藤岡将医師 司法試験合格
上昌広(医療ガバナンス研究所理事長)
「上昌広と福島県浜通り便り」
【まとめ】
・司法試験に合格できたのは藤岡医師の能力が高いことに加え、勤務する相馬中央病院が支援してくれたからである。
・司法試験をサポートするきめ細やかな対応は都心の大病院では難しく、今回の合格は、彼が相馬中央病院で勤務していなければあり得なかったと言える。
・藤岡医師が弁護士という資格を活用するには、医師に軸足をおき、試行錯誤を繰り返すしかないと考える。
東日本大震災から11年半が経過した。原発事故により甚大な被害を蒙った福島県浜通りには、震災を機に多くの人が移り住んだ。彼らの中からユニークな人材が生まれつつある。
そのような人材の一人が藤岡将医師だ。9月6日、司法試験に合格した。司法修習を終えれば、晴れて医師・弁護士のWライセンスを得る。本稿では、藤岡医師の「快挙」についてご紹介したい。
藤岡医師は1986年3月生まれ。2004年、現役で東京学芸大学附属高校から東京大学文科2類に合格する。しかしながら、「経済学の勉強に興味が持てなかった」ため、仮面浪人で、理科3類を再受験し、合格する。
2008年春、医学部進学を契機に、当時、東京大学医科学研究所に存在した私どもの研究室に「教室のメンバーのキャラが立っていて、何となく面白そうだから」と出入りするようになる。写真は、当時の私の部屋で撮影したものだ。人懐こい性格で、スタッフからも可愛がられた。
▲写真 2009年3月、東京大学医学部3年生のころの藤岡将氏。東京大学医科学研究所の研究室にて。(筆者提供)
2012年に医学部を卒業し、2013年から南相馬市立総合病院での初期研修を始めた。この間に1年間のギャップが存在する理由は後述する。
南相馬市立総合病院は、福島第一原発から23キロ北方にあり、原発にもっとも近い基幹病院だ。原発事故後は多くの避難者・被災者を受け入れた。同病院は2013年から臨床研修指定病院に認定されるが、藤岡医師は同病院が受け入れた最初の研修医だ。東日本大震災後、私たちのグループは福島県浜通りでの支援活動を継続した。藤岡医師は、「このような活動に参加し、浜通りに興味を抱いた」という。
藤岡医師は、二年間の初期研修を修了後も南相馬市立総合病院に残り、消化器内科を専攻した。指導したのは金澤幸夫院長(当時)だ。金澤医師は温厚に見えるが、東日本大震災以降、多くの医師・看護師・スタッフが避難した中、及川友好副院長(当時、現院長)、根本剛医師らと共に現地に留まり、診療に従事した気骨ある人物だ。若い頃は「厳しい指導医」として知られていたそうだ。藤岡医師は、この金澤医師から、消化器疾患の診察から内視鏡検査まで、消化器内科医として基本を叩き込まれる。その後、藤岡医師は相馬中央病院に異動し、現在に至る。地元出身の女性と結婚し、二人の子どもをもうけている。
なぜ、福島県浜通りの勤務医が、司法試験に合格することができたのだろうか。それは、彼が「天才」だからだ。その記憶力は驚異的だ。クレジットカードや電話番号など、数回見れば覚えてしまう。「12桁までの数字は記憶に焼き付く(藤岡医師)」らしく、子どものころには、「たまたま母親のクレジットカードをみたら、番号を覚えてしまい、
その後、こっそり買い物をしたこともあります。ばれて叱られました」と言う。抜群の記憶力を有するため、試験に強い。だからこそ、東大教養学部文科2類在学中に、仮面浪人をして理科3類に合格したのだろう。
大学時代には「資格マニア」として、行政書士など、多くの資格試験を受験し、合格した。司法試験に挑むきっかけは2019年に司法書士に合格したことだ。2020年1月に新人研修を受けたが、その際に、医師としての勤務を続けながら、司法書士の簡易裁判所での代理業務資格を取ることは出来ないと知る。それなら、いっそのこと司法試験を受けようと決心したのだ。
藤岡医師は資格試験のための勉強が好きだ。法律も、法科大学院には進学せず、独学で勉強した。予備試験の合格率は4.2%だ。この難関を初挑戦で合格した。試験勉強開始から合格までに要した時間は二年半だ。なぜ、合格できたのか。藤岡医師の能力が高いことに加え、勤務する相馬中央病院が支援してくれたからだ。相馬中央病院では、食道外科医である標葉隆三郎院長が、藤岡医師を指導し、そして庇ってくれた。勤務中に別室に閉じこもって、司法試験の勉強をしていても、患者に迷惑をかけないかぎり、誰も問題視しなかった。
