日米首脳会談、今は同盟深化だ「2022年を占う!」日米関係
樫山幸夫(ジャーナリスト、元産経新聞論説委員長)
【まとめ】
・岸田首相の初訪米、首脳会談の日程がいまだ決定を見ていない
・アメリカの岸田政権への不信感からという見方があるが、議会対策など先方の都合とみられる
・過去の日米首脳会談は「同盟深化の確認」「懸案の解決」が中心だったが、関係悪化を招いたケースもあった。今回はどうなる?
■ 多かった就任後2カ月以内
日本の歴代首相は、就任2カ月以内にワシントンを初訪問することが多かった。唯一の同盟国に対するあいさつだ。〝参勤交代〟などと揶揄されることが少なくなかった。
就任から間もなく3か月、岸田訪米の日程が決まらないのは、米国から信頼されていないためだという見方がなされている。その真偽はおくとして、早期実現が望ましいのはもちろんだが、時期ではなく内容こそ重要だろう。
過去の日米サミットは、同盟深化の確認、懸案解決などいくつかのパターンに分類することができるが、今回はどういう展開になるのか。
■ 台湾問題で注文の可能性も
菅義偉前首相の訪米は就任半年を過ぎていたが、バイデン大統領がホワイトハウス入りして初めて招かれた外国首脳だった。
この時は、中国にどう対抗するかが大きなテーマ。共同声明には「日米両国は台湾海峡の平和と安定の重要性を強調するとともに両岸問題の平和的解決を促す」という一節が盛り込まれた。
台湾有事にあたっては、日本もそれ相応の行動をとると事実上、約束したも同然だった。
岸田ーバイデン会談では、菅訪米時より、中国の人権問題、台湾への中国の軍事的威嚇が激しさを加えているなかで、日本に踏み込んだ対応を求めてくる可能性がある。
ちなみに、「台湾」条項は、1969年11月の佐藤栄作首相とニクソン大統領(いずれも当時)の会談の際の共同声明に初めて盛り込まれ、今回はそれ以来。
当時は〝お題目〟として述べておけばよかったが、日本の国際的なプレゼンスが飛躍的に増大した今、安易なことは通用しない。
日本では、安保法制の成立に伴って、集団的自衛権の行使が法的に容認され、重要影響事態、存立危機事態と認定すれば自衛隊の米軍への支援も可能となった。米側は集団的自衛権の行使を念頭に置いた行動を求めてくるかもしれない。
米側のさまざまな出方を予想、その時になって、うろたえるのことなく、「日本はこうする」という明確な回答を用意しておく必要があるだろう
■ 岸田氏への不信感より米側の事情か
岸田首相は年内訪米が困難となったことを受けて、年明け早々の1月4日、ニューヨークでひらかれる核拡散防止条約(NPT)の再検討会議に出席、ワシントンに足を延ばすことを検討していた。コロナ蔓延を理由にウエブ参加への変更がきまり、これも見送られた。
首相の訪米遅れについて、なされている憶測はさまざまだ。
「親中といわれる林外相の起用で米国が警戒感を抱いた」、「北京五輪への閣僚派遣見送り発表が各国に比べて遅れ、米国が岸田首相へ不信感を強めた」(zakzak 2021年12月4日)ーなどだ。
しかし、米国内の事情によるとみるのが妥当なようだ。
各国共通のコロナ対策、気候変動、社会保障費を柱とするバイデン政権の看板政策、1兆7500億㌦の大型歳出法案(ビルド・バック・ベター)の上院通過が難航、大統領自身が議会対策の陣頭指揮に立っている。
▲写真 会見するバイデン米大統領(2021年12月6日、ワシントンDCホワイトハウスにて) 出典:Photo by Chip Somodevilla/Getty Images
ロシアの軍事侵攻の可能性があるウクライナ情勢への対応も緊急かつ重要で、12月27日から再開されたイランとの核協議にも力を注がなければならない。
日米首脳会談への準備へ時間を費やすことは事実上、困難だろう。
加えて、岸田政権の具体的な外交政策がいまだ鮮明になるに至っていないことが米側をやや慎重にしているという分析も日本の知米派の間でなされている。
同志社大学の村田晃嗣教授は、岸田首相が明言した国家安全保障戦略の見直しが、来年暮れをメドとしていることに言及、「アメリカは、来年夏の参院選まで、岸田政権は大きな政策決定ができないので、急いで首脳会談をする意味はないとみているのかもしれない」と分析する。
■ 臨時国会開会中でも訪米は可能
日本国内では、1月17日召集の通常国会前に実現しなければ、早期訪米は遠のくという見方も少なくない。国会会期内、とくに予算審議中に首相が外遊することに、野党側が難色を示すことがあるからだ。
しかし、野党の同意が得られれば、国会開会中でも週末を利用した訪米は十分可能だろう。金曜日の夕刻に出発すれば、現地で一泊、会談をこなして日曜日の午後には帰国できる。
