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.国際  投稿日:2022/5/25

ロシア戦車が惨敗した理由(下)気になるプーチン政権の「余命」その3


林信吾(作家・ジャーナリスト)

林信吾の「西方見聞録

【まとめ】

・現在のロシアの戦車兵力が、かつての日本陸軍のそれと二重写しに見える。野心的な新機軸・特長が一転、弱点に。

・現代の戦車はハイテクの塊」。経済制裁で電子機器が入手できず、ロシアは最新鋭T-14をウクライナに投入できず。

・憲法改正・軍備増強論がかまびすしいが、冷静になるべきだ。身の丈に合わない軍事大国化は国が滅びるという教訓から学ぶべき。

 

どの分野の技術でも、野心的な新機軸が「よいことずくめ」とは限らない。

前回、ソ連邦地上軍が1970年代に開発したT-72戦車が、開発当初こそ世界でも最優秀だと目されていたが、今や時代に取り残されてしまったこと、そしてこれは旧日本軍の戦車についても言えることだと述べた。

たとえば第二次世界大戦が始まった1939年の時点で、当時日本の主力とされていたのは九七式中戦車であるが、世界に先駆けて空冷ディーゼルエンジンを搭載していた。ガソリンエンジンと違って燃えにくいという長所がある。ガソリンエンジンの場合、機関部に火炎瓶が命中したりすると、ラジエーターが炎を吸い込んで燃料に引火し、爆発炎上してしまうのだ。

高オクタンのガソリンも必要とせず燃費もよいのだが、よく知られる通りディーゼルエンジンは、同じ出力を得るためには、ガソリンエンジンに比べてかなり大きく重くならざるを得ない。

輸送能力の限界から、軽量コンパクトな設計が求められた一方で、ディーゼルを採用した結果、出来上がったのは現場の兵士たちから「エンジン運搬車」と陰口をきかれるしろものであった。乗員のためのスペースが極端に狭く、使い勝手が悪かったのだ。

T-72も西側の戦車に比べて軽量コンパクトだが、やはりその設計があだとなり、居住性は最悪であった。1970年代末期、ソ連邦地上軍においては身長165センチ以下でないと戦車兵になれない、などという話が、まことしやかに伝えられていたほどである。まことしやかにと言っても、多少なりとも軍事知識を備えた向きは、

「いくらソ連邦でも、そんな小柄な兵隊ばかり大勢集められるものか」

と鼻で笑っていたものだが、実際、中東諸国に輸出された戦車を調べた結果、身長178センチくらいまでなら大丈夫(戦車兵になれる)とされた。それでも、ロシア人の基準で言えば体格のよい者は戦車兵には適さない、ということになるのだろう。

これまた前回、1989年に勃発したイラン・イラク戦争において、イラク軍のT-72がイラン軍の英国製チーフテン戦車を圧倒した、と述べた。ところが、その10年後に起きた湾岸戦争においては、様相が一変したのである。

▲写真 イラク軍のロシア製T-72戦車(2008年5月11日 バグダッド) 出典:Photo by Robert Nickelsberg/Getty Images

まず、開戦に先駆けてエジプト軍が装備していたT-72を試験してみたところ、主砲の有効射程距離が、米軍のM1戦車のそれより1000メートルほども短いことと、装甲も前回紹介した複合装甲ではなく、単なる鋼板であることが明るみに出た。もっとも、この時の米軍関係者の反応はと言えば、

(やはりそうだったのか)

などと、特に驚きはなかったと伝えられる。実はこのように、あえてスペックを落とした「モンキーモデル」を輸出するのは、ソ連邦の常套手段だとささやかれていたのだ。

ただ、ソ連邦地上軍に配備されているT-72でも、この時点ではM1の敵ではなかっただろう、とも言われていた。

まず、APFSDS(装弾筒付翼安定徹甲弾)が実用化された結果、避弾経始が意味をなさなくなってしまった。避弾経始については(上)で説明させていただいたが、APFSDSというのは、ダーツのような細い弾芯を高速で命中させるもので、命中した瞬間に先端がマッシュルーム状に潰れながら運動エネルギーで装甲を貫いて行く。つまりは斜面や曲面で受けようが、その威力を減殺することはできないのだ。

なおかつ、特長であったはずの自動装填装置が逆に弱点となってしまった。こちらも(上)で述べたが、もっとも被弾率が低い車体底部に砲弾を並べることで安全性を担保できるはずであったのだが、装甲を貫かれてしまった場合には、砲弾が一斉に誘爆してしまう。その際に乗員としては、

「1秒以内に車外に脱出するか車内でミンチにされるかの二択しかない」

そうである。本当のところは、APFSDSの弾芯には劣化ウランが使用されており、想像を絶する高熱の放射炎(いわゆるメタルジェット)が車内に吹き込むので、乗員が1秒も生存するのは不可能と思われるが、その話はさておき。

