度を超す文政権の金正恩配慮
朴斗鎮(コリア研究所所長)
【まとめ】
・韓国政府、北朝鮮漁船員の亡命意思を無視し異例の速さで送還。
・北朝鮮船員の素早い追放に数々の疑惑。
・文政権の「法を無視した北朝鮮ご機嫌伺い」に批判集まる。
韓国の文在寅政権は11月7日、朝鮮半島東側の南北軍事境界線にあたる北方限界線(NLL)を越えて韓国海域に入り、11月2日に韓国軍当局に拿捕(だほ)された北朝鮮漁船の住民2人を異例の速さで7日午後に板門店で北朝鮮側に引き渡したと発表した。韓国政府が北朝鮮住民を追放したのは今回が初めてだ。
・北朝鮮漁船員追放に関する韓国政府の発表
この事件に対して韓国統一部の李相旻(イ・サンミン)報道官は7日の会見で、「(韓国政府の)合同調査の結果、2人は20代の男性で、操業中のイカ釣り漁船で乗組員16人を殺害して逃走したことが確認された」と明らかにした。
その上で、殺人などの重大な非政治的犯罪は保護の対象にならず、韓国国民の生命と安全に脅威を与えるほか、凶悪犯罪者は国際法上の難民として認められないことから政府内で協議して追放を決めたと説明した。
金錬鉄(キム・ヨンチョル)統一部長官の国会外交統一委員会での説明によると、2人は8月中旬に北朝鮮東部の金策港を出航した船に乗ってロシア海域などでイカ漁をしていたが、暴力を振るう船長を3人で共謀して殺害。犯行を隠蔽(いんぺい)するため漁船の乗組員15人も殺害した。北部の慈江道に逃走するため、金策港付近に移動したが共犯の1人が逮捕され、再び逃走した。韓国に入る過程で海軍に発見され2日間逃走。警告射撃を受けながらも逃走を試みたという。韓国政府は、2人が乗っていた船舶も8日に北方限界線上で北朝鮮側に引き渡された(聯合ニュース2019・11・7 )。
ところが統一部発表後の10日になって、北朝鮮漁船の住民2人は北朝鮮に送還されることを知らなかったことが分かった。彼らが北朝鮮に追放されることを知れば自害など突発行動をする恐れがあるため、目的地を告げず、警察特攻隊が車を護衛したという。北朝鮮船員の抵抗に備えて猿ぐつわも準備したとされる。
追放は主犯のオ氏が先に軍事境界線で北朝鮮側に引き渡され、控え室で待機していたキム氏(23)が続いて引き渡された。目隠しを取ったオ氏は境界線の向こう側に3人の北朝鮮軍兵士が立っているのを見て、その場に座り込んだという。続けて出てきたキム氏は、北朝鮮軍兵士を見て愕然とし、軍事境界線を越えたという(東亜日報2019・11・11)。
写真)板門店 非武装地帯(DMZ)の韓国人兵士
出典)Photo by Henrik Ishihara
・疑問だらけの北朝鮮船員の素早い追放
北朝鮮の船員2人は、亡命の意思を韓国側に表明したにもかかわらず、北朝鮮への追放を知らされないまま急いで追放された。前例のない事件の内容から見て、最低限の措置として韓国政府は直ちに国民へ知らせるべきだったがそれもしなかった。
北朝鮮船員を送還した事実は、7日に国会へ出席した大統領府関係者の携帯電話メールに記された送還計画が、メディアのカメラにキャッチされたことで公になった。隠蔽を企図していたとしか思えない。
野党議員らは統一部長官に対し、状況把握のため「すぐに送還を止めろ」と要求したが、その時既に追放は終わった状態だったという。
この事件の疑問点は一つや二つではない。
まず何よりも銃器も持たないで果たして3人で16人を殺害できるだろうかという点だ。韓国の多くの専門家は疑問だとしている。
次に亡命意思を明らかにしたにも関わらず、なぜ早々と強制送還したかということだ。韓国政府には人権を無視してまで急いで措置しなければならない秘密協約でもあったのだろうか?
3つ目は、「死体や凶器など証拠がなく、無罪の可能性が高い」との見解もあった二人に対して、韓国の法律に基づく裁判にも付さず「死刑宣告」とも受け取れる強制退去措置を取ったことだ。人権を尊重する民主主義国家では考えられないことだ。
4つ目は、北が要求する前に韓国側が先に送還を打診したというのも理解し難い行為だった。
そして5つ目は、現場の担当軍人(イム中佐)が国防長官を通り越して大統領府金次長にメールで直接通報していることだ。これは明らかに軍規律違反といえる。
この件だけではない。6月にも江原道(カンウォンド)の三陟(サムチョク)港に入港した北朝鮮の木船の「海上ノック亡命事件」(住民からの通報で韓国軍が知る)でも「4人のうち2人は北へ戻す」と発表し、それからわずか1日で送還手続きを済ませるという疑惑の行動で世論の批判を受けた。
文政権の「法を無視した北朝鮮に対するご機嫌うかがい」は度を越している。「文在寅大統領は金正恩に重大な秘密を握られているのではないのか」と主張する人たちまで出てきている。
写真)文在寅大統領
出典)flickr Photo by)Republic of Korea
・人権団体が北朝鮮住民追放を「死刑宣告」も同じと強く批判
韓国の憲法上、北朝鮮住民は全員が大韓民国国民であり、韓国に入ると同時に基本権を享受する資格がある。自国民に対する裏取り捜査も十分行わず、裁判も受けさせず、犯人引き渡し条約もない「北朝鮮という国」に、それも「引き渡せば確実に命が奪われる」ことを知りながら、「推定無罪」の「容疑者段階」で、引き渡すなどとは言語道断の行為と言わざるを得ない。
この措置に対して米国などから「国連の拷問等禁止条約違反」などの批判が相次いでいる。米政府系の「ラジオ自由アジア(RFA)」が11月7日に報じたところによると、北朝鮮問題専門家で弁護士のジョシュア・スタントン氏は「北朝鮮住民も憲法上は大韓民国の国民だ。法的な手続きもなく、拷問など想像できないほど残酷な仕打ちをうけかねないところに彼らを送り返した今回の行為は、国連の拷問等禁止条約違反だ」と指摘した。
また北朝鮮人権団体「北朝鮮人権委員会」で事務局長を務めるグレッグ・スカラチュー氏も「韓国政府は2人の北朝鮮住民に事実上の死刑宣告を下した。その手続きにはわずか3日しかかからなかった。この点を強く懸念している」と述べた。
国際人権団体のヒューマン・ライツ・ウォッチ副局長のフィル・ロバートソン氏も「韓国政府が発表した内容は全く理解できない」と指摘した(朝鮮日報日本語2019/11/09 )。
トップ写真 韓国国旗
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この記事を書いた人
朴斗鎮コリア国際研究所 所長
1941年大阪市生まれ。1966年朝鮮大学校政治経済学部卒業。朝鮮問題研究所所員を経て1968年より1975年まで朝鮮大学校政治経済学部教員。その後(株)ソフトバンクを経て、経営コンサルタントとなり、2006年から現職。デイリーNK顧問。朝鮮半島問題、在日朝鮮人問題を研究。テレビ、新聞、雑誌で言論活動。著書に『揺れる北朝鮮 金正恩のゆくえ』(花伝社)、「金正恩ー恐怖と不条理の統