8月15日に戦争は終わらなかった 日本と世界の夏休み その5
林信吾の「西方見聞録」
【まとめ】
・本当の戦争終結は、9月2日米戦艦「ミズーリ」において日本政府が降伏文書に署名した時。
・戦時国際法を無視したソ連軍による暴虐の犠牲者は5万7000人。
・心を砕くべきは8月15日以降も筆舌に尽くしがたい苦痛を味わった同胞たちに対してでは。
8月15日、日本列島は広範囲にわたって台風の影響による荒天となり、日本武道館での「全国戦没者追悼式典」も、規模を縮小して執り行われた。
また、高市早苗・経済安全保障担当大臣らが靖国神社を参拝した。閣僚の参拝はこれで4年連続となったが、岸田首相は参拝を見送っている。
靖国参拝については、閣僚と言えど玉串料(お賽銭のようなもの)を私費で納めている以上、個人の信仰心に関わる事柄なので、それ自体を問題視する考えは私にはない。むしろ、安倍元首相が凶弾に斃れてから1年以上が経つのに、岸田政権(と言うより与党自民党)が、未だに統一教会との関係を清算できていない事実が、次々と暴露されている。こちらの方がよほど問題ではないか。
そうではあるのだけれど、高市大臣の場合、自分が総理になったら公式参拝すると公言しているので、この点だけは今後とも注視して行く必要はあるだろう。
こういうことを述べると、
「英霊に感謝を捧げることの、どこが悪い」
といった反発を受けがちなのだが、そもそも靖国神社は慰霊の施設ではなく英霊を顕彰すべく創建されたものだという事実、さらには、1945(昭和20)年8月15日をもって、当時の日本人が戦争の惨禍から解放されたわけではないという事実を、参拝奨派の人たちはどう考えるのだろうか。
前段については本連載でも幾度か触れたことなので、今次は繰り返さないが、後段については、日本ではあまり知られていない(もしくは忘れられつつある)事実でもあるので、考えるにはよい機会かも知れない。
どういうことかと言うと、78年前の8月15日正午に、昭和天皇による「終戦の詔勅」がラジオ放送=世に言う玉音放送を通じて国民に伝えられた。言い換えれば「国民が敗戦の事実を知らされた日」に過ぎず、本当の戦争終結とは、9月2日、東京湾にやってきた米戦艦「ミズーリ」の艦上において、日本政府の全権代表団が降伏文書に署名した時なのだ。
実際問題として、欧米の多くの歴史教科書は、第二次世界大戦が終結した日時を「1945年9月2日」と記している。
簡単に経緯のみ振り返ると、1945年5月2日にナチス・ドイツが無条件降伏した。
その後、占領下に置かれたベルリン郊外のツーツィリンエンホーフ宮殿において、米国のトルーマン大統領、英国のチャーチル首相、そしてソ連邦のスターリン書記長による会談が行われ、戦争の最終的な収束=日本に対する降伏勧告について討議が行われた。宮殿の所在地である町名から「ポツダム会談」と呼ばれる。
この討議で一致を見た内容が、全13箇条(軍国主義の排除、基本的人権の確立など)にまとめられ、トルーマン大統領、チャーチル首相、そして中華民国の蒋介石総統が署名し、公表された。これこそが、
「Proclamation Defining Terms for Japanese Surrender 日本に対する降伏勧告の最終宣言」
である。俗にポツダム宣言と呼ばれる理由について、再度の説明は不要だろう。
スターリン書記長はこの時点では署名していないが、事後報告を受けて追認した。
そうなった理由については諸説あるのだが、有力なのは、この時点で米英とソ連邦は、互いに相手を「自分たちとは相容れないイデオロギーに凝り固まっている」と見なすようになっており、戦後半世紀にわたって続く冷戦構造の萌芽がすでにあった、との見方で、私もおそらくこれが正解だろうと考えている。
いずれにせよこの宣言が発せられると同時に、時の日本政府(鈴木貫太郎内閣)は対応を協議したが、受諾やむなし、とする外務官僚と、断固拒否すべし、とする陸海軍との間で折り合いがつかず、公式には「ノーコメント」とした。ところがこれを、当時の新聞は「政府の方針は〈黙殺〉」であると書き立て、さらには宣言を「笑止」とまで酷評した。
これが外電として連合国側に伝わった結果、日本は徹底抗戦する構えだと受け取られたのである。黙殺の一般的な英訳はignore(無視)だが、ロイター通信社はreject(拒絶)と報じた。まあ、ほとんど同義語なので「悪意の誤訳」ではないと思うが。
日本としては「国体の護持」すなわち天皇による統治を廃さない、との保証が得られない限り受諾はできない、という点に固執したのだが、最終的には昭和天皇の、自分はどうなってもよいから、という「聖断」により、終戦と決まった。8月10日未明のことである。
