サイテーな日本の賃金水準 住みにくくなる日本 その1
林信吾の「西方見聞録」
【まとめ】
・最低賃金を時給1000円以上に引き上げない限り、貧困問題は解決の道筋さえ見えてこない。
・最低賃金は上昇傾向にあるが、物価上昇率がそれを上回っている。
・非正規雇用の人たちは実質賃金が目減りし「経済難民」化する傾向。
もしかすると来年の今頃には「三密」「マスク」「入国制限」等々が死語になっているのだろうか。新型コロナ禍による制限が解除され、急速に日常が戻りつつある。そして外国人観光客が大勢日本へ……となるはずだったのだが、そうそう都合よく事が運ぶものでもないようだ。
旅館業の人手不足が深刻化する一方で、5月の連休明けに報道されてところによれば、「時給1300円まで引き上げても人が集まらない」と嘆く声がしきりだとか。こうした経営側の嘆きにも、世論は結構冷ややかで、「旅館業の過酷な労働環境を思えば、時給1300円でも割が合わないだろう」と受け止める向きが少なくないようだ。
これも報道で知ったのだが、ある地方都市で、米国資本の量販店が進出してきたせいで、近隣の飲食店が一挙に深刻な人手不足に直面し、中には店をたたんだケースもあるという。その量販店のチェーンでは、新規出店に伴ってアルバイト従業員を募集したのだが、最初から時給が1500円支払われるということで、近隣の店から一斉に転職していってしまった、ということらしい。
私は新型コロナ禍の以前から、全国一律で最低賃金を時給1000円以上に引き上げない限り、わが国の貧困問題は解決の道筋さえ見えてこない、と主張してきた。
ただ、もともと不安定な非正規雇用の人たちにとっては、最低賃金でも仕事があるだけありがたい、と考えざるを得ないことも、また現実であった。したがって、えり好みしなければ仕事はある、と言い得る状況で、表向きの有効求人倍率以上に、潜在的な人手不足に悩む会社も少なくなかった。
私なども、特別な資格など持っていないし、社会的には高齢者と位置づけられる身だが、ハローワークのサイトやいわゆる転職サイトなどを見ると、結構条件にかなう求人がある。多くの場合、最低賃金だが。
ところが、新型コロナ禍で「パンデミックの功名」とでも言おうか、いわゆる在宅ワークが増えたり、仕事が減った個人事業主には助成金が支払われたりしたため、非正規雇用の賃金問題など後景化してしまったのである。
この結果、冒頭で述べたように新型コロナ禍による行動制限に終止符が打たれたが、今度はあらためて人を集めようにも賃金がネックになる、という事態となった。
最低賃金に話を戻すと、これは都道府県別に定められており、厚生労働省が2022年に公表したデータを見ると、東京(1072円)。神奈川(1071円)、大阪(1023円)だけは、かろうじて大台に乗っているが、他は全て1000円未満。最も安い自治体だと853円(青森、愛媛、高知、佐賀、長崎、沖縄など)というケースもある。ちなみに全国平均は961円。
それでも全体として上昇傾向にはあるのだが、物価上昇率がそれを上回っているため、勤労者の生活は楽にならないどころか、ますます逼迫しているのが事実だ。
実際問題として、厚生労働省のデータを見ても、実質賃金(現金給与総額÷消費者物価)は、今年3月の段階で12ヶ月連続の低下となっており、2022年度の実質賃金は前年比-1.8%である。
言うまでもないことだが、物価高騰は日本だけの問題ではない。ロシアによるウクライナ侵攻と、それに対抗すべく発動された経済政策によって、食料品やエネルギー(電気代など)の価格が高騰し、庶民の懐を直撃した。
ニューヨークを拠点に活動を続けている女性の芸人さんがTVでぼやいていたが、ありきたりな朝食2人前(目玉焼き2個、アボガドをのせたパン、ツナサラダ)で70ドル、ざっと8000円近く取られたという。
「やっぱり、成功した人でないと住めない街なのですね」というのが当人の弁だが、これは物事の一面しか見えていないのではないか。
ニューヨークの外食費がバカ高いのは今に始まったことではないが、それは人件費の高さも大きな要因なのである。特に新型コロナ禍がひとまず落ち着いてからというもの、ファストフード店などでは、時給40ドル、50ドルといったケースも見受けられるようになり、「東京で上場企業の営業マンとして働くより、ニューヨークのマクドナルドでアルバイトした方が実入りがよい」などという声まで聞かれるほどだ。外報によっても、労働者階級の米国人からは、「たしかに物価が高くなっているが。その分、給料も上がってるからね」といった声が多く聞かれるという。
もちろん、上場企業で働くよりも云々というのは、家賃や福利厚生の違いを無視しているわけだから、一種のネタとして聞いておけばよいレベルの話ではある。
とは言え、日本でも非正規で働いている人たちにしてみれば、時給が5000円にもなるというのは、これぞアメリカン・ドリームだと受け取られるかも知れない。
さらには、こうした賃金格差の問題は、日米間に限られた話ではない。
いわゆる留学ビジネスに関わっている知人から聞かされたのだが、オーストラリア(以下、豪州)で働きながら英語を学べるという「ワーキング・ホリデー」への応募や問い合わせも、右肩上がりで増えているという。かの国の最低賃金は時給21.38ドル、週給(38時間労働換算)812.60ドル。
豪州ドルの為替相場は6月13日現在94.34円だが、ざっくり計算して時給2000円ほどにはなる。さらに、ワーキング・ホリデーのような外国人の臨時雇いは最低賃金の対象だが、雇用促進のための助成金が上乗せされ、手取りは25%増しになるそうだ。
前述のように、日本で最低賃金の仕事に就いた場合、時給961円(=全国平均)だと、月200時間働いても19万2000円。たとえ最低賃金でも、給与所得者だと税金や社会保険などの負担が、総収入の3割を超すから、手取りは15万円をだいぶ下回ってしまう。
ならばオーストラリアで時給2500円位もらった方が……ということになるのも無理からぬ話ではないか。もちろんかの国にも税負担はあるし、季節が逆転する南半球での労働だから「英語の勉強をしながら効率よく稼げる」などという甘い話ではないだろうが。
いずれにせよ、日本でこれまで非正規雇用(多くの場合、最低賃金レベル)に甘んじてきた人たちは、今やこの国を見限りつつある。と言うよりも、実質賃金が目減りし続ける現状に耐えかねて「経済難民」化する傾向まで見られるようになってきたのだ。
異次元の少子化対策(これについては、項を改める)も結構だが、そもそも今の日本の賃金水準では、結婚して子供を持つことなど夢物語、と考えざるを得ないのではないか。
ちゃんと食べて行けるだけの賃金を支払うことは企業の社会的責務であるし、物価高騰に見合う賃上げを促して行くのが、政治の責任というものではないのか。
トップ写真:フードデリバリー中の女性(イメージ)出典:recep-bg/GettyImages
あわせて読みたい
この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト
1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。