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.社会  投稿日:2024/1/7

脱北のリアルを知る ドキュメンタリー映画「ビヨンド・ユートピア 脱北」で知る北朝鮮


中川真知子(ライター/インタビューアー)

「中川真知子のシネマ進行」

【まとめ】

映画『ビヨンド・ユートピア 脱北』は5人家族を脱北させる様子を追ったドキュメンタリー。

・脱北者を支援したのは、韓国のキム牧師と50人ものブローカー。

・北朝鮮のことを知るためにも見てみたい映画のひとつ。

 

脱北。

たった2文字で表せるこの言葉の重みを私たちは理解しているだろうか。

北朝鮮を離れる「脱北」という言葉には、1万2000キロメートル移動し、道なき道を歩みながら4つの国境を越え、ブローカーに然るべき金額を払い、幾度となく命の危険を感じて眠れぬ夜を過ごすといった意味が含まれる。

北朝鮮は韓国と隣り合わせの国だが、国境付近には200万個の地雷と厳しい監視の目が光っているため、このようなルートを辿らなければならないのだ。失敗すれば北朝鮮に送り返されて、激しい拷問を受け、ときに命を落とす。

だが、こうやって書いてもその過酷さや悲惨さは想像できないかもしれない。だから見てほしいのだ。1月12日に公開されるドキュメンタリー映画『ビヨンド・ユートピア 脱北』を。

2023年のサンダンス映画祭で、開催直前までその存在を明かされなかった本作は、上映されると会場を圧倒した。それもそのはず。そこに映し出されていたのは、私たちがこれまでに目にしたことのないリアルな北朝鮮の姿であり、想像を超える悲惨さと恐怖だったのだから。

Japan In-depthは、本ドキュメンタリーの主役であり、これまでに1000人以上の脱北者の手助けをしてきたキム牧師の来日イベントに参加し、貴重な話を聞いた。

■死にたくない、と涙する子ども

▲写真 脱北者家族の子供 © TGW7N, LLC 2023 All Rights Reserved

『ビヨンド・ユートピア 脱北』は、5人家族を脱北させる様子を追ったドキュメンタリーだ。親戚が脱北した結果、当局にマークされてしまった一家は身の危険を感じて脱北せざるを得なかった。彼らの命は風前の灯で、脱北が成功するか否かは、韓国で脱北支援をするキム牧師と50人ものブローカーにかかっている。

老婆と幼い子ども2人を含むロ一家の場合、脱北が成功する確率は極めて低い。大人数で行動すれば目立ってしまうし、国境を4つも超えるには体力や忍耐力が試されるからだ。リスクが高すぎるために誰も手を差し伸べたがらない。だが、キム牧師は自らの命を危険に晒してまで、彼らを支援した。

▲写真 脱北した老婆と幼い子ども2人を含むロ一家 © TGW7N, LLC 2023 All Rights Reserved

キム牧師が支援してくれるからといって、ロ一家の脱北が容易になるわけではない。中国やベトナム、ラオスは脱北者を難民とは認めないために、見つかれば北朝鮮へ強制送還されてしまう。いつどこで計画がバレたり、ブローカーに裏切られたりするかわからない。一刻も早く、韓国への入国が確約されるタイに到着しなければ、最悪の場合、殺されてしまうかもしれないのだ。

事実、子どもは「死にたくない」と怯えながら涙を流す。幼い頃から授業の一環で粛清の現場を見せられている子どもにとって、「死ぬ」や「殺す」といった言葉は比喩や誇張表現ではない。ロ一家は、ただひたすら生きたいだけだ。怯えることなく、温かい布団の中で目を瞑り、朝日を浴びて体を起こし、食べ物を口に頬張る。そんなささやかな幸せを噛み締めて家族で笑いたいのだ。そのために、一家は韓国を目指す。

■脱北に成功したロ一家と失敗したリ・ソヨンの息子

最終的に、ロ一家はタイに到着し、韓国へと亡命を果たす。だが、『ビヨンド・ユートピア 脱北』にはもう一つの悲しい人生も描かれている。それが、息子を北朝鮮に残してひとりで亡命した母親 リ・ソヨンの物語だ。

