平成12年の年賀状恵比寿のシャトーレストランでの時間/伊藤整全集のことなど
【まとめ】
・23年前、冬の外でのランチ。「こんなに気持ちの好い日はあと何回あるだろうと数えてしまう」と年賀状に書いた。
・私も焦らなくなった。結局は死に到るだけだと悟ったということなのか。
・そろそろ覚悟を決めるべきか。本人は未だ早い気がしている。
年頭にあたり皆々様の御健勝をお祈り申し上げます。
昨年のご報告を一、二、申し上げます。
春。香港へ行き、酔っ払い海老にまたお目に掛かりました。香港返還もこの海老の味には何の変化も与えなかったようです。
夏。濃いサングラスをかけ、白いボルサリーノの帽子をかぶって陽光の中を散歩に出掛けました。しかし、日本の夏に外歩きをすると汗が出てたまりませんでした。
秋。五十歳になったばかりの或る土曜の昼下がり、西麻布、広尾、白金台をあてもなくさまよい歩きました。どうやらそのエリアの人々の平均年令を確実に上げてしまったようです。
冬。恵比寿ガーデンプレースにあるオープンエリアのレストランで、仕事を兼ねたランチをとりました。こんなに気持ちの好い日はあと何回あるだろうと数えてしまいます。
通年。以上の例外が年に数日ある他は、毎日忙しく立ち働いています。昔、数学で単調増加という言葉を習いました。私の「日の要求」がそれです。
通年、その二。伊藤整の全集を毎晩ベッドの中で読んでいます。最晩年の彼から始めましたが、最近同じ歳になりました。これから若くなる一方です。
「恵比寿のガーデンプレースにあるオープンエアのレストラン」とは、ジョエル・ロブションのテラスを指す。23年前。私は或るフランス人のビジネスパーソンと「仕事を兼ねたランチ」を食べたのだ。冬のことだったようだが、外での食事がとても快適で、「こんなに気持ちの好い日はあと何回あるだろうと数えてしまいます」と書いているとおりだった。その日から23年が経っているが、その間に「こんなに気持ちの好い日」が何回あったことか。なんとも心もとない。
あれは、仕事がうまく行っていたこともあって爽快さが倍加されての気分だったのだろう。しかも私は50歳になったばかり。未だまだ先のことなど意識しない、未来が無限だとすら感じもしない年齢だ。フランスで二番目の金持ちが日本の生命保険会社の買収をする手伝いをして、首尾よく成功したのが2年前、1998年だった。
私は依頼者に頼まれて、英語で取締役会に参加できる日本人を何人も推薦した。日本の大手都市銀行の専務でアメリカの子会社のトップも務めていた方や大蔵省の財務官だった方を取締役に、外国の銀行の日本支店長だった方を監査役にお願いした。監査役にはもう一人、私の主宰する法律事務所の弁護士にもなってもらった。私自身は、日本の生命保険会社の仕事をしていたから役員には就任せず、顧問弁護士として関与した。そうなのだ、あれから25年も経ってしまったのだ。亡くなった方もいる。
依頼者の意向で、取締役会を年に一度パリで開くということが何年も続いた。
私がジョエル・ロブションでランチをともにしたフランス人も取締役だった。彼自身、フランスの巨大な保険会社の国際部門のCEOをした経験があってのコンサルタントだったから、買収計画の開始の時から事実上強いリーダーシップを発揮していた。つい最近も東京に来たので夕食をともにする機会があった。オークラのヌーベルエポックに招待したら、日本酒が飲みたいと言う。それで日本酒を頼むと、ソムリエは自慢のブランドを出してくれた。ところがそれをほんの少し口にするなり、彼は、「これは栓を開けてからもう2週間経っている。だめだ」とそのソムリエに宣告した。そのとおりだった。私は顔見知りのそのソムリエに頼んで、まっさらな未開栓のボトルを持ってきてもらった。グラスから一口だけ口に含み、ご満悦の様子だった。
