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.国際  投稿日:2019/8/1

英仏「信念の政治家」の相克(下)今さら聞けないブレグジット その6


林信吾(作家・ジャーナリスト)

林信吾の「西方見聞録」

【まとめ】

・ドロールのECSCにサッチャーは英国政府の財政再建のため賛成。

・サッチャーの意思に反し、ヨーロッパ統合の動きは加速。

・新自由主義経済の格差と英国の孤立がサッチャーを退陣に追いやった。

 

【注:この記事には複数の写真が含まれています。サイトによってはすべて見れないことがあります。その場合はJapan In-depthのサイトhttps://japan-indepth.jp/?p=47153でお読みください。】

 

1980年代後半、ヨーロッパ統合をめぐって、初代EU委員長ジャック・ドロールと、英国の女性首相マーガレット・サッチャーは、激しく対立した。

 

ドロールの人となりについては(上)で触れたので、本稿ではサッチャーを中心に話を進めるが、はじめに明記しておきたいおこがある。

 

1970年代以降、第二次世界大戦で指導的な役割を果たしたヨーロッパの政治家たち(具体的にはチャーチルやド・ゴールら)は、相次いで政治の表舞台から去っていった。

▲写真 ウィンストン・チャーチル首相 出典:the Imperial War Museums

 

代わって、調整能力に長けた経営者的な政治家が増えたわけだが、平和を享受する一方、「経済戦争」が戦われる時代になったことを思えば、これも取り立てて不思議な現象ではないと言えるだろう。経済官僚出身の政治家が政治の主導権を握った日本が、復興と経済成長のトップランナーとなり得たのも偶然ではない、と私は考える。

 

そんな中、強い信念と個性を遺憾なく発揮したこの二人は、異彩を放っていた。

 

もっとも、ドロールがEC委員長に就任してしばらくの間、具体的には1980年代の間は、この二人は協同して農業問題に取り組んだ。もう少し具体的に述べると、通称ドロール委員会が最初に取り組んだのは、ECの権限を強化して、石炭や鉄鉱石などの地下資源と同様、農産物の生産と供給も超国家的機関で管理しよう、という政策であった。

 

それまでヨーロッパの農業は、輸出市場の奪い合いを主因として、「政府の補助金をたっぷり吸った小麦と食肉とチーズの山が、ワインとミルクの湖に暗い影を落としている」などと評されるほど、需給のコントロールができていなかった

 

これを、すでに紹介したECSC(欧州石炭鉄鋼共同体)のような機関を立ち上げて管理をゆだねればよい、というのがドロールのアイデアであったわけだが、当初は、フランスの農民などに負担がかかるとして、農村票を当てにしている政治家の反対論も、なかなか根強かったと伝えられる。

 

しかし中長期的に見れば、加盟国の財政負担軽減と食糧の安定供給を同時に実現することが期待できる良策であるとして、次第に賛成論が上回っていった。

 

サッチャーまで賛成に回ったというのは、彼女はもともとこうした「大きな政府」の考え方は好きではなかったのだが、当時の英国政府にとっては財政再建こそが最重要かつ喫緊の課題であったため、反対論を展開しようにも、その基礎となる大義名分がない、という判断であったものと考えられる。

 

しかし、次のステップには、さすがについて行けないようであった。次のステップとは、政治統合である。

 

1986年に起草された「単一欧州議定書」を基礎として、ヨーロッパに「国境なき国家連合」を出現させようというものであったが、これに対してサッチャーは、「この議定書の批准を英国議会で論ずる考えは、毛頭ありません」と言い切った。

 

サッチャーは、フランスと西ドイツ(当時)の左翼が牛耳っているドロール委員会など、唾棄すべきものと言ってはばからなかったし、さらに言えば、なかなか強硬な反共主義者であった彼女の目には、ドロールの行き方は、かつてマルクスの盟友だったフレードリッヒ・エンゲルスが唱えた「ヨーロッパ社会主義連邦」が形を変えて登場してきたものであると映ったのだろう。しかし、歴史はサッチャーでなくドロールを選んだ

▲写真 ジャック・ドロール氏 出典:Wikimedia Commons; User:nvpswitzerland

 

1989年に冷戦が終結し、東西ドイツの統一が現実的な政治課題となったことで、ヨーロッパ統合の動きは再び加速する。

 

今度は「ソ連の脅威」に対抗するためではなく、ソ連の強い影響下にあった東欧諸国が相次いで民主化を成し遂げ、そこに統一されたヨーロッパの市場経済が出現したら、雪崩をうって参加してくるに違いない、と考えられた。

 

実際問題として、現在(この原稿を書いている2019年7月末の段階では、英国を含む)のEUの人口は、およそ5億人。それも、世界でもっとも生活レベルの高い5億人であるから、市場経済の立場から、これを無視することは絶対にできないのである。

 

……話が少し先回りした。ヨーロッパ統合を強力に推進するドロールの主導で、1992年に欧州連合条約が締結され、翌93年11月1日、EU(欧州連合)が発足する。

 

これに先駆け英国では、サッチャー首相が退陣に追い込まれるという事態が起きた。

 

冷戦を「勝利」に導き、英国経済を復活させた立役者として、大衆的人気を誇っていたサッチャーではあったが、ふたつの理由から、英国の財界、そして財界の強い影響下にある保守党主流派から見放されてしまったのだ。

 

理由のひとつは、新自由主義経済の負の側面である格差の拡大で、このため大衆的人気にも陰りが見えてきていた。そしてもうひとつ、ヨーロッパ統合をむやみと敵視するサッチャーの政治姿勢は、「英国を〈名誉ある孤立〉ではなく、単なる孤立へと追いやる」と見なされたのである。

 

この間の政治状況については『サッチャー回顧録』(邦訳は日本経済新聞社)を読むとよく分かる。もちろん彼女の立場からの一方的な主張ではあるが、統合されたヨーロッパという巨大で魅力的な市場を失うことを恐れた保守党議員たちが、それまでの英雄扱いから掌を返すようにして「サッチャー降ろし」に動いた経緯がよく分かる。

 

 結局サッチャーは辞任し(1990年11月28日)、後継者となったジョン・メージャーはECとの関係改善へと政策の舵を切ったのだが、1997年の総選挙では、「英国のために、欧州でリーダーシップを取る」

との公約を掲げたトニー・ブレアに敗れ、18年ぶりの労働党政権誕生となった。

▲写真 トニー・ブレア首相 出典:Air Education and Training Command

 

お分かりだろうか。

 

今次のブレグジットは、突如持ち上がった問題ということでは決してない。

 

1960年代に、当時のEECに対抗してEFTAを立ち上げた時、そして1980年代末期のサッチャーとドロールの暗闘に続き、英国がヨーロッパ統合の動きに背を向けようとするのは三度目なのだ。

 

過去の二回は、再三述べてきたように、巨大な市場を失いたくない、との意見の前に、押し切られてきた。

 

7月24日、EU強硬離脱派のボリス・ジョンソン首相が「誕生したが、これでいよいよ三度目の正直となるか(英語にも、サードタイムズ・ラッキーという言い方がある)、それとも二度あることは三度ある、という結果に終わるか。

 

その話題はさらに稿をあらためることにして、次回は統一通貨ユーロについて見る。

 

(その7に続く。その1その2その3その4その5) 

トップ写真:マーガレット・サッチャー首相 出典:Flickr; Levan Ramishvili


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