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.国際  投稿日:2020/9/15

NYコロナ禍 ある看護師の壮絶体験


柏原雅弘(ニューヨーク在住フリービデオグラファー)

【まとめ】

・キム・キヨコ氏、ニューヨークで新型コロナの患者を看護を経験。

・アメリカでは看護師は医師と同等の地位がある職業。

・日本で受けた看護教育が高いプロ意識を育んだ。

 

19年前の9月の朝。

私は、けたたましく鳴り響く電話で起こされた。

「なんでもいいからとにかくテレビを付つけてみろ!」

電話の相手の声は震えていた。

映し出されたのは猛々と黒煙が吹き出す高層ビルの映像。

今日は2020年9月11日。

空を見上げると強烈な記憶が蘇る。

攻撃があった直後に航空管制が敷かれたはずのニューヨークの上空を、ありえなくらいの爆音を轟かせながら飛行する2機の戦闘機。再攻撃か!?と通行人たちとともに路上にへたり込んだ。

この目で見た、まるでだるま落としのように垂直に地面に沈み込んでいく、7(セブン)ワールド・トレードセンター

▲写真 今年の9月11日のワールド・トレード・センター周辺 出典:著者撮影

ニューヨークの現場では2700人以上の人たちが亡くなった。

亡くなった中には多くのファースト・レスポンダー(消防士、救命救急士、警察官など初期対応に当たる人たち)も含まれていた。命と引き換えに現場に向かった彼らは今でも「ヒーロー」と称賛されている。

▲写真 2001年当時、ワールド・トレード・センター倒壊現場取材に毎日履いていった靴。瓦礫の中をつま先に鉄板が入った安全靴で歩き回った。近隣の道路はどこもくるぶしを超える細かな建材の破片で歩くのがとても困難だった。倒壊のホコリと炎上する現場の煙で、晴天でも太陽が隠され、近隣のウォール・ストリートは昼間でも暗かった。風下ではどこでもゴミ処理場の焼却炉の中にいる匂いがした。 出典:著者撮影

あれから19年。

私の近くには、「今のヒーロー」がいる。

キム・キヨコさんはニューヨークのマウント・サイナイ・ウエストという大病院の脳外科ICU(集中治療室)で働く日本人看護師だ。東京出身。5月の下旬、知り合いのジャーナリストの取材に同行して知り合った。

キヨコさんがニューヨークに来たのは1996年。日本で看護学校卒業後、看護師として働き、渡米。米国の大学で勉強して資格を取得して以来、ずっとアメリカの医療の現場で働いている。

▲写真 私の地元の病院前の横断幕に張り出された子供の絵 出典:著者撮影

今年の3月15日。

脳外科勤務のキヨコさんであったが、ついに新型コロナの患者の対応に当たるよう、病院から通告された。入院患者の急増で覚悟はしていたが、やはりショックだった。この頃、ニューヨーク市内だけで1日あたり数百人が亡くなっていた。

コロナ患者に対応し始めて間もなく「コロナがなくなったら、一緒に飲みに行って写真撮ろうね」

とハグして約束した同僚が3日後に倒れ、その一週間後に亡くなった。

「亡くなったと聞いて、泣きながら仕事をしました。感染防止のゴーグルで、泣いてるのは誰も気がついていないと思うけど。そして私、感染してるかもしれない、死ぬのかな、と」

▲写真 病院の職場仲間とキム看護師。この病院は防護服が足りず、ゴミ袋を着ている看護師の写真が流出、新聞の一面に掲載され、世間に衝撃を与えた。記者会見で吊るし上げられたクオモニューヨーク州知事は翌日、病院に十分な数の防護服を届けさせた。

さらに同居する家族へ感染させるかもしれない、と思い震え上がった。看護師が感染して、一緒に暮らす家族が感染して亡くなる、というケースを知っていたからだ。

次から次へ患者が来て、よくわからないまま、肺炎を起こして重症化していく患者で病棟はあふれた。予期せぬ形で突然危篤状態になり、決め手になる手当の方法もわからないまま亡くなる患者が相次いだ。

もともと勤務する脳外科のICUでは患者の病状の予測が立つので、確実に助からない、と判断された患者には緩和ケアなどの方針が決められるが、新型コロナの重症患者には何もできない。

「(新型コロナの患者は)突然死ぬ。なぜ心臓が止まるのか、何故息ができなくなるのか何もかもわからないままそれが連続して起きます。(ICUにいる)患者は全員重体。いつ、何が起きるかわからないのでPPE(防護具)を外しているヒマなどなかったです。」

患者が亡くなって空いたベッドは即座に消毒され、間髪おかずに次の患者が来る。

入院したころは会話もできていた患者が呼吸ができなくなり、気管挿管されて最後は亡くなる、というケースもたくさん見てきた。

▲写真 人工呼吸器。大人数の重症患者用に積み重ねられている

どの患者も「I can’t breathe(息ができない)」と訴えて挿管されるという。挿管を拒否する患者もいた。挿管されてしまうとその後の救命率は20%程度、とされていたからだ。

感染防止で、患者、家族は危篤状態になっても会えない。

ICUで患者の枕元にタブレット端末が置かれ、家族はそれを通して意識のない患者と最後の「会話」ができるのみだ。

家族だけにしてあげたくて、できるだけその場にはいないように心がけてはいたが、やむを得ない作業で自身が画面に写り込んでしまうことがあると「とても良くしてくれてありがとう」とその場でタブレットを通して感謝されることもあって、泣いた。