彼には1997年に初めて会ったのだが、当初は白ワインしか飲まないと公言していたのが、いつの間には和食党になり、日本酒についても大変詳しくなっていた。なにしろ、ロブションのベルギー人のソムリエと一緒になって日本中の酒蔵を回ったというくらい、実際に日本全国の各地に足を運んで熱心に日本酒を探求し、味わっていたのだ。
他人に食事を奢るのがあたかも趣味のような男だった。ニューヨークにアラン・デユカスが出した新しい店がとても美味しかったというので、どのくらい払うものかたずねたら、即座に“I do not care!”と答えた。なんでも、CEO退任時に巨額のストックオプションをもらい、その報酬の管理のためにアドバイザーを雇っているとかで、夜も昼も豊かな生活をエンジョイしていた。”I don‘t want to sleep”というのが口癖で、夜の3時、4時までダンス付きの日本のナイトライフを愉しんでいながら、朝8時からのミーティングを招集したりするのだ。
仕事についても、プライベートなことでも、いろいろなことを教えてもらった。ワインについても、わざわざ紙に舌の絵を描いてみせ、この部分は苦みを感じる、この部分は酸味だと説明してくれた。またある時には、ジョエル・ロブションの2階に私ともう一人アメリカ人の保険数理の専門家と2人を前にし、シャトーラトゥールとマルゴー、それにロートシルトと三種類の赤ワインのボトルを並べて奢ってくれた。しかし、猫に小判とはこのことだろう。3枚の小判。私にはまったくありがたみがわからなかった。いや、ほとんど、だったか。
逆に個人的な相談をされたりもした。大変に日本が気に入ってしまって、そこでの発展家ぶりも余人のうかがい知ることのできないほどだった。恵比寿の或るレストランには、その印として、トイレに女性の書いた彼宛のメッセージが残っていたほどだった。
或る時、昔からの友人のアメリカ人弁護士が彼の仕事ぶりについて、“wild and crazy”な男だそうじゃないかと慨嘆するようにたずねてきたことがあったが、まことに彼に似つかわしい表現だという気がしたものだ。
ところで、私の「単調増加」の生活は変わっただろうか。
そう書いてから24年になる。忙しくなくなった気はまったくしない。弁護士という定年のない職業だから定年どころか退職ということもない。大規模な法律事務所の友人たちは70歳が一つの区切りになっていて、パートナーという立場から顧問という立場に替わるのが当たり前のようだ。しかし、私は中規模の法律事務所であるうえに創業者だから異なる。
第一、毎日忙しいのだ。以前のように弁護士としての仕事以外に、大企業の社外役員の仕事や社団や財団法人それにNPOの理事の仕事が増えている。講演の依頼も多い。新聞などのメディアの方々から取材を受けることも数多い。そのうえ、自ら望んでのテレビのレギュラー番組もある。
もともと「単調増加」と自らの生活を評した時点でも、24時間しかない一日は十分に忙しかったのだ。量的には増加の余地はない。たぶん、質が変わってきているのだろうと思う。いっしょに働いてくれるパートナーやアソシエートに支えられているから、自分で一から手がけることは減っている。しかし、ますます忙しいという主観的な思いは増加している。だからやはり単調増加ということになるのだろう。
そう書いていると、「自分は此儘で人生の下り坂を下っていく。そしてその下り果てた所が死だということを知って居る。」という、鷗外の『妄想』にまた立ち戻る。鷗外は、「若い時には・・・自分の眼前に横たわっている謎を解きたいと、痛切に感じたことがある。その感じが次第に痛切でなくなった。次第に薄らいだ。・・・解こうとしてあせらなくなったのである。」と書いている。
そういえば、私も焦らなくなったような気がする。
なぜだかわからない。いろいろな人を見ていて、結局は死に到るだけだと悟ったということなのかもしれない。
いや、そう簡単に死なせてはくれないだろう。苦しみの果てに死ぬことになる可能性が相当ある。伊藤整の『発掘』を思い出す。