国会開会前に実現しないからといって、悲観的になることはない。
■ 過去「同盟深化」確認など前向きがほとんど
戦後、数多くの機会を通じて行われてきた日米首脳会談、ふりかえってみると、もっとも多かったのは、もちろん、同盟関係の深化という、本来あるべき前向きな話し合いだ。
もうひとつは、貿易摩擦に象徴される懸案解決など、やや緊迫した状況で行われたケース。そして、会談自体が思わぬ結果を生み、日米関係に緊張をもたらした不幸なこともないわけではなかった。
日米安全保障条約の改定で合意した1960年1月の岸信介首相とアイゼンハワー大統領の会談、「日米安保共同宣言」の公表によって冷戦終結後の安保条約に、あらたな性格付けをした1996年の橋本龍太郎首相とクリントン大統領の会談などが、最初のパターンにあたる。
比較的近いところでは、2014年4月に来日したオバマ大統領と安倍晋三首相の会談だ。オバマ氏は共同記者会見で、米大統領として初めて、「尖閣諸島は日米安保条約の適用範囲だ」と明確に認めた。
さきに触れた1969年の佐藤ーニクソン共同声明での「台湾」言及は沖縄返還の合意に伴う〝確認事項〟だったが、典型的な同盟深化の範疇に分類されよう。「台湾地域における平和と安全の維持は日本の安全にとって重要な要素」と明記された。
それ自体当然のことではあったが、日本国内でリベラル派を中心に、日本が米国の世界戦略に組み込まれるなどと強く反発、「70年安保」の反対運動につながった。
■ 「細川ークリントン」懸案解決目指すも決裂
日米首脳会談第2のケース、懸案解決のための首脳同士の直談判のひとつに、〝決裂〟に終わった1994年2月の細川ークリントン会談がある。
包括協議は、政府調達、金融サービス、自動車などで日本の市場開放を目的として行われていた。輸入の数値目標設定を突き付けてきた米側と、これを呑めない日本側が対立。首脳会談でも妥協点は見いだすことはかなわなかった。
両首脳とも日米全面対立という印象を避ける配慮は忘れず、会談翌日、急遽、ホワイトハウスで朝食をともにしながら歓談、意見の相違はあるものの同盟は強固であることを誇示した。
包括協議はこの年の秋から96年にかけて順次合意に達した。
■ 日米関係に影落とした「共同声明事件」
首脳会談そのものが同盟関係、日本の内政を揺るがした悪例として、真っ先に思い浮かべるのは1981年5月の鈴木ーレーガン会談だ。
会談後に発表された共同声明に、初めて「同盟」という言葉が盛り込まれたが、鈴木善幸首相は会談後の記者会見で、あろうことか「(同盟という言葉に)軍事的意味合いはない」と言い放ち、周囲をびっくりさせた。
政府は「軍事的側面を持つことは認めるが、あらたな意味合いを付加したものではない」などとあいまいな見解で〝火消し〟をはかったが、米側は「〝同盟〟は日本に押し付けたものではない」などと突き放した態度で、しばらく日米間のしこりとなって残った。
共同声明作成作業に当たった外務省は首相に強く反発、伊東正義外相が抗議の辞任をするという余波まで引き起こした。
■ ロッキード事件の遠因にも
真相はいまだ不明だが、1972年夏、ハワイで行われた田中―ニクソン会談も忘れられない。
当時激化していた貿易不均衡解消の話し合いと、日本側が秋に予定していた中国との国交正常化についての説明が焦点だった。
ニクソン大統領は、貿易黒字削減策として、ロッキード社製の航空機を購入してほしいと要請したといわれている。田中角栄首相が、これに応えようとしたことが、ロッキード事件の発端になったという見方がもっぱらだ。
田中首相が米側に先んじて中国との国交正常化に踏み切ったことに不快感を抱いたニクソン大統領やキッシンジャー補佐官の意趣返しの意図が、同事件の背後にあったという見方もなお日本国内でも強い。真相は今に至るまでもナゾのままだ。
事実とすれば、同盟国の首脳に対してもこうした仕打ちがまかり通る国際政治の冷厳さを感じさせられる。
岸田首相とバイデン大統領の会談が実現した場合、結果はどの範疇に入るのか。首相は、過去の経緯を踏まえ、単なる顔みせなどではすまないと、心して臨まなければなるまい。
トップ写真:バイデン米大統領と岸田文雄首相(2021年11月2日、COP26世界リーダーズ・サミットにて) 出典:首相官邸
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この記事を書いた人
樫山幸夫ジャーナリスト/元産経新聞論説委員長
昭和49年、産経新聞社入社。社会部、政治部などを経てワシントン特派員、同支局長。東京本社、大阪本社編集長、監査役などを歴任。