悪い円安と良い円安、どう違う?
神津多可思(公益社団法人 日本証券アナリスト協会専務理事)
「神津多可思の金融経済を読む」
【まとめ】
・かつての日本経済は輸出企業の業績好調による賃金上昇、消費全般が拡大し「良い円安」が期待できた。
・「悪い円安」とは円安によってGDPの成長が抑制されてしまうことを指す。
・常に経済の発展が実現するよう、一番良い金融環境を機動的に実現するのが金融政策の真骨頂であろう。
ここへ来て急速に円安が進み、「悪い円安」ということがしばしば言われるようになっている。ちょっと前までは、円高こそ悪で、それが日本の低成長の原因の1つと言われていた。また、現在の円安についても、全体としてみれば日本経済にとってプラスとの見方もある。悪い円安と良い円安。どう違うのだろうか。
■ 円高はどうして悪だったか
輸出企業にとっては、外貨建ての輸出価格が変わらない場合、円高になると、手取りの日本円建ての収入が減るので、それは売上減になり企業経営の打撃になる。だからこそ、短期間で為替レートの円高が進むと、輸出企業からはいつも不満の声が上がった。
もっとも、輸出先の国がインフレで、現地の外貨建て価格を引き上げることができれば、それによって円高分が相殺でき、円建ての収入が減らないことも考えられる。これまで、傾向的に日本のインフレ率よりも海外のインフレ率の方が高かった。そうした状況において、もし少しの円高でも困るということだとすると、それは、海外市場での競争が厳しく、現地のインフレをカバーできるだけの外貨建ての輸出価格を引き上げが難しかったからかもしれない。そうだとすれば、それは、要するに日本の輸出企業の価格競争力が低下してきているため、少しの円高でも悪ということになったと言うべきだろう。
そういう場合には円安は助かる。良い円安というのはそういうことなのではないか。円安によって輸出数量を減らさなくて済む、さらには大きな円安であれば、現地通貨建ての価格を引き下げて、輸出数量を増やせるかもしれない。輸出企業の業績好調は、そこで働く人々の賃金の上昇に繋がる。それを起点に、消費全般が拡大し、直接は輸出をしない企業にも恩恵が広がっていく。かつての日本経済ではそういう展開が期待できた。良い円安の余地が大きかったと言える。
■ 悪い円安
ところが、円安になってもかつてのように輸出数量が増えなくなると話は違う。さらに現在は、米中対立、ロシアのウクライナ侵攻などを背景に、コロナ禍後に向けて各国の経済が正常化の過程にあるにも関わらず、日本からの輸出が加速するというような環境にはないようだ。
一方で、これもコロナ禍後の供給制約やウクライナでの戦争もあって、国際的にエネルギー価格や食料品価格が高騰している。そうした下で円安になると、輸出企業にとってさえ、原材料の輸入価格と販売している製品の価格の関係が、採算悪化の方向に動く。これが交易条件の悪化と呼ばれている現象だ。
国内総生産(GDP)は、輸出等から輸入等を差し引いた純輸出等が増加しないとプラスにはならない。交易条件が悪化する下にあっては、輸出価格の上昇や輸出数量の増加がないと、その純輸出等が増えない。要するに円安によってGDPの成長が抑制されてしまう。これが悪い円安なのだろう。
現状、輸出価格は上昇しているようだが、2021年度の貿易収支が2年振りに赤字となったことからも分かる通り、輸入の増加で純輸出が増える展開にはなっていない。どうも良い円安の恩恵も薄そうだ。そうした状況で急速に円安が進むことは、結局のところ日本経済にとってはプラスではないとの認識が広がり、昨今、悪い円安論がしばしば言われるようになっているのだろう。
▲写真 第1回貿易交渉を控え、横浜港で出荷を待つ日本車(2019年4月15日、日本・横浜) 出典:Photo by Tomohiro Ohsumi/Getty Images
■ 金融政策と為替レート
ところで、現状の急速な円安をもたらしている主たる要因は、内外の金融政策スタンスの違いだ。米国では、40年振りと言われる高インフレになっており、中央銀行である連邦準備制度(FRB)はその抑制のために金融引き締めを急いでいる。
5月3~4日に開催された金融政策を決める連邦公開市場委員会(FOMC)では、3月の会合に続いて政策金利の引き上げが決定された。それも、これまでは長らく0.25%刻みの変化であったのに対し、0.5%の幅での政策金利の引き上げとなった。これは2000年以来のことだ。さらにパウエルFRB議長は記者会見で、6月、7月のFOMCでも、同じ幅での金利引き上げが検討されると発言した。
これに対し日本銀行は、「デフレからの脱却」を確かなものとするため、これまでの金融緩和スタンスを修正しない姿勢をはっきりさせている。金融調節においても、10年もの国債の流通利回りが0.25%以上の水準に上昇することのないよう、対応を強化している。こうした日米の中央銀行の金融政策スタンスの明確な違いにより、内外の金利差がさらに広がり、それがここ数カ月での急速な円安に繋がっている。
日本銀行の金融政策は、第一義には物価の安定を目指して行われるものだが、それは物価の安定が日本経済の健全な発展にプラスと考えてのことだ。経済を刺激するための低金利が、為替レートの面で円安を生み、それが悪い円安になり、経済成長率を下押しするようなことがあるとすれば、一体、何のために強力な金融緩和を行っているのかということにもなりかねない。
「デフレからの脱却」ということも、それが持続的な日本経済の発展にプラスになるという説明であったはずだ。もちろん、現在の円安がここで議論したような意味で本当に悪い円安なのかという点のチェックがまず重要だ。その上で、もし日本経済の成長を下押しするような円安だという結論になれば、円安を食い止めるアクションも正当化されるだろう。
現在の交易条件の悪化は一時的かもしれない。そうだとすれば、それこそ一時的に円安を挫き、悪い円安がなくなった時点でまた元の金融緩和の状態に戻れば良い。金融市場の状況は、様々な要因で変動する。それに適切に反応して、常に経済の発展が実現するよう、一番良い金融環境を機動的に実現するのが金融政策の真骨頂であろう。日本銀行法第2条には、「日本銀行は、通貨及び金融の調節を行うに当たっては、物価の安定を図ることを通じて国民経済の健全な発展に資することをもって、その理念とする」とある。その理念に基づいた機動的な金融政策の運営という視点もありはしないだろうか。
トップ写真:高騰するガソリン価格1リットル=180円に迫る(2022年4月14日、東京都・港区) ⓒJapan In-depth編集部
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この記事を書いた人
神津多可思日本証券アナリスト協会認定アナリスト
東京大学経済学部卒業。埼玉大学大学院博士課程後期修了、博士(経済学)。日本証券アナリスト協会認定アナリスト
1980年、日本銀行入行。営業局市場課長、調査統計局経済調査課長、考査局考査課長、金融融機構局審議役(国際関係)、バーゼル銀行監督委員会メンバー等を経て、2020年、リコー経済社会研究所主席研究員、2016年、(株)リコー執行役員、リコー経済社会研究所所長、2020年、同フェロー、リスクマネジメント・内部統制・法務担当、リコー経済社会研究所所長、2021年、公益社団法人日本証券アナリスト協会専務理事、現在に至る。
関西大学ソシオネットワーク戦略研究機構非常勤研究員、オーストラリア国立大学豪日研究センター研究員。ソシオフューチャー株式会社社外取締役、トランス・パシフィック・グループ株式会社顧問。主な著書、「『デフレ論』の誤謬」(2018年)、「日本経済 成長志向の誤謬」(2022年)、いずれも日本経済新聞出版社。