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.国際  投稿日:2019/7/30

意外な「日仏関係史」 今さら聞けないブレグジット その4


林信吾(作家・ジャーナリスト)

林信吾の「西方見聞録」

【まとめ】

・「ド・ゴールの反乱」危機乗り越えたEUがギリシャ危機で頓挫するはずなし。

・欧州統合の動きにド・ゴールが反旗。きっかけは日本も関わった「U2事件」。

・「フランス・ファースト」のド・ゴールにフランス国民が「ノン」。統合は加速化。

 

【注:この記事には複数の写真が含まれています。サイトによってはすべて見れないことがあります。その場合はJapan In-depthのサイトhttps://japan-indepth.jp/?p=47107でお読みください。】

 

21世紀に入ってから、ギリシャ危機などが喧伝され、日本のマスコミでは、「EUは失敗だった」「もう駄目だろう」という声がよく聞かれたが、私は鼻で笑っていた。「1965、66年危機」あるいは「ド・ゴールの反乱」と呼ばれた時期のことについて、一応の知識はたくわえていたので、あの危機を乗り越えたヨーロッパ統合の動きが、この程度で頓挫するはずはない、と考えたのだ。なので、民放の某キャスターが、「来年の今頃、ユーロはまだあるかなあ」などとニュース番組の中で発言した際も、この老キャスターのご存命中は大丈夫でしょう、と嫌みを言うにとどめておいた。

▲写真 ギリシャ危機。写真は2011年3月29日にアテネで行われた緊縮財政の反対デモ。主催者発表では、10万人が参加したとされる。出典:Wikimedia Commons; Kotsolie

前回、1950年代を通じて、当時の西ドイツとフランスを中心に、資源の共同管理から共同市場EECの立ち上げへと進む動きを横目に、英国を中心に別の経済ブロックを立ち上げ、「シックスとセブンの対立」と称されたものの、セブン(=英国などEFTA)はあっさり敗れ去った、という話をさせていただいた。

少しだけ説明を追加させていただくと、この「シックスとセブンの対立」を背景に、EEC加盟6カ国は、ECSC(欧州石炭鉄鋼共同体)Euratom(欧州原子力共同体)を同一機関による運営にゆだねることとし、EC(欧州共同体)が新たに誕生した。1967年のことである。ただしEuratomだけは現在も独立組織で、この結果、福島第一原発の事故を受けてドイツが脱原発に舵を切ったのに対し、フランスは相変わらずに原発推進派だという現象も起きている。

これでお気づきのように、ECの旗揚げに先駆けて、統合の動きを一時的に大きく後退させ、一つ間違えば連合体そのものが解体してしまうのではないか、という危機に見舞われていたわけだ。その主役がド・ゴールであったため、彼の反乱とも称されるわけだが、実はそのきっかけとなった出来事は、日本も深く関わっていた「U2事件」である。

▲写真 シャルル・ド・ゴール第18代仏大統領(1961年5月20日)出典:Wikimedia Commons; ドイツ連邦公文書館

1960年5月1日、ソ連領上空を偵察飛行中だった、米軍のロッキードU2偵察機が、地対空ミサイルで撃墜され、パイロットはからくも緊急脱出に成功したものの、パラシュートで地上に降下したところを逮捕される、という事件が起きた。彼が、「自分の任務はスパイ行為であった」と自白したことから,ソ連側も態度を硬化させ、「この次に領空侵犯・スパイ行為があった場合は、こうした航空機の出撃基地を攻撃することも辞さない」と恫喝を加えてきたのである。

これが、日本を震撼させた。神奈川県の厚木基地が、ソ連から一番近い出撃基地で、問題の機体も一時は厚木基地所属だったのだ。このため日本国内では、在日米軍基地の存在が、かえって日本の安全を危うくするのではないかという「安保巻き込まれ論」が力を持ち、とうとう米軍は、日本国内の基地からU2を撤退させてしまう。

▲写真 撃墜したU2機の残骸を視察するニキータ・フルシチョフ書記長(1960年)出典:Wikimedia Commons; Public Domain

これに続いて、1962年に起きたキューバ危機でも、戦争の危機は回避された。キューバ危機について言えば、当時の米政府高官らの口から、「本当に全面核戦争の一歩手前だった」という証言が複数残されているので、早計には言われないことだが、いずれもド・ゴールの目には「冷戦の仮想性」を証拠立てるものであると映ったらしい。

ひらたく言えば、米ソは互いにハッタリをかましあっているだけで、本気で互いの存亡をかけた戦争など、やるつもりはないに違いない、というわけだ。この発想に立つならば、ヨーロッパ統合という政治的な動きも、要は米国の世界戦略、具体的には「共産主義に対する防波堤は堅持したいが、そのための軍事的・経済的負担は軽減したい」という、ある意味で矛盾した政治的要求を満たすためのものではないか。ジャン・モネらはその動きに乗せられているだけではないかーーこのように考えられるではないか。

最終的に彼は、「統合されたヨーロッパなど、フランスのため、フランス人のためにならない」と言ってはばからないようになった。つまりは「フランス・ファースト」の政策を掲げて、ヨーロッパ統合の動きに反旗を翻したド・ゴールだったが、そんな彼に、他ならぬフランス国民が「ノン」を突きつけた。

煎じ詰めて言えば、先の大戦を知る世代は、戦闘的愛国心を声高に煽る政治家の危険性をよく知っていたし、若い世代は若い世代で、フランスの栄光よりも「国境のないヨーロッパ」の方がよりロマンチックだと考えたのである。

▲写真 街路に築かれたバリケード(1968年5月 仏・ボルドー)出典:Wikimedia Commons; Public domain

かくして1960年代末期のフランスにおいては、折からのヴェトナム反戦運動と連動して反ド・ゴールの大衆運動も盛り上がり、1968年5月には、労働者のゼネストと大規模なデモが起き「パリ5月革命」とまで呼ばれた。これに対し、「共産主義か、ド・ゴールか」とのスローガンで対抗した政権与党は、一度は総選挙で辛勝したものの、求心力の低下は隠しようもなく、翌年ド・ゴール大統領は退陣を余儀なくされる。

ちなみに、このパリ五月革命は、1970年代初期の日本における学生運動・市民運動の盛り上がり=世に言う「政治の季節」にも大きな影響を与えた。

そして1970年代に入るや、ヨーロッパ統合の動きはまたも加速し、やがてEU(欧州連合)の誕生へと至るのだが、これについては次稿でもう少し詳しく見る。

本稿の最後に指摘しておきたいことは、ヨーロッパ統合の牽引役となったフランスの政治家たちが、日本についてはあまりよい印象を持っていなかった、ということだ。これは日本でも有名になったが、1979年に当時のECの内部文書において、日本人のことを「ウサギ小屋で暮らす仕事中毒」と表現していたことが明るみに出た。日本人は、自虐的なジョークが存外好きなのか、ウサギ小屋という言葉が流行したりしたが、単一通貨ユーロの導入など、EUの試みがあまり高く評価されていないように見受けられるのは、過去にこういうことを書かれたことも、もしかしたら関係しているのかも知れない。

次回は、EUの初代委員長ジャック・ドロールを紹介し、併せて時の英国首相マーガレット・サッチャーとの確執について見ることにしよう。

その5につづく。その1その2その3

トップ写真:EU旗 出典:flickr; Global Panorama


この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト

1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。

林信吾

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