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スポーツ  投稿日:2020/8/7

コロナ時代の大学スポーツ、苦しいのは選手だけでなく― 慶應義塾体育会硬式野球部・赤松尚範マネジャー


神津伸子(ジャーナリスト・元産経新聞記者)

【まとめ】
・コロナ渦のマネジャーは普段以上に迅速かつこまめな連携を取ることが重要。
・マネジャーの働きとチームの勝敗は連動。マネージャーはグラウンドの一番近くでチームの勝利に貢献。
・プレイはしなくても「野球は人生そのもの」。

 

東京六大学野球春のリーグ戦が10日に開幕する。全日本大学選手権も中止となり、東都などが春のリーグ戦中止を決めた。そんな中、東京六大学野球は、8月に各対戦1試合ずつのみの、開催にこぎつけた。

 

初春からの新型コロナウィルス感染予防のための活動自粛は、大学スポーツにも大きな影響を与えている。チーム練習が出来ない。公式戦が延期、中止、対戦形式の変更などで、チーム自体の目標に向けてのモチベーションアップが難しい。各チームとも選手たちだけでなく、マネジャーたちも今まで体験したことが無かった状況のもと、FOR THE TEAMで全力投球している。

 

慶應義塾大学体育会硬式野球部、赤松尚範副務(4年・文学部)も、この環境下、奮闘している1人だ。

 

・チームと一丸となって。その中でマネジャーの役割とは

 

「3月のオープン戦でチームとして手応えを感じていたなかでの活動自粛でしたので、残念な気持ちはありました。ただ国を挙げて感染予防に取り組むべき状況ですので、感染予防に万全を期しながらもこの状況下で何ができるか考え抜いて準備することが大切だと思っています」

赤松は、どんな時もポジティブに前を見据える。

 

昨秋、新チームがスタート。幹部である主将・瀬戸西純(4年・法学部政治学科)らと、今まで以上に密に連携して、連覇を目指して、チーム作りを進めている。

 

が、いきなりの新型コロナウィルス禍で、大学のグラウンドが認められなかった中、選手たちは自主練に打ち込むしかなかった。全体での練習ができない状況を、”個”を伸ばすチャンスと捉えて限られた環境で自身のレベルアップに取り組む姿を見て、自分のチームながら素晴らしいと、赤松は感動した。

 

その選手たちを支えるマネジャーの仕事は、実に多岐に渡り、煩雑だ。

 

チームのスケジューリング、練習・住環境整備、広報活動、大学・体育会・OB会との折衝などのルーティンワークがあり、これらの業務を8名のマネジャーでこなしている。

 

赤松はメディア対応、長期療養中の子供たちを受け入れて共に練習をするTEAMMATE事業の田村勇志君(中1生・2019年2月入部)、新設されたアナリストの育成プロジェクトなどを担当している。

写真)昨秋リーグ戦早慶戦で始球式を行った田村勇志君をずっとサポートする赤松副務。長期療養中の子供たちを受け入れて共に練習をするTEAMMATE事業で、田村君を慶大野球部は受け入れた

撮影)浅田哲生

 

現状はこれに加えて新型コロナウィルス感染予防への対応が種々入り、例年通りにいかないイレギュラーな日々が続いている。

具体的な新型コロナウィルス感染予防対策としては、

 

①寮内の換気・消毒の徹底。

②食事や入浴はスケジュールを作成して、時間差にし“密”を作らない工夫をしている。

③毎朝全部員に検温と体調、前日の行動を報告させる。

など、様々工夫をしながら取り組んでいる。

 

「社会情勢の変化に対しスピーディーな対応が求められる中で、普段以上に迅速かつこまめな連携を取ることの重要性を感じています。また指導者からの指示を待つのではなくマネジャーが様々な問題に対して敏感になり問題提起していくことが大切だと思います。具体的な事例を挙げられないほど野球部として何をするにもマネジャーは不可欠な存在なのだと実感しています」

 

4年生になった赤松は、

「基本的に最上級生として、オブザーバーでありたい。実務は3年生以下にバトンタッチ。歴代マネジャーの先輩方はチーム運営だけでなく、対外交渉しっかりしていた。自分たちは上の学年に育ててもらった、という意識が強い。慶應義塾のマネジャーとしてあるべき姿を教わって来たので、それも下級生に伝えていきたい」(赤松)

 

3年間、縁の下の力持ちとしてやって来た。最高学年になり、行動で下級生に示していきたいという。現在、後輩マネジャーは男女合わせて14人。

 