「熱が更に高くなり、胸を力いっぱい持ち上げるような呼吸をしはじめ、あの、母の死ぬ前にあったような鼾に似た喘鳴を病人ははじめた。」と死を迎えつつある老女が描写される。その老女に、同じくらいの年齢の老女が話しかける場面が冒頭近くに出てくる。(全集10巻24頁)
「この世のお暇乞いは楽じゃないんだよ、楽じゃないんだよ。」そう話しかけるのだ。
そうだったのか。そんなこととは露知らず呑気に生きてきてしまった。実はそれが人生の実相なのだとは、誰も教えてくれなかった。
いや、発掘を読んだのは1978年7月24日のことだ。28歳。同じ文章を読んでも、年齢によって分からないことがあるのだ。
「年寄の気持ちは年をとらないとわからない。」いつも父親が繰り返していたものだった。
私は年寄だろうか。元気に仕事をこなし、会話をし、食事をするこの私。運動も定期的にしている。確かに筋肉は運動を始めた7年前よりも太く強くなっている。しかし、人間の肉体のうちで鍛えることのできる部分は限られている。3,40代の暴飲暴食のツケは確実に払わされるのだろう。
未だ、「助けてくれ」という悲鳴をあげるほどにはなっていない。
私は友人の医者にこう話すことがある。たくさんの富裕であったり権力を持っている患者を抱えている医療クラブを経営している男だ。
「先生、人間は、いろいろ金や権力とかを誇っていても、最後は結局、先生のところに頼ってくるんですよね。」
その後に私が、「先生は、蟻地獄の一番下にいる蟻食いのように待っているだけでいいんだから、いい仕事ですよね。どんなに必死にあがいても砂がサラサラと崩れて、蟻は食われてしまう運命から逃れることはできないってわけですからね。」と付け加えると、嫌な顔をする。
しかし、本当なのだ。それどころではない。真実は、その友人は蟻地獄のいる蟻食いではなく、蟻地獄に落ち込んでしまった蟻にあらゆる救いの手を差し伸べてくれるありがたい存在なのだ。彼の患者への献身ぶりを近くで見聞きしている私には、彼の存在がどれほど患者にとって貴重か分かる。なにせ、私自身がなんどか蟻地獄の境目で足を滑らせ、ずるずると体が下へ落ちてゆくのを感じ、恐怖にかられて大声で彼を呼び、彼がその太くたくましい腕を伸ばしてくれたおかげで助かったのだ。
しかし、結局は行くところとは分かっている。
そろそろ覚悟を決めるべきか。本人は未だ早い気がしている。気を付けるが、死がやってくるのは未だだと思っている。少なくとも統計的には、などと気休めを自分に言い聞かせながら。
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【伊藤整全集のことなど】
伊藤整については、石原慎太郎さんと話したことが懐かしく思い出される。伊藤整のファンの方ならわかってくださると思うが、伊藤整は『発掘』の雑誌連載の完結後「ついに単行本にまとめることなく、時日を過ごし、遺作の一つとして残された。」(伊藤整全集第十巻 瀬沼茂樹による編集後記 596頁)瀬沼によると、伊藤整は「実は結末の部分に不満があり、なお百余枚を書き加えたいと願っていた」という。(同頁)天が伊藤整に時間を与えなかったのだ。なんとも残念でならない。
長編三部作のうち、最後の『変容』も、最初の『氾濫』も素晴らしい。しかし、どうも未完としか言えないままの『発掘』には、伊藤整の最後の日々が赤裸々に描かれているような趣があって、もっとも生々しい会心の作になったはずだという気がしてならないのだ。なによりも、彼自身がこの作品には直接的に登場している。この作品のなかで、伊藤整は癌に罹った自分を意識し、その前提でものごとを考え、その視点で動いているからだ。
たとえば、伊藤整の分身である土谷圭三は、愛人である大学の助教授鳥井久米子と二人だけの場で、目の前の久米子の「うるんだ大きな目を見たとき、圭三は急に、自分がこの人に逢える時間はもうあまり長くないのだ、と感じた。」そして、「おれはこの人をこの世に置いて近いうちに居なくなってしまう、という直感が圭三の胸に湧いた。」伊藤整はそう書いている。
