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.国際  投稿日:2019/7/24

チャーチルとド・ゴール 今さら聞けないブレグジット その3


林信吾(作家・ジャーナリスト)

林信吾の「西方見聞録」

【まとめ】

・「1946年の二つの演説」から、欧州にとってソ連圏の存在は脅威そのもの。

・仏ド・ゴール大統領はイギリスの加入に断固反対だった。

・1960年代、仏独の発展は目覚ましく、英は停滞していた。

 

【注:この記事には複数の写真が含まれています。サイトによっては全て見ることができません。その場合はJapan In-depthのサイトhttps://japan-indepth.jp/?p=47038でお読み下さい。】

 

「バルト海のステテティンからアドリア海のトリエステまで、ヨーロッパ大陸を横切る鉄のカーテンが降ろされた。中欧・東欧の古くからの首都は、このカーテンの向こう側にある。ワルシャワ、ベルリン、プラハ、ウィーン、ブダペスト、ベオグラード、ブカレスト、ソフィア。これらの有名な都市とその周辺の住民は(中略)、モスクワからの厳しい統制を受けている。(中略)これは、我々がその解放のために戦ったヨーロッパの姿では断じてない

1946年3月、英国のウィンストン・チャーチル元首相が、米国での講演で述べたこの言葉は、冷戦構造を端的に表現したものとして日本でも有名だ。

ちなみに鉄のカーテンというのは、劇場などにある防火シャッターのことで、外交問題において、相手が鉄のカーテンの向こう側にいる、と言った場合は、「まともな交渉ができる相手ではない」という比喩として、英国では結構昔から使われてきたようだ。つまり、チャーチルの造語ではない。ともあれ、チャーチルはソ連圏の存在について、脅威以外のなにものでもない、と強調したわけだ。

実は同年、スイスにおいても講演し、こんなことも言っている。「我々には、平和と安全を保証する〈ヨーロッパの家〉と呼ぶべきものが必要だ」「ヨーロッパ合衆国の創建を今こそ目指すべきである」日本では、前述の「鉄のカーテン演説」ばかりが有名だが、欧米の戦後史を学ぶ人は、この「ヨーロッパの家演説」とあわせて「1946年の二つの演説」と教わっている。

とどのつまりチャーチルは、戦後最初にヨーロッパ統合思想を唱えた一人であったことになるが、皮肉にも、イデオロギーにおいてチャーチルの衣鉢を継ぐと自負している保守党右派の政治家には、EU離脱派が圧倒的に多い。

これについて私は、離脱派の代表的な論客とされる国会議員に直接質問をぶつけたこともあるのだが、「そもそもチャーチルが言いたかったのは、ソ連の脅威に対抗すべく、西ヨーロッパは過去の因縁を捨てて結束すべきであるということで、現在のEUのような統治形態を望んでいたわけでは決してない」というのが、彼らの共通認識であるようだ。

これまた皮肉な話ということになるのだが、冷戦が終結したのを期に、フランス社会党が「社会主義国家建設」からヨーロッパ統合へと方針を転換したことで、単一通貨ユーロの導入など、統合が一挙に加速されるのだが、その流れもまた、一朝一夕にできたわけではない。

一度時計の針を戻して、前回紹介させていただいた、1951年のシューマン宣言以降の動きを、少し見て行くことにしよう。

1953年、前回紹介した石炭鉄鋼共同体(ECSC)加盟6カ国は、石炭と鉄鋼に鉄くずを加えた、資源の共同市場を創設。

1957年、加盟国間における労働者の移動の自由などを保証したローマ条約が批准され、翌58年、欧州経済共同体(EEC)が発足する。

英国にとっては、愉快な話ではなかった。チャーチルの演説をもじって言えば、「ヨーロッパの西半分を横切る経済ブロックが出現した」わけである。

当然ながら、この段階で仲間入りを目指す選択肢もあったのだが、フランスの指導者であったド・ゴールが、アングロサクソン憎しの感情に傾斜していた。とどのつまり、英子君加入には断固反対であったのだ。

▲写真 シャルル・ド・ゴール元大統領 出典:帝国戦争博物館

その理由は単一ではないと思われるが、1944年6月6日のノルマンディー上陸作戦において、連合軍総司令官アイゼンハワー大将が、「英語を連合軍の唯一の公用語とする」 と布告したことが、どうしても許せなかったのだと見る向きが多い。英語が国際語としての地位を確立したのはこの時である、というのが定説になっているのだが、そもそもフランス解放のための戦いではないのか、というド・ゴールの主張は省みられなかった。

やはり前回紹介したジャン・モネは、はじめから英国との協調を目指しており、「ヨーロッパの経済地図から英仏海峡を消し去る」という構想を持っていたのだが、なにしろ「上司」がこの態度なので、とりあえずドイツと協調してヨーロッパ統合を推進する他はなかった

こうなると英国としては、別の経済ブロックを立ち上げて対抗する他はない。かくして1960年、スウェーデン、オーストリア、ノルウェー、スイス、デンマーク、ポルトガルを糾合し、英国を加えた計7カ国で欧州自由貿易連合(EFTA)が旗揚げされる。後にフィンランドとアイスランドも加盟した。

ヨーロッパの資本主義陣営が、ふたつの経済ブロックに分断されたわけで、ある年代以上の読者は、加盟国数から「シックスとセブンの対立」と称されたことを、ご記憶ではないだろうか。しかし、結果から言えば競争にも勝負にもならなかった。

1960年代に入ると、フランスと西ドイツの復興は完全に軌道に乗り、とりわけその自動車産業は、世界市場を騒がせるまでになっていた。ヨーロッパで小型車と言えば、西ドイツのフォルクスワーゲンかフランスのルノーと称されたのである。またしても余談ながら、設計はどちらもドイツ人のフェルディナント・ポルシェ博士の手になるものだ。

▲写真 1960年代フォルクスワーゲンビートル 出典:Wikimedia Commons; AlfvanBeem

これに対して、かつて「世界の工場」と称された英国は、世界の市場を席巻し得るような製品を生み出せなくなっていた。これでは、投資先としてシックスとセブンを見比べた場合、どちらが魅力的かは子供でも分かる。

当然の結果として、英国は言い出しっぺでありながら、1973年にEFTAから脱退し、欧州共同体(EC。1967年に発足)に加盟することとなった。

これでお分かりのように、英国がヨーロッパ統合の流れに乗ったのは、政治家たちの主体的な意志ではなく、経済的な理由で単一市場に参加せざるを得なかったからだ。

三つ子の魂百まで、ではないが、今日のブレグジットを巡る混乱も、まったく同じ理由によって引き起こされたものなのである。

その4に続く。その1その2

トップ写真:ウィンストン・チャーチル元首相 出典:帝国戦争博物館


この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト

1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。

林信吾

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