2019年卒業の小林由佳、20年卒業の鈴村知弘ら先輩と赤松ら3学年のマネジャー同志がコミュニケーションが取れていて、良くまとまっていた。その2年間はチームの成績も残している。

 

マネジャーの働きとチームの勝敗は、連動しているのだと感じています。代が替わってもマネジャーが自覚を持ってレベルが高い状態を保っていくことで、継続して勝てるチーム作りに貢献していきたい」とも。

 

・新旧監督交代の中で

 

昨年の秋のリーグ戦後、代変わりして、ここに至るまでも多くの出来事があった。少し振り返る。

 

大久保前監督のリーグ後の勇退が既に決まっていた。

昨年11月30日、静岡・浜松球場でのオール早慶戦後。花束贈呈セレモニー後、早慶両チームで前監督を胴上げした。事前の打合せで胴上げの企画を伝えると、早稲田メンバーも是非参加したいと。単なるライバル関係でなく、お互いを尊重し高め合う早慶の歴史を感じ、改めて両校が築き上げてきた伝統に感動と経緯を覚えたという。3年間マネジャーとしての基礎を叩き込んでくれた大久保前監督を最高の形で送り出せた。忘れ得ぬ思い出になった。

 

その後、大久保前監督は古巣のENEOS野球部の監督に戻った。前監督は、チーム一丸となって闘う姿勢を、築き上げた。一人一人にチームに対する責任を持たせ、役割を明確にした。

 

「大久保前監督は勝負師としてシビアな面と、学生の成長を見守る父親のような温かい面が高いレベルで両立している、カッコいい監督でした。マネジャーとしては下級生の段階から大人のように扱ってくださり、“責任感”と“想像力”を持って仕事に当たることを学びました。勝ち続けるチームの文化を野球部に根付かせてくださった。受け継いでいきたいと思う」(赤松)

 

堀井哲也新監督を新チームは迎えた。就任当初、「1年目だからといって様子見や地盤固めの1年間にするつもりはない。」と仰っていて、ラストシーズンを迎える4年生に寄り添ってくださるように感じ、すごく嬉しかったことを記憶しています。

 

「堀井監督はコミュニケーションを重視される方。当初から、部員全員の名前がわかっていらして。信頼関係も出来てきました」

新チーム結成当初は変化に戸惑うこともありましたが、その都度監督と意見交換をするなかで監督の考えを徐々に理解できるようになってきました。

学生野球は社会に出るための準備期間」とよく仰いますが、監督と日々接する中でマネジャーとしても人間としても学ぶことが本当に多いです。

堀井監督が築き上げたいチームと現状には、ハード面でもソフト面でもギャップがあります。現在はハード面、特に食環境や施設などを改善するような仕事もしています。引退までに少しでもそのギャップを埋めていけたらと考えています」(赤松)

 

・ドラフト会議で先に呼び出し。やらかしたエピソードも

 

監督交代もそうだが、昨秋のドラフト会議も忘れ得ぬ思い出となった。

 

実に4人の先輩たちが、昨年はプロの指名を受けた。

用意した日吉キャンパスの会議室は、メディアで埋め尽くされ、熱気ムンムンだった。プロ志望の手を挙げた選手たちは、別室で控えていた。

 

会議室内はテレビが設置され、呼び出し毎に、メディアの人間からため息や歓声が漏れた。

女子マネージャーが司会進行を担当。赤松は会見を取り仕切る役割だった。プロ入りを目指した先輩方の様子も、目の前で見せつけられることに。

写真)慶大から4人のプロ野球選手が誕生し、注目を浴びた昨秋のドラフト会議を仕切る赤松副務

撮影)筆者

 

昨年度の4年生は慶大野球部史上、最も多いプロ球団の指名を受けた。

津留崎大成(商学部4年・投手)     東北楽天ゴールデンイーグルス 3位

郡司裕也(環境情報学部4年・捕手)   中日ドラゴンズ 4位

柳町達(商学部4年・外野手)      福岡ソフトバンクホークス 5位

植田将太(商学部4年・捕手)      千葉ロッテマリーンズ 育成2位

 

そんな中、真っ先に楽天に指名された抑えのエース、津留崎が指名された際のことだ。放送で本人が確認する前に、赤松が先に控室に本人を呼び出しに行ってしまい、津留崎は赤松から指名を聞かされてしまった。

