無料会員募集中
.経済  投稿日:2022/3/2

日本はインフレにはならないのか 欧米とコントラストをなす日本の金融政策


神津多可思(公益社団法人 日本証券アナリスト協会専務理事)

 

「神津多可思の金融経済を読む」

 

【まとめ】

・日本でインフレが進まない原因は、高齢化に伴う国内市場の縮小と新興国の隆盛の下、これまでのビジネスを変えないようにしてきたから。

・欧米では、持続性のあるビジネスの分野へ、経営資源が速やかに移動したからデフレにならなかった。

・現在の長期金利に溜まっている上昇圧力が、将来一挙に解放されるかたちで起こるかもしれない。

欧米先進国は、もう何年も経験をしたことのないようなインフレに見舞われている。そのため国際金融市場でも、米国の中央銀行である連邦準備制度(FRB)がインフレ抑制のため政策金利を引き上げることを織り込みつつある。

ついこの間までは、年内に3回の利上げがあるかどうかが議論されていたが、今や、これから予定されている金融政策を決定する7回の連邦公開市場委員会(FOMC)で、利上げが6回あるのか、7回あるのかが話題となっている。欧州中央銀行(ECB)からも、年内の利上げを匂わせる声が聞かれるようになった。これに対し日本では、インフレ率はまだやっとプラスになった程度で、日本銀行は粘り強く現在の金融緩和を続けるとしており、欧米と比べコントラストがある。

■ どうして日本のインフレ率は上がらないのか?

日本のインフレ率が欧米ほど上昇しない背景の説明においては、昨年のGOTOトラベルの裏が出ているとか、携帯料金の値下げの影響が効いているといった個別要因がよく出てくる。

他方で、生活実感としては、何となくモノやサービスが高くなったという気もする。そうした個々の物価の話に入っていくと、結局、良く分からなくなって、物価統計でみてまだ大したインフレでないのだから、やっぱり景気はまだ弱いということになってしまう。金融政策も引き締め方向へ向かうと言うことにはならない。

日本経済は、全体としてみれば、様々なビジネスにおいて、販売価格をなかなか引き上げることができず、そのため従業員の賃金も上げられず、また投資へのリターンも欧米に比べれば見劣りするという循環から脱せずにいる。だからこそ、モノ・サービスの価格が継続的に上がる状況にしようとしてきた訳だが、どうも金融環境を思い切って緩和的にするだけでは、その実現は難しそうだというのが、この10年余りの振り返りだろう。

労働人口が高齢化し、かつ減少する経済にあっては、国内の供給力には常に縮小圧力が加わる。逆に、躍進著しい新興国経済の供給力は飛躍的に増強された。そうしたこともあって、日本国内の需要は、傾向的に輸入への依存を強めている。足元でエネルギー価格等の上昇に伴い貿易収支が赤字化しているのも、その輸入依存の強まりの上でのことだ。そうした状況で少しでも販売価格を引き上げようとすれば、すぐに輸入品が入ってきて、マーケットのシェアを落としてしまう。そこが改善されなければ、いくら低金利で資金が調達できても、ビジネスを拡大し、賃金を引き上げ、投資家へのリターンを増やしていくということはなかなかできるものではない。

このように、どうも日本経済には、元気一杯ビジネスを続けていくことができないコーナーに追い込まれている感じがある。それは、ひょっとすると、高齢化に伴う国内市場の縮小とグローバル市場での新興国の隆盛の下にあっても、できるだけこれまでのビジネスを変えないようにしようと、懸命に努力してきたからなのかもしれない。

■ 欧米はどうしてデフレにならなかったか? 

欧米の先進国も、高齢化と新興国の隆盛の影響を、程度の差はあっても受けてきた。しかし、それらの国々では、移民に門戸を開き、日本より高い失業率に耐え、経済の構造を変えてきた。その下で、インフレに関して言えば、賃金の上昇率が日本ほど低下せず、賃金は上がるものだというムードが社会から消えていない。そうした賃金の動向が、サービスの価格に反映され、消費者物価の前年比もマイナスにはならなかった。

そうした展開となったのは、新興国との競争の中で、今後長くビジネスを続けていくことが難しいと思われた分野から、より持続性のある分野へと、様々な経営資源が日本より速やかに移動したからだと考えることができる。その移動は、労働者の側でも、また経営の側でも起こった。その結果、確かに様々な摩擦は大きかった。失業率の高さもその表れだし、さらに所得格差の拡大も同様だ。そうしたコストを払って、今日の日本よりは元気にみえるマクロ経済を実現しているのではないだろうか。

