症問題を考える会 代表理事就任。 著書に「三代目ギャン妻の物語(高文研)」「ギャンブル依存症(角川新書)」がある。

 

田中紀子

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