(会いたくとも看病もできず、やっと会えたあなたのお母さんは助からない。)

そう思って泣いた。

▲写真 外部から新たに届けられた医療器具。当時は人工呼吸器の不足が深刻、と報じられていた

患者さんは一人で亡くなる。でも一人ではない。家族には会えないかもしれないけど手を握って一人では逝かないようにしていました」

コロナ患者に対応することになって、改めて、自分は看護の仕事が好きなんだ、と気付かされたとも言う。

コロナ禍で現場での混乱もあって、もう辞めてしまおう、と思うこともあったが、いざ、患者を目の前にしてしまうと、看護師としてのプロ意識で行動してしまい、本当に看護の仕事が好きなんだ、と改めて感じたという。

「看護師としてよりプロ意識を磨くために、さらにもっと医療の勉強をしなくては。」

話を聞けば聞くほど、キヨコさんには医療者としての「看護師」の仕事に高いプロ意識がある。

「日本で看護師さんのイメージ、ってお医者さんの横についている人、じゃないですか」

アメリカでは看護師は医師と同等の地位がある職業だ。

「記者会見でクオモ知事や他の政府の人も呼ぶ順はまず『ナース』。次に『ドクター』の順です(笑)」

▲写真 ニュージャージー州の小学生たちが書いてくれたメッセージ。心から嬉しかったという。

だがアメリカで高いプロ意識が育まれた背景には、日本で受けた看護教育の影響が大きいという。

「日本の看護教育、看護師さんは素晴らしいです。日本の看護師はすごく教育を受けている人です。看護の勉強、医療、介護のことなどを勉強してチームで一人の患者さんの頭から足の爪先まで、前から、横から、後ろから全部。患者さんの過去、家族構成から何から何まで全部踏まえて看護計画を立てています。入院生活を快適に過ごしてもらいたい。治療に快適なことなどありません。ですが、それを快適に過ごさせてあげたい。それを考えるのが私達の仕事です。それが治療の手助けになっているんです。」

アメリカの大病院の第一線で働くのに、キヨコさんは、自分は英語がそんなに得意ではない、と謙遜する。

「自分は英語が得意ではないです。でもそれが原因でクレームが来たことはありません。それは日本で叩き込まれた看護師のやり方をこちらで惜しみなく出しているからだ思うんです。(日本だったら)ふつうにやっていることを素晴らしいと言われるんです」

▲写真 病院のロビーに飾られた感謝の数々。これらの励ましが、命をかけた現場ではとても慰めになった

ニューヨークは今、全米でも最低レベルの新型コロナ陽性率を維持している。

入院患者は大幅に減った。

大流行のさなかに毎日行われた「午後7時の医療従事者へ感謝の拍手」も行われなくなって久しい。

ニューヨークも財政が悪化し、医療の現場で大量に雇い入れた人員や、救急車の隊員の削減も検討される、と報じられたときもある。

「あの時は『ヒーロー』と褒め称えられ、あんなに大変な現場を経験したのに今はクビか・・・・と」

今、街なかでは、医療従事者の服装をしていても、アジア人であるがために「お前らがウイルスを持ってきたおかげで俺たちはこんなマスクをしなきゃならないんだ!」とあからさまに言われることもあるという。

喉元すぎればなんとやら、なのだろうか。

誰も代わることができない現場で、プロとして現場にとどまり続け、命を張って献身的に対応してくれたこのひとたちこそ、忘れてはいけないヒーローではないか。

現在、キヨコさんは元の脳外科のICUの看護師として勤務しているがコロナ患者の受け入れにも対応している。

3月下旬に、患者が増えすぎて既存の施設だけでは受け入れられず、コロナ患者専用に改造した部屋がどんどん作られた時のことをよく覚えているという。

ウイルスの流出を防ぐための陰圧病棟への改造工事で窓ガラスを割る音。

「がんがんがん」

その音が本当に怖くて、今でも工事の音を聞くとフラッシュバックする。

キヨコさんはさらに言う。

「秋以降、風邪や、インフルエンザの症状を、コロナに感染したんじゃないのかと病院を受診するする人が増えてくると思うんです。そして第2波が来るんじゃないかと思って」

感染爆発のニューヨークで多くのコロナ患者に接してきた現場の看護師の言葉は重く響いた。

▲動画「NYで新型コロナと闘った日本人看護師インタビュー」 https://youtu.be/c8-xwnzAdxUJapan In-depth Youtubeより)

トップ写真:3月26日のキヨコ・キム看護師。コロナ病棟勤務2日目。同僚がコロナで亡くなる中、自分もいつコロナで死ぬかも知れず、生存記録の自撮り写真を毎日撮ろうと決めた。1日目は緊張で携帯を持つことすらできなかったという。 出典:本人撮影


この記事を書いた人
柏原雅弘ニューヨーク在住フリービデオグラファー

1962年東京生まれ。業務映画制作会社撮影部勤務の後、1989年渡米。日系プロダクション勤務後、1997年に独立。以降フリー。在京各局のバラエティー番組の撮影からスポーツの中継、ニュース、ドキュメンタリーの撮影をこなす。小学生の男児と2歳の女児がいる。

柏原雅弘

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