以降、そんな事が無いようにと、前主将・郡司に釘を刺された。

 

・野球は、自分の人生そのもの

 

新型コロナウィルス、後輩たちから春のみならず、夏の甲子園大会も奪ってしまった。赤松の母校は、2014年の春の選抜大会に21世紀枠で出場して、都立の星と、大きな話題を呼んだ都立・小山台高校だ。今回の決定に関しては、やむを得ないと思いつつも、後輩たちの気持ちを思うと、何ともやるせない。

 

赤松は都内の公立小学校時代、友達に誘われて、地元の野球チーム(クラブチーム)で始めた。父親も昔、野球をやっていた。

中学では、軟式野球の部活チームに所属していた。

都立小山台高校に進学して、硬式に転向。野球班(同校では部のことを、班と呼ぶ)で2年生の秋、3年生の春はキャッチャーとしてベンチ入り。当時、体格はがっしりしていて、いかにも捕手らしい体型で、今より10キロ重かった。受験で痩せて、今のような体型になったという。3年の春以後は、新人指導係に回り、応援団の中心としても、先頭に立って応援を盛り上げた。3年間、野球班の日誌部として野球日誌の管理も行った。

 

小山台野球班のモットーは全員野球。先生4人がコーチをしていた。部員が当時100人以上いたので、全員が試合に出ることが出来るように、1日に別メンバーのチームで4試合戦。

小山台が21世紀枠で甲子園出場を果たしたのは、赤松が中3と高1の間の春休み。その前の年の秋の大会で、小山台は都大会ベスト8入りしていた。小山台のスクールカラーは黄色。慶大と小山台はユニフォームも似ていて憧れだった。

 

今回の夏の甲子園の中止を聞いて、

「当事者にしか分からない感情が必ずあると思いますので、正直どのような言葉をかければ高校生のためになるのかは分かりません。僕自身、大学生活最後の全日本選手権が中止となりリーグ戦もイレギュラーな形になるなど、理不尽な現実を恨む気持ちは当然あります。ただ、このような状況下でも諦めずに歩み続けた日々や仲間と切磋琢磨した時間が必ず人生の財産になると信じて今は取り組んでいます。僕自身は、とにかく歩みを止めないぞという気持ちで野球部生活を全うしたいと思っています」

と、後輩たちにエールを送る。

 

また、8月になってしまった東京六大学野球春季リーグに関しては「僕自身はこのような状況で開催に向けて努力してくださったことに感謝しています。選手達は春季リーグ戦が中止にならなかったことに安堵しています。が、今月に春季リーグ戦、翌月には秋季リーグ戦が開幕しますので、そのあたりで調整に工夫が必要になってくると考えて、対策を講じています」

 

慶大入学後、塾野球部には始めからからマネジャーとして、入部した。

赤松にとってマネジャーとは何か―。

グラウンドの一番近くでチームの勝利に貢献できる役割だと思っています」

マネジャーの仕事は、結果を出すことが見えにくい、実感がもちにくい。グラウンドにも出られない。自らチームが勝つために必要だと思うことを考えて行動し続けるしかない。何が正しいのかは分からないが、チームが勝てばそれが正解だと信じる。同期のマネジャー2人と、チームの隅々にまで気を配りながら強いチームを作っていきたいという。

 

自分は、下級生などに厳しく言うタイプ。彼らも言われないと分からないことがあると思うし、自分自身も言うべきことを言わずに後悔したくないという思いがある。

残りの時間で思い残すことがないように、マネジャーとしての野球部生活を全うしたい。卒業後も一生野球に関わって行きたいと目を輝かす。

 

「野球は、自分の人生そのものだから」

 

トップ写真)無事始球式を終え、ほっとした田村君をエスコートして戻って来た赤松副務

撮影)浅田哲生


この記事を書いた人
神津伸子ジャーナリスト・元産経新聞記者

1983年慶應義塾大学文学部卒業。同年4月シャープ株式会社入社東京広報室勤務。1987年2月産経新聞社入社。多摩支局、社会部、文化部取材記者として活動。警視庁方面担当、遊軍、気象庁記者クラブ、演劇記者会などに所属。1994年にカナダ・トロントに移り住む。フリーランスとして独立。朝日新聞出版「AERA」にて「女子アイスホッケー・スマイルJAPAN」「CAP女子増殖中」「アイスホッケー日本女子ソチ五輪代表床亜矢可選手インタビュー」「SAYONARA国立競技場}」など取材・執筆

神津伸子

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