▲写真 息子を北朝鮮に残してひとりで亡命した母親 リ・ソヨン © TGW7N, LLC 2023 All Rights Reserved

ソヨンの息子も脱北を試みるが、中国でブローカーの裏切りにあい、当局に通報されてしまったのだ。最悪の場合、北朝鮮の強制収容所に収監されることとなる。ソヨンの嘆きと悲しみが画面いっぱいに映し出される。ただ、生きて会いたいという願いさえ叶わない現実を突きつけられ、試写会場がシンと静まり返る。時折、鼻を啜るような音すら聞こえた。 

■脱北が何たるかを収めたカメラたち

▲写真 子を背負い険しい山道を進む脱北者 © TGW7N, LLC 2023 All Rights Reserved

脱北者の経験を綴った作品はこれまでにも作られてきた。だが、それらは脱北に成功して、ある程度落ち着いた人々によるものばかりだ。『ビヨンド・ユートピア 脱北』が他と異なるのは、リアルな脱北を追っていること。そのためには状況に応じて様々なカメラが使い分けられた。

▲写真 インタビューを受ける脱北者 © TGW7N, LLC 2023 All Rights Reserved

ブローカーや農家はiPhoneや折りたたみ式携帯電話のカメラを使用し、韓国ベトナム、ラオスではSony A73SとSony FS7を使用して撮影されたという。また、ジャングルを道なき道を進むシーンではより頑丈なビデオカメラを採用し、身の安全が保障された韓国では、パナソニック Lumixで撮影したそうだ。

▲写真 脱北者ら © TGW7N, LLC 2023 All Rights Reserved

それらのカメラには、ロ一家の過酷な旅の様子だけでなく、複雑な心の揺らぎが収められている。北朝鮮で教育を受けてきた人々は、北朝鮮が楽園だと信じ、金日成の一族を崇めている。また、外国、とくにアメリカを敵視するように教え込まれているために、手を差し伸べようとする人たちを警戒してしまうのだ。リスクを犯してまで離れなければならないほど追い詰められているのに、祖国に残してきた親戚やペット、近所の人々を考えると胸が苦しくなる。そこには祖国を捨てる難しさが映し出されている。

■脱北のリアルを世の中に伝えるリスクと使命

▲写真 キム・ソンウン牧師 © TGW7N, LLC 2023 All Rights Reserved

キム牧師を迎えたトークショーでは、コロナ禍により中国の水際対策が強化されたことで脱北がほぼ不可能になってしまったことや、今後の脱北支援の重要性などが語られた。

筆者は、キム牧師に脱北支援をすることで身の危険はないのか質問してみた。というのも、キム牧師は中国当局から目をつけられており、これまでにも脱北者のふりをして携帯電話に探りを入れられることがあるというのだ。

「わたしも人間なので怖くないといったら嘘になります。しかし『助けてくれ』と言われたら牧師として放っておけません。脱北の途中で人身売買されていく人や命を落とす人がいます。そういった地獄を目の当たりにすると助けないわけにはいかないのです」。

この作品を作ったことで、キム牧師に対する中国当局の監視がより厳しくなったり、北朝鮮からの圧力が出てきたりするのかも聞きたかったが、残念ながら時間がなくて叶わなかった。

日本にとって北朝鮮は決して遠い国ではない。脱北者も増えるだろうと言われている。だからこそ、私たちは『ビヨンド・ユートピア 脱北』をみて、北朝鮮のことを知る必要があるのではないだろうか。少なくとも、決して忘れられない1本になることは間違いない。

ビヨンド・ユートピア 脱北」2024年1月12日(金)TOHOシネマズ シャンテ、シネ・リーブル池袋ほか全国公開

▲図 「ビヨンド・ユートピア 脱北」ポスター © TGW7N, LLC 2023 All Rights Reserved

トップ写真:インタビューに答えるキム・ソンウン牧師 撮影:中川真知子




この記事を書いた人
中川真知子ライター・インタビュアー

1981年生まれ。神奈川県出身。アメリカ留学中に映画学を学んだのち、アメリカ/日本/オーストラリアの映画制作スタジオにてプロデューサーアシスタントやプロダクションコーディネーターを経験。2007年より翻訳家/ライターとしてオーストラリア、アメリカ、マレーシアを拠点に活動し、2018年に帰国。映画を通して社会の流れを読み取るコラムを得意とする。

中川真知子

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