さらに、そのすぐあとで、「久米子のそばにいて圭三は、自分の今の生活が三月か半年くらいで断ち切られるかもしれないことを、顔に炎がかかるような切実さで考えていた。」と表現する。(全集第十巻286頁)
1962年から2年間にわたっての連載だったというから、伊藤整が57歳から59歳の間の作品ということになる。
伊藤整は64歳で死んだ。癌である。その彼は『発掘』のなかにこんなことを書いている。
鳥井久米子との快楽の作業が終わってすぐのこと、
「何という虚しいことを人間の肉体はするものだろうと思った。そのとき彼はあの孔子も釈迦もひどく年老いるまで生きていたことを考えた。彼等も五十歳から六十歳の間に、たぶんこんな風にして、欲望は郷愁に過ぎないことを知り、そしてその時、道徳というものが生身の人間に体現され得ることを見出したのかもしれない。己の欲するところに従って則を超えずと言ったり、若い弟子たちに色慾は空虚だと語ったりしたのは、そういう理解に基づいてのことだったのかもしれない。」(290頁)
「欲望は郷愁に過ぎない」というのは、小説のなかで彼がいつまでも達することなく行為を続けながら、「それは、現実の快楽でなく、以前に持った快楽のための郷愁の行為に似ていた。」という部分を指している。「神の好色に似ていた」という表現もしている。
この『発掘』という小説は、主人公である国立の明治文化研究所の所長という地位にある土谷圭三が、むかし付き合いのあった村井露子という女性の突然の訪問を受け、二人の間にできた子どもがいま東京に大学生でいることを知らされる場面から始まる。
その時、土谷圭三は危篤になった姉を看取るために北海道へ行かなければならない状況だった。
その姉は、早くに両親を失った圭三の母親代わりであり、「世に出る前の弟のために、という古風な考え方で、町の酒場の女露子を彼から遠ざけた。」(32頁)という、はるか昔の物語のなかで活躍し、「その結果圭三は、官立の大学の教授になるという、言わば出世のコースを進むことができた」のだ。
札幌と小樽の中間にある村の牧場にいる姉を見舞った土谷圭三は、もう彼のことがよくわからない姉に向かって、こうつぶやく。
「あなたが骨折ったほどの値打ちが僕の生活に生まれたわけではなかった。」
圭三は「自分の生活が贋ものだという気持ちから抜け出すことができなかった。」と伊藤整は彼自身の心境を吐露する。流行作家としての名声、また「チャタレー裁判」で人々の大きな支援を得ながらも、伊藤整が行きついたところはそんなところだったのかと思わせないではいない。
そういえば、石原慎太郎さんが伊藤整について、「あんな女好きの人はいなかったなあ」と教えてくれたことがある。自らを『「私」という男の生涯』(幻冬舎)のなかで「好色」と形容する石原さんにしての伊藤整評である。そういえば「仮面紳士」というのも伊藤整の表現だった。彼は東京工大で文科系の教授となり、その立場を江藤淳に譲ったのだった。
私は平成12年の正月からどのくらいして伊藤整の全集を読み切ったのだろうか。
全集を読んだ作家は何人かいる。同時代を生きたから、その人の本が出るごとに、雑誌の表題が目に付くたびに読んでいた人も何人もいる。石原慎太郎はその第一だったろう。加藤周一もそうだった。それは、今では平川祐弘先生に完全に替わっている。江藤淳も『夜の紅茶』以来、いつも愉しみにしていた。
既に亡くなった人の全集を読んでいるのは、なんといっても漱石と鷗外になる。どちらが先だったか。大学入試が終わって鷗外を読み、司法試験が終わって漱石を読破したのだったか。次いで、谷崎潤一郎。谷崎の全集は、私が検事を辞めて弁護士になってすぐ後に出始めた。事務所のライブラリアンに頼んで毎号確実に購入していたから、よく覚えている。ただし、手に入るごとに読んでいたわけではなく、自宅の書斎に積み上げるだけで結局読まないで終わるのかなと思っていた。
