迷惑と懲罰のバランスについて 住みにくくなる日本 その5
林信吾の「西方見聞録」
【まとめ】
・回転寿司運営会社が、少年を相手取り6700万円の損害賠償請求訴訟を提起。
・撮影し拡散した人物がペナルティを受けないのは納得いかない。
・ネットで過去の迷惑動画を漁ってさらす時間とエネルギーをこうした問題をなくすことに費やせないのか。
「ペロペロ動画事件」をご記憶の向きも多いだろう。
1月下旬、岐阜県内にある回転寿司チェーン「スシロー」の店舗内で、金髪の少年が、置いてある醤油差しや湯飲みを舐め回してから元に戻す、という動画が拡散され炎上した事件だ。
本連載でも事件直後に紹介したが、英国の新聞までが「スシ・テロリズム」として紹介し、いわばグローバルな騒ぎとなってしまった。
この件で運営会社が、少年を相手取って6700万円の損害賠償請求訴訟を提起していたことが、20日までに分かった。
やはり、こういうことになるか……報道に接して、まずはそう思ったが、矛盾した感想を抱かざるを得なかったことも事実である。
個人感情としては、問題の少年はネットで実名から住所まで晒され、その結果、高校も自主退学して「引きこもり」のようになってしまったと聞くので、すでに十二分と言えるまでの社会的制裁を受けているわけだから、さらに巨額の賠償金は、酷に過ぎないか、と思えた。
しかしながら、運営元である株式会社あきんどスシロー(以下スシロー)が、全店舗の醤油差しを交換せざるを得なくなった上に、一時は客足も遠のいて、巨額の損失を被ったことは事実であるし、なによりも、こうした迷惑行為は、
「単なる悪ふざけでは済まされない、れっきとした犯罪である」
ということを広く知らしめる、いわば一罰百戒の効果を求めたという意味では、よい処置であったとの評価も可能だろう。
ただ、現実の裁判においては、こうした損害賠償請求が満額認められるケースはむしろ稀で、複数の弁護士が見立てを開陳しているが、
「よく取れて2000万円程度、ことによると数百万円」
ということになるらしい。
職業柄、著述家や出版社が名誉毀損で訴えられた案件は割と熱心にフォローしてきた方だが、1000万円の請求に対して裁判所が認めた(支払いを命じた)のは500万円、などということも珍しくない。
また、一部に誤解されている向きもあるようだが、被告の支払い能力が考慮されるということも、現実にはごく稀である。裁判所の責務は、原告と被告の主張をともに吟味して、どちらにより正当性があるかを判断することで、
「高校を中退した未成年者に、数千万もの賠償金を支払う能力があるだろうか」
などということは、関知するところではない。ならば親が支払うべきか、という話にもなりがちだが、民事裁判において親の監督責任が問われるのは、一般に子供が12歳未満の場合に限られているようだ。逆に、親が支払ったような場合も、形式的には被告から取り立てたことになるが。
いずれにせよ、くだんの少年は「人生終了」とまでは行かないにせよ、後悔先に立たず、では済まされない程の目に遭うのだろう。自業自得と言ってしまえばそれまでだが、私としては、撮影し拡散した人物がいるわけで、そちらにはなんのペナルティも科されないのは、やはり納得しかねる。
こうした意見を開陳すると、
「どうして加害者の人権にばかり目を向けるのか」
「海外だったら、もっと多額の請求がなされたはず」
といった反論にさらされがちなのだが、それこそまさに、私が問題にしたい点なのだ。とりわけ後者の論点について、そうである。
よく知られる通り、米国は訴訟社会で、中には(少なくとも日本人の感覚では)わけが分からない訴訟も提起される。
有名なのは、片田舎の婦人が、雨に濡れた猫を乾かしてあげようと、電子レンジに入れてチンした、と。もちろん猫は他界してしまった。すると夫人は激怒し、
「電子レンジのマニュアル(取扱説明書)に、猫をチンしてはいけない、と書かれていなかった」
として製造元を相手取り、巨額の賠償請求を求めた。
……実はこれ都市伝説で、そうした訴訟の記録はなく、PL法(製造物責任法)を揶揄したブラックジョークが、あたかも事実のように人口に膾炙したものと見る向きが多い。
ただ、マクドナルドのドライブスルーで受け取ったコーヒーを誤ってこぼした男性が、
「コーヒーが熱すぎたせいでやけどをした」
と訴え、賠償金を勝ち取った例は本当にある。
こうした訴訟社会そのものを皮肉った都市伝説もあって、
「米国のスーパーでは、入り口が濡れていてお婆さんが滑って転んだりしたら、セキュリティ(警備員)と名刺を持った弁護士が競争で駆け寄ってくる」
などと言われる。セキュリティが助け起こすよりも早く名刺を渡して、
「このスーパーを訴えるべきです」
とやればカネになる、というわけだ。
日本のネット社会に話を戻すと、最近はまた、家族ユーチューバーとか中学生インフルエンサーと呼ばれている人の動画が、物議を醸している。
3年前に、家族がスシローで食事をしている動画を上げたのだが(なにが面白いのだ?)、その背景に、当時2歳の男の子が、蓋の閉まった醤油差しを舐め回す場面が映り込んでいた。
これが「ペロペロ幼児」などと呼ばれて炎上し、さらには、母親がレストランのボックス席で幼児のオムツ替えをしている動画も拡散した。
要するにこの家族は、公共心というものを持ち合わせていないようだ、とは思う。
もっぱらこういった、過去の不謹慎動画を探し出して拡散する人たちは「ネット警察」と呼ばれているらしいが、ネット社会でも現実社会でも「警察」による監視があまり行き過ぎると、やはり住みにくい世の中になってしまうのではないか。
ここまで読まれた方には、動画を拡散した者がなんのペナルティも受けないのは納得行かないと述べた私の真意が、多少なりとも伝わったであろうか。
もうひとつの、加害者の人権ばかり守ろうとするのか、という点についてはどうか。
これは非常にポピュラーな議論なのだが、そうした議論に向き合うたびに私が思い浮かべるのは、20世紀の終わりごとに英国の首相を務めたトニー・ブレアの言葉だ。
当時は野党であった保守党から、
「労働党政権は、犯罪者の人権ばかりを守ろうとする」
と非難された際に、彼はこう切り返した。
「政治とは、犯罪に対しても厳しく、犯罪の原因に対しても厳しくあらねばならない」
ここで言う政治をジャーナリズムに置き換えたならば、今次の迷惑動画の問題についても、また違う視点が得られるのではないだろうか。
スシローで少年がやらかしたことは、たしかに悪い。賠償請求に値する。私もそう思う。
とは言え、この少年一人を「人生終了」などと晒しものにしてよしとするのは、少し違うように思えてならない。
ネットで過去の迷惑動画を漁ってさらす時間とエネルギーの一部なりとも、どうすればこうした問題をなくしてゆくことができるか、と考えることに費やせないのか。
今さら遅いかも知れないが、全てのネットユーザーに、今一度考えて欲しいのである。
トップ写真:回転寿司屋(イメージ)出典:Alexander Spatari/Getty Imeges
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この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト
1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。