イラク軍のT-72について、米兵は当初普通に「タンゴ・セブン・ツー」と呼び習わしていたが、被弾した戦車の砲塔が真上に吹き飛ぶ光景を幾度も見て、ついには「Jack in the box=びっくり箱」という渾名で呼ぶようになった。

私見ながらこの問題も、かなり早い段階で西側の知るところとなっていたのではないかと考えられる。たとえばM1だが、あえて自動装填装置を採用せず、砲塔後部に隔壁のついた弾薬庫を設けているが、こうすることで、たとえ被弾しても「びっくり箱」となる可能性は低く、逆に乗員の生存確率を高めている。フランスのルクレールドイツのレオパルド3など自動装填装置を採用した戦車もあるが、乗員と弾薬との間には、やはり隔壁が設けられている。

また、いわゆるトップ・アタック兵器も脅威となった。

戦車の装甲は、全面にわたって均等な厚さではない。それでは、重くなりすぎて機動性が著しく損なわれてしまう。そこで、どの国の戦車でも、被弾率の高い車体や砲塔の全面は厚く、逆に上面や側面は薄くなっている。

攻撃ヘリコプターが戦車にとって脅威とされていたのも、読者ご賢察の通りの理由であるが、最近では上方から撃たなくとも、あらかじめプログラムされた軌道でもって、標的の上方に着弾するようなミサイルがあり、これがすなわちトップ・アタック兵器と呼ばれるのだ。3月のシリーズで紹介した米国製の携帯式対戦車ミサイル「ジャベリンも、この機能を備えている。

▲写真 米国製の歩兵携行式対戦車ミサイル「ジャベリン」。写真は豪軍によるデモンストレーション(2019年5月9日 豪・セイモア) 出典:Photo by Scott Barbour/Getty Images

このような問題に対して、ロシア軍も無頓着であったわけではない。

たとえば2015年から製造が始まったT-14という戦車は、無人砲塔を採用した他、飛来するミサイルなどを探知・迎撃するシステムも搭載している。

砲塔は前述のように無人で、3名の乗員は車体前方に横一列に並ぶデザインだ。

▲写真 ロシア軍T-14戦車(2020年6月24日 モスクワ) 出典:Photo by Ramil Sitdikov – Host Photo Agency via Getty Images

これもこれで危険なのでは、と思えたのだが、防弾カプセルと称する頑丈な装甲で守られている上に、西側軍事筋の見るところでは、ロシアは将来、この戦車を無人化(=完全自律操作式への転換)することを考えているという。

しかしながら、この戦車は未だウクライナの戦線に登場していない。

理由は簡単で、数が足りないのだ。

もともと現代の戦車は、鋼鉄の塊といった従前のイメージと異なり、ハイテクの塊というにふさわしいものとなっている。ロシアの戦車も例外ではないのだが、その製造にはフランスやイスラエルから調達する電子機器(部品を買ってロシアで組み立てるノックダウン生産品も含めて)が不可欠であった。

ところが、2014年のクリミア併合に対する経済制裁の結果、前述のように2015年に製造が開始されたT-14は、たちまち必要な電子機器が入手困難となり、製造・配備は遅々として進まない、という状況に陥った。これまた西側軍事筋の見るところでは、稼働状態にあるのは20輛程度ではないかという。

ちなみにこの戦車は、1輛の価格が邦貨にして6億円とも、それ以上とも言われる。

これもご案内の通り、GDPが韓国並みのロシアにとって、これを大量配備するというのは、どのみちできない相談だったのではないか。

ここまで読まれた方々には、現在のロシアの戦車兵力が、かつての日本陸軍のそれと二重写しに見えると私が述べた意味が、すでにお分かりいただけていると思う。

もうひとつ、読者諸賢にあらためて考えていただきたいのは、今次のロシアによるウクライナ侵攻を受けて、憲法を改正して軍備を増強するべきだという議論が、またしてもよく聞かれるようになってきているが、ここは今少し冷静になるべきではないか、ということだ。

戦車の問題に限った話ではなく、身の丈に合わない軍事大国化を目指せば、結局は国が滅びるという教訓は、かつての大日本帝国、そしてソ連邦から学び取ることができる。

目下プーチン大統領が苦境に立たされているのは、その教訓から何も学んでいなかったから、と言われても仕方ない。せめて我々日本人は、その轍を踏むことがないようにしたいものである。

その1その2

トップ写真:破壊されたロシア軍T-72戦車。砲塔が吹き飛んでいる。(2022年4月21日 ウクライナ・ヴェリカ・ダイメルカ) 出典:Photo by Taras Podolian/Gazeta.ua/Global Images Ukraine via Getty Images




この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト

1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。

林信吾

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