たぶん、「最晩年の彼から始めた」のは、谷崎の全集の時からだったような気がする。なぜなら『夢の浮橋』という作品が強く印象に残ったからだ。幻想的な作品だったが、妙に心惹かれた記憶がある。
伊藤整ももちろん全集を読んだ人に入る。これは古本屋で求めたのだった。谷崎潤一郎の全集を読んでから後のことである。若いころの詩が素晴らしかった。
伊藤整については、「歿後50年 伊藤整展―チャタレイ裁判と『日本文壇史』」というのが2019年に日本近代文学館で開かれたのを観に出かけているようだ。はっきりとした記憶はない。ただ、ああした裁判を戦うのは大変だったろうなと思ったくらいのことだったか。観に来ている方の数も限られていたと思う。それは江藤淳について「没後20年 江藤淳展」 が、同じ2019年にあったのを神奈川近代文学館まで観に出かけたのと好対照をなしている。あの時は、雨のそぼふる寒い日だったことをよく覚えている。江藤淳に似つかわしい天気だった。観ている人の数は同じく少なかったが、「江藤さん、生き埋めになってしまって大変でしたね」という思いで館を後にした。やはり伊藤整は同時代人ではなく、江藤淳は同時代人だったからだろうか。
そういえば、最近、文学についておもしろい体験をした。
石原慎太郎の『火の島』(幻冬舎文庫)を読んだごく親しい友人とこんなやり取りをしたのだ。
彼が、「いや、僕は礼子さんに惚れてしまったみたいなんだ」と言い出したのがきっかけだった。礼子というのはヒロインの名である。
私は、「えっ?でも彼女は小説のなかの女性だよ。」と私が応じると、
「わかっているよ。でも、僕は彼女に惚れたんだって自分でわかる。本気だよ。」
と来た。
「でも、あなたの心のなかにいる礼子さんてどんな方なの」
とたずねると、
「上品で、清楚で、中肉中背でね。」
と、まことに具体的である。
「おもしろいですね。あなたの心のなかにある礼子さんは私の心のなかに住んでいる礼子さんと姿形がまったく別個なんでしょうけどね。」
もともとそうした議論になる素地はあったのだ。
彼は、『火の島』という小説の末尾で、西脇礼子の幼馴染だった浅沼英造が礼子と心中することがどうしても許せないと言っていたのだ。私にとっては素晴らしい、必然の結末だと思われたのだが、彼は余りに礼子さんが可哀そう過ぎるというのだ。
「好きな男に抱かれて、その男の手のナイフで死の数秒前に胸を刺され、そのまま強く抱きしめられて何十メートルかの断崖から抱き合って飛び降りる。こんな素晴らしい人生はないのではないかと思いますよ。長く生きていることが人生の価値とは思えない。死ぬべき時に死ぬことができることは、人生での最大の果報だと思いますけどね。」
私は自分の考えをそう話した。
そんな話を何回かしたあげくに彼が言い出したのが、「僕は本気で礼子さんに惚れてしまった。」だったのだ。
私は、読者のそれぞれの心のうちに別々の人物を想像させ創造してしまう言葉というものの凄さを改めて感じさせられた。
もしそれが、著名な女優が映じた話題作である映画であれば、こんな食い違いは起きないだろう。画面に実際に映っている「西脇礼子」は具体的なイメージとしてあるから二人の間に大きな食い違いは起きようがない。「西脇礼子」を演じている女優の範囲を超えない。
しかし、文字は違う、言語は異なる。
それが芥川が『侏儒の言葉』のなかで引用した王世貞の「文章の力は千古無窮」という言葉の意味なのかと思い知らされた気がしたのである。
ついでに、私は、もしChatGPTに画像を描いてもらったら、西脇礼子と言う女性の外観は一つになるのかどうか、心はどうなのかに興味が湧いた。つまり、生成AIは文学を陳腐なものにするのかという疑問である。