連合国に対しては、まずラジオ放送、次いで中立国スイスとスウェーデンの公使館を通じて文書で「受諾の意思」が伝えられた。ただ、前線に展開していた日本軍の部隊や一般市民には伏せられており、15日になってようやく玉音放送が行われたのは、前述の通りだ。
このあたりの経緯はやや複雑だが、基礎的な知識だけなら『日本のいちばん長い日』という映画を通じて得ることができるだろう。同タイトルの原作(半藤一利・著 文春文庫)を読むと、もっとよいが。
ここでもうひとつの論点、すなわち1945年8月15日をもって、当時の日本人が戦争の惨禍や恐怖から解放されたわけではない、とはどういうことか見てみよう。
8月9日、日ソ中立条約を一歩的に破棄したソ連邦は、満州(中国東北部)、朝鮮半島、さらには当時に本領だった南樺太(サハリン島南部)に一斉に侵攻。
この軍事行動は9月2日まで終熄しなかった。その理由は前述の通り「ポツダム宣言受諾=無条件降伏」ではなかったからだが、いずれにせよその間に、ソ連兵による略奪やレイプなどの被害は甚大なもので、さらには57万500人の日本人が抑留され、シベリアやモンゴルの収容所で強制労働に従事させられたのである。
昨年暮れに『ラーゲリより愛を込めて』という映画が公開され、話題となった。原作は1989年に刊行された『収容所〈ラーゲリ〉から来た遺書』(辺見じゅん・著 文春文庫他)というノンフィクションで、主人公は実在の人物だが、他の抑留者は映画のオリジナル・キャラクターで、原作には登場しない。
いずれにせよ主人公・山本幡夫を演じた二宮和也(嵐のニノである。念のため)はじめ、北川景子、松坂桃李、桐谷健太という気鋭の役者たちが、鬼気迫るまでの名演技を見せてくれたのだが、収容所生活の描き方については、いささか甘いのではないか、と思わざるを得なかった。
冬期は氷点下40度にもなるという酷寒の中、食事は一日一食、黒パンと食塩水みたいな薄いスープだけ。そして重労働。そのような「シベリア三重苦」とまで称された環境下、5万7000人もの人が命を落としたのである。
主人公はと言えば、いかに過酷な環境にあろうとも、生きて家族のもとへ帰る、という希望を抱き続けて、周囲の人たちを励まし続けるのだが、あろうことかガンに冒されてしまう。
病床で遺書を書くのだが、日本語でなにかを書きとどめ、それを持ち帰ることは「スパイ行為」に当たるとされた。そこで仲間たちは手分けして遺書を暗記し、帰国後それを文字に起こした手紙を持参して、入れ替わり立ち替わり遺族のもとを訪れる。
ここがクライマックスなのだが、中でも、漁に出ていたところを捕らえられてラーゲリに送られたが、学校に行っていないため、主人公から初めて読み書きを教えてもらったという青年(中島健人)が、長男とこんなやりとりをするシーンが圧巻だった。
「僕の字は、ちゃんと読めましたか?」
「もちろんです。この手紙、一生大切にします」
やり過ぎだよ。とさえ思った。泣けた。
ヒューマン・ドラマとしては文句なしの出来なのだが、それだけに、こうした「美談」のような描き方はいかがなものか、との思いは未だに消えない。
今さら言わずもがなのことであるが、彼らは断じて捕虜ではない。戦時国際法を無視したソ連軍による暴虐の犠牲者である。
この抑留は最長11年にも及び、この間に日本は奇跡的な経済復興を遂げていた。前述の映画でも、主人公の妻を演じた北川景子が、「もはや戦後ではない」という有名な文言が書かれた『経済白書』(昭和31年版)の発行を報じた新聞の見出しを一瞥するシーンがある。無言で、複雑な感情を目だけで表現して見せた。
その演技は賞賛に値するが、問題は戦後11年を経てもなお、戦争によって受けた痛手から解放されない人々がいたという事実である。
1993年に当時のエリツィン大統領が来日した際、このシベリア抑留は「非人道的な行為」であったとして遺憾の意を表したが、ロシア政府からの公式謝罪はなく、そればかりか、実態解明や遺骨収集には徹底して非協力的だ。
日本の政治家にせよ、本当に心を砕くべきは、このように1945年8月15日以降も、筆舌に尽くしがたい苦痛を味わった同胞たちに対してではないのか。
実体を伴わない終戦記念日に靖国神社を訪れ、「英霊に対する感謝」を捧げて事足れりとする態度は、このような戦争犠牲者に対する冒涜ですらあると私は考えるのだが、どうだろうか。
トップ写真:米戦艦ミズーリ上で降伏文書に署名する日本の重光葵外務大臣 1945年9月2日
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この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト
1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。