事務方の佐藤美希総務課長の存在も欠かせない。佐藤さんは、日常的に藤岡医師に話しかけ、彼をサポートするように努めている。そして、患者やスタッフとの軋轢が生じそうなときには、早めに介入して、大事にならないうちに解決してくれる。相馬中央病院で一番若く、東京から来た「余所者」である藤岡医師を守ってくれているのだ。
司法試験の勉強が始まってからもサポート体制は変わらなかった。佳境に入った試験勉強と病院業務が被ったときには、「佐藤さんが他の先生にお願いして、私の不在をカバーしてくれた(藤岡医師)」そうだ。このようなきめ細やかな対応は都心の大病院には期待できない。今回の合格は、彼が相馬中央病院で勤務していなければあり得なかったと言っていい。
藤岡医師のような「天才」を育てるのは難しい。「天才」によくあるように、藤岡医師は気分屋だ。興味がなければ何もしない。東大医学部在学中、藤岡医師は医学の勉強に関心がなかった。医師国家試験の模擬試験の得点は13%だ。試験は5択だから、ランダムに答えを選んでも20%は得点できるはずだ。どうやったら、こんな点数がとれるのか、常人には理解できない。流石に、これでは国試に合格しない。一年間の国試浪人を経験する。これが前述した医学部卒業と初期研修開始の間に一年のブランクが生じた理由だ。
藤岡医師は、医師国家試験には興味がなかったが、診療は好きだった。金澤医師、標葉医師、佐藤さんなど、多くの地元の方々に支えられ、実務経験を積み、一人前の医師となった。医師としての勤務に慣れ、余裕ができると、再び資格マニアの血が騒ぎ、また試験勉強を始めた。病院の日常業務とは全く関係がない藤岡医師の「趣味」を、標葉院長や佐藤さんたちは支えてくれた。そして、今回の「快挙」となった。
これから、彼に待ち受けるのは実務だ。医師・弁護士のダブルライセンスは、今や珍しくない。何でも経験がものをいう世界だ。二つの専門領域に通じていることは、どちらについても中途半端という見なすこともできる。2000年代に入って急増した医療法の教授ポストも、いまや飽和している。30代後半で弁護士登録しても、一人前になるには時間がかかる。医療訴訟を抱えた病院は、医師免許を持った駆け出しの弁護士ではなく、医師資格はなくとも、医療訴訟の実務経験が豊富な弁護士に依頼するだろう。ダブルライセンスは医師の間では尊重されるが、患者・クライアントにとっては何の価値もない。
藤岡医師は、どうやって弁護士という資格を活用するのか。私は、医師に軸足をおき、試行錯誤を繰り返すしかないと考えている。その意味で、「包容力」がある相馬は魅力的だ。司法研修と武者修行を終えた藤岡医師が、数年後には相馬に戻り、新たな医師のキャリアパスを作り出すと同時に、相馬に恩返しすることを期待したい。藤岡医師のような異色の人材を育てるのは難しい。今回の「快挙」は、この地域の懐の深さを改めて実感した。今後の藤岡医師と相馬地方の交流に注目している。
トップ写真:2012年7月、相馬市内の仮設住宅での健康診断に参加したときの様子。左から谷本哲也医師、藤岡将医師、大西睦子医師。(筆者提供)
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この記事を書いた人
上昌広医療ガバナンス研究所 理事長
1968年生まれ。兵庫県出身。灘中学校・高等学校を経て、1993年(平成5年)東京大学医学部医学科卒業。東京大学医学部附属病院で内科研修の後、1995年(平成7年)から東京都立駒込病院血液内科医員。1999年(平成11年)、東京大学大学院医学系研究科博士課程修了。専門は血液・腫瘍内科学、真菌感染症学、メディカルネットワーク論、医療ガバナンス論。東京大学医科学研究所特任教授、帝京大学医療情報システム研究センター客員教授。2016年3月東京大学医科学研究所退任、医療ガバナンス研究所設立、理事長就任。