『日本半導体復権への道』(牧本次生 ちくま新書 2021年刊)を読んでいる。著者は1937円生まれで日立の専務を経てソニーの専務も務められた方である。本の著者紹介によれば、半導体産業における標準化現象とカスタム化のサイクル現象が「牧本ウェーブ」と呼ばれるほどの方のようだ。
私は、産経新聞の「トレンドを読む」という寺田理恵さんの書かれた欄で「日本の半導体産業の盛衰を日本の立場からたどる」本として教えられた。失われた30年に問題意識を持ち、その原因を1985年のプラザ合意にたどっている私としては、なんとも興味深い本として読み始めたところだ。
162頁からの半導体戦争の始まりから185頁の昇る米国、沈む日本を読むと、いったいなにが起きたのかが具体的にわかる。殊に176頁に示された「日米半導体協定前後のDRAMシェア推移」という図を見ると納得感がある。世界80%のシェアから10%まで転げ落ちてゆく急傾斜の坂道がそこにはある。どれほどの日本人の涙がその過程で流されたのか。想像に余りある。
谷崎潤一郎の『夢の浮橋』を読む私は、同時に現在と未来を生きることを強制されている。読書は多分野に及ばざるを得ない。私にとって最近とてもショックだったのは、或る大学の先生に「私は若い学生に言うんですよ。もう日本はダメになるのだから、外国に行って活躍しなさい、と」と言われてしまったことだ。留学しなければダメですよというのではない、外国に行って、もう日本には戻ってこない方が良いという意味なのだ。
私は、反論はしなかったが、いったいどこのパスポートを持って外国に滞在するつもりなのかと思った。それが日本国のものである以上、日本の盛衰はパスポートの価値に直接関連する。極端な話、日本がなくなってしまったら、その人はパスポートのない人間になってしまうのだ。
あるいは、その外国でその国の国籍を取得すればよいという発想なのかもしれない。しかし、それは相手の国の決めることでそうは問屋が卸さないかもしれないし、それ以前に、私には日本以外の国を祖国とすることは考えられない。
そういえば、つい最近、或るイギリス人の投資家がに「ウクライナでの戦争は、ウクライナにとって悲惨な結果になるのではないか。アメリカはいずれウクライナへの援助を止めるときが来る。それはウクライナ問題がアメリカにとってはアメリカ自身の国内政治の問題に過ぎないからだ。私には、アメリカ人が今のウクライナとの関係を長い将来にわたって継続するとは考えられない。もしそうなったらどうなるか。ウクライナはロシアに全面的に敗北することになるに決まっているではないか。」というのだ。
そうかもしれないな、と私は考えた。おぞましい推論だが、一つの可能性であることは間違いない。
追加)2023年4月26日21:30
【伊藤整全集のことなど】以下を追加しました。
トップ写真:恵比寿ガーデンプレイス 奥に見えるのがフレンチレストラン「ガストロノミー ジョエル・ロブション」 東京・渋谷区 出典:key05/GettyImages
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この記事を書いた人
牛島信弁護士
1949年:宮崎県生まれ東京大学法学部卒業後、検事(東京地方検察庁他)を経て 弁護士(都内渉外法律事務所にて外資関係を中心とするビジネス・ロー業務に従事) 1985年~:牛島法律事務所開設 2002年9月:牛島総合法律事務所に名称変更、現在、同事務所代表弁護士、弁護士・外国弁護士56名(内2名が外国弁護士)
〈専門分野〉企業合併・買収、親子上場の解消、少数株主(非上場会社を含む)一般企業法務、会社・代表訴訟、ガバナンス(企業統治)、コンプライアンス、保険、知的財産関係等。
牛島総合法律事務所 URL: https://www.ushijima-law.gr.jp/
「少数株主」 https://www.gentosha.co.jp/book/b12134.html