宗教と資金活動について(下) 異文化への偏見を廃す 最終回
林信吾(作家・ジャーナリスト)
林信吾の「西方見聞録」
【まとめ】
・「神も仏も信ずるに足りない」と言い切れるほど、世の中は単純なものではない。
・政教分離は宗教家が政治活動をすることや、逆に政治家が特定の宗教の信者になることを禁じたものではない。
・思想や信仰に法の網をかけて行こうという発想は、それ自体が危険な考えである。
当たり前のことだが、宗教者と言えども生活手段としてのお金は必要で、組織や施設を運営して行こうとすれば、さらに大きな額を集めなければならない。
その資金源は、信者からの献金(寄進、喜捨、布施など、言い方は様々だが)に頼ることとなるわけだが、そのことが批判の対象になることも昔から多かった。
もっとも分かりやすい例が、16世紀にキリスト教会が発行した「免罪符」で、読んで字のごとく「原罪を赦免される権利」が金で買えるというものだ。バチカンのサン・ピエトロ大聖堂の改修費用を工面すべく、大々的に売り出された。
これに異を唱えたのが、聖アウグスチノ修道会の会員であったマルチン・ルターである。
彼の問題提起は、当初、純粋に神学上の問題と受け取られていたのだが、神聖ローマ帝国の諸侯の思惑が交錯した結果、徐々に政治問題化して行き、ついには教会の分裂=プロテスタントの登場という事態を招くに至った。
世に言う宗教改革だが、もともと信仰とお金の問題から始まっていること、政治が関与したために問題が複雑化したことを思うと、現代日本における宗教団体の問題に照らして、ちょっと考えさせられる。洋の東西、時代、さらには信仰の内容を問わず、人間社会では、昔からこうした諍いが繰り返されてきたのだな、というように。
ちなみにこの免罪符だが、宗教や歴史の研究者でさえ、実物を見たことがある人はほとんどいない。7月29日14時30分頃Amazonを調べたところ、1480円で売り出されていたが、もちろんレプリカと断ってあった。この収益はどこへ行くのだろうか笑。
レプリカがあるからには「原本」も存在するのだろうが、若林博士に言わせると、
「あれだけ大々的に売り出されていたものが、今これだけ見つけがたいということは、推測ですけれど、教会が組織的に〈証拠隠滅〉をはかった可能性も捨てきれませんね」
ということになる。
話として面白いが、学者とジャーナリストが無責任な推理ゲームのようなことをするのは、それこそ神をも怖れぬ所業なので話を進める。
キリスト教の大聖堂と同様、イスラムの壮麗な寺院は各地に残り、観光名所となっているが、もともとは諸侯や大富豪が寄進したもので、その場合、日本で言う門前市のような施設とセットになっていた。
土産物屋などの「出入り業者」が巡礼者や観光客相手の商売をして、今風に言えばテナント料を寺院に納める。これにより寺院の維持管理コストや聖職者の生活費がまかなえる、というわけだ。
イスラムは偶像崇拝を否定しているので、宗教画や彫刻のようなものは見受けないが、礼拝の時に限らず信者が身につける数珠は普通に売られている。中には貴金属製の高価な物もあるようだ。
礼拝の時間を知らせるオルゴールのような仕掛け時計も、結構昔から売られているが、最近はデジタル化されている、という話も聞く。
さらに面白いのは、シーア派が好んで使う「聖地の土」だ。土を練り固め、煎餅のように薄く成形したものだが、これを床に置いて額をこすりつけたなら、どこでも聖地で礼拝するのと同じ効果があるのだとか。よく言えば「甲子園の土」みたいなものだが、悪く言えば……シーア派を悪く言うとタタリがありそうなので控えるが笑、誰もが考えつきそうなことは、やはり誰かが考えつくものなのだ。
仏教寺院も、似たり寄ったりである。
話を日本に限っても、かつては権力者の庇護を得て広大な領地を与えられ、地代が大きな収入源であったし、江戸幕藩体制においては檀家制度というものが整備されて、今に至る「葬儀ビジネス」の原型になっている。
そればかりか、ヤクザが博打の収益のことをテラ銭とか略してテラと言うが、これは漢字を当てると「寺」で、読者ご賢察の通り、寺院が賭場の開帳に場所を提供して収益を得ていたことから来ている。
ここで問題なのは、このような歴史があるからと言って、ただちに
「神も仏も信ずるに足りない」
と言い切れるほど、世の中は単純なものではない、ということだ。
私は統一教会の教義などまともに相手にする気にもなれないし、霊感商法に至っては言語道断だと考えるが、これを法律で取り締まるべきか否かと問われると、やはりただちに賛成だとは言いかねる。
なんの変哲もない壺を「霊験あらたか」だとして高額で売りつけるのは、第三者の目には、明らかに詐欺行為だと映る。とは言え、もともと壺に限らず、美術品や装飾品の値段など、あってないようなものではないか。
たとえば、ブランド物のバッグについて考えてみるとよい。
ブランドと言うくらいだから、世間の信用もあり、材料や工作もそれなりだから、
「丈夫で長持ちするので結局お買い得なのだ」
と考える人も多い。
けれども、バックひとつが100万円もして、なおかつそれが予約殺到と聞くと、これはやはりブランドの「神通力」を抜きにしては考えられないのではないか。
もともとどの商品にいくらの値段をつけるかは「営業権」の範疇なので、買わない自由もある以上、法律が介入するのは難しいのだ。
宗教団体に関しては、もうひとつ、税金を減免されていることへの批判も多い。
一見これは正論のようだが、この制度には、宗教活動の収益を行政の財源にしない、ということで「政教分離」の精神を具現化している、という側面もあることを知ったなら、少し違った考え方もできるのではないだろうか。
政教分離についてさらに言うと、これはそもそも、特定の宗教が国家から特権を与えられることがあってはならない、という趣旨で、宗教家が政治活動をすることや、逆に政治家が特定の宗教の信者になることを禁じたものではない。
ここは誤解のないように、幾度でも強調しておきたいところだが、私は山上容疑者や統一教会を擁護する考えはない。
それでもなお、統一教会を取り締まれ、という意見には同調できない。理由はふたつ。
まずは「そもそも論」だが、思想や信仰に法の網をかけて行こうという発想は、それ自体が危険な考えである、ということ。
いまひとつは、いささかプラグマティックな話になるが、元首相が射殺された事件をきっかけに、統一教会の活動を規制せよ、というのでは、それこそ山上容疑者の思う壺だろう。
金を積めば死者の魂が救済されるなどということは、断じてない。
この当たり前のことを、しっかり啓蒙してゆくことこそ、第二第三の山神容疑者を出さないための最良の道なのだ。
<解説協力>:若林啓史(わかばやし・ひろふみ)
1963年北九州市生まれ。1986年東京大学法学部卒業、外務省入省。
アラビア語を研修しイラク、ヨルダン、イラン、シリア、オマーンなどの日本大使館で勤務。
2016年より東北大学教授。2020年、京都大学より博士号(地域研究)。『中東近現代史』(知泉書館)など著書多数。
『岩波イスラーム辞典』の共同執筆者でもある。
朝日カルチャーセンター新宿校にて「外交官経験者が語る中東の暮らしと文化」「1年でじっくり学ぶ中東近現代史」を開講中。いずれも途中参加・リモート参加が可能。
トップ写真:Martin Luther Translating The Bible ドイツの宗教改革者マルティン・ルター(1483~1546)が訳した聖書
あわせて読みたい
この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト
1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。