欧米先進国はそういう経済なので、今回のようなエネルギー価格等の上昇といった外生的なインフレショックに遭遇すると、インフレ率は日本より足早に上昇していく。日本では、今年のベアはまだどうなるかはっきり分からないが、賃金は上がるものだというムードは決して確固たるものではない。そのため、賃金の上昇がサービス価格に反映され、さらに財の価格にまで及ぶという展開になるかどうかはなお不透明だ。

■ 長期金利に溜まっている上昇圧力

写真)欧州中央銀行(ECB)の会合で講演する日銀黒田東彦総裁 2017年11月14日 ドイツ・フランクフルト

出典)Photo by Hannelore Foerster/Getty Images

そうしたことから、まだまだ金融緩和の手は緩められないという日本銀行の判断になるのだが、それでも長期金利には目に見えない上昇圧力が溜まっている可能性がある。

 現在の日本銀行の金融緩和は、短期金利だけでなく、長期金利の水準も視野に入れたものだ。10年もの国債の流通利回りは、0.25%を超えないよう金融調節が行われている。

 ところで、名目金利と実質金利とインフレ期待の間には、次のような関係が成り立つと言われている。「名目金利=実質金利+期待インフレ率」

これは、最初に提唱した経済学者の名前を冠して「フィッシャーの関係式」と呼ばれている。日本の1990年代においては、名目金利を10年もの国債の流通利回り、期待インフレ率を実際の消費者物価前年比と置くと、大雑把にみてこの関係が成立していた。その時の実質金利は、2%台後半という推計になる。

この関係が、2000年代以降は全く成立しなくなる。言うまでもなく、日本銀行の積極的な金融緩和が長期金利を下へ下へと引っ張り下ろしてきたからだし、また潜在成長力と密接に関係する実質金利が低下したからである。

今後、どこかの時点で再びフィッシャー関係式が成立するようになると、実質金利が0.5%まで低下しているとしても、長期金利は、インフレ率が0.5%で1%、インフレ率が1%なら1.5%になる計算だ。足元の長期金利の天井が0.25%であることを考えると、仰ぎ見るような水準だ。このギャップこそが現在の長期金利に溜まっている上昇圧力と言うことができる。

いつの日か、日本経済でも自律的に一定のインフレ率が実現するようになれば、その時には異次元緩和ではなくなるはずだし、長期金利も少なくとも今よりは高くなるはずだ。そうした状況に秩序だって至るためには、日本経済においても、賃金や投資へのリターンを引き上げることが可能な分野へと、経営資源が円滑にシフトしていかなければならない。もちろん、それに様々な摩擦が伴うことは不可避だが、それなしには金融政策が異次元から抜け出すこともまた難しいだろう。

他方で、もし財政収支の長期的な持続可能性が担保されなければ、国であってもいつかは金融市場での資金調達が困難化する。すなわち国債金利が上昇する。その時、金融市場では上述のフィッシャーの関係式が復活する方向の力が生じるはずである。それは、溜まっている上昇圧力が一挙に解放されるかたちで起こるかもしれない。

トップ写真:品川駅の出勤風景 2020年5月26日、日本・東京

出典)Photo by Carl Court/Getty Images




この記事を書いた人
神津多可思日本証券アナリスト協会認定アナリスト

東京大学経済学部卒業。埼玉大学大学院博士課程後期修了、博士(経済学)。日本証券アナリスト協会認定アナリスト


1980年、日本銀行入行。営業局市場課長、調査統計局経済調査課長、考査局考査課長、金融融機構局審議役(国際関係)、バーゼル銀行監督委員会メンバー等を経て、2020年、リコー経済社会研究所主席研究員、2016年、(株)リコー執行役員、リコー経済社会研究所所長、2020年、同フェロー、リスクマネジメント・内部統制・法務担当、リコー経済社会研究所所長、2021年、公益社団法人日本証券アナリスト協会専務理事、現在に至る。


関西大学ソシオネットワーク戦略研究機構非常勤研究員、オーストラリア国立大学豪日研究センター研究員ソシオフューチャー株式会社社外取締役、トランス・パシフィック・グループ株式会社顧問。主な著書、「『デフレ論』の誤謬」(2018年)、「日本経済 成長志向の誤謬」(2022年)、いずれも日本経済新聞出版社。

神津多可思

copyright2014-"ABE,Inc. 2014 All rights reserved.No reproduction or republication without written permission."