赤狩りと恐怖の均衡について(下)「核のない世界」を諦めない その5
林信吾の「西方見聞録」
【まとめ】
・1955年7月9日、「ラッセル=アインシュタイン宣言」が発表された。
・キューバ危機において「恐怖の均衡」は最初から存在せず、むしろ「不均衡」が危機の引き金になった。
・核戦争に対する抑止力とは「恐怖の均衡」ではなく、政治指導者たちの理性。
1955年7月9日、英国ロンドンにおいて「ラッセル=アインシュタイン宣言」が発表された。
英国の哲学者バートランド・ラッセルと、前回も紹介した米国の物理学者アルベルト・アインシュタインが共同で起草し、発表に際しては世界中の高名な科学者11名が署名した。その中には、日本人として初めてノーベル賞を受賞した湯川秀樹の名前もある。
実はアインシュタイン自身は、発表からさかのぼること約3ヶ月、同年4月17日に世を去っており(享年76)、11日に起草されたこの宣言について、人類に向けての遺言であると受け取る人も多い。
内容をかいつまんで述べると、広島・長崎に投下された原子爆弾よりも数千倍強力な水素爆弾の開発競争が始まっていることを広く知らしめ、核兵器の使用だけではなく、紛争解決のために軍事力を用いること自体を禁止すべきこと、そして、科学技術は平和目的にのみ利用されるべきである、としている。
この宣言に呼応して、1957年7月7日、カナダの片田舎であるバグウォッシュに10カ国22人の科学者が集まり、核問題を討議した。これが有名な「バグウォッシュ会議」で、以降、ほぼ毎年開催されているが、名称は最初の開催地のそれを踏襲している。
1995年には、この会議に対してノーベル平和賞が授与されたが、会議が回を重ねるごとに、核兵器廃絶を求める世論が高まっていったわけではなく、むしろ逆に近かった。
まず、当初は核兵器の存在自体を「絶対悪」と規定していたのだが、一部の学者は、米国の核実験に対しては痛烈な批判を加えるのに、ソ連邦の核実験にはそれほどでもない、という態度をとるようになった。これでは大衆的な支持を得られるはずもない。
日本から参加した学者も、こうした一部参加者たちの態度に業を煮やして「京都会議」を立ち上げたほどである。
このように述べると、赤狩りは結局正しかった(少なくとも、やむを得なかった)のでは、と考える向きもあるやも知れぬが、私は同調しかねる。
まず、米国の核実験ばかりを批判した学者がいたことは事実だが、そもそも彼らは、帝政ロシア支配下のポーランドなどから亡命したユダヤ系の学者たちで、共産主義と言うより、帝政ロシアとナチス・ドイツを打ち負かしたソ連邦に対してシンパシーを抱いていたに過ぎない。
大体、本シリーズでもすでに見たが、赤狩りの実態などいい加減きわまるもので、ソ連邦崩壊後に暴露された秘密文書によれば、本物のスパイ=諜報機関のメンバーは、ただの一人も摘発されなかった。
それよりなにより、バグウォッシュ会議が早々に迷走してしまった最大の理由は、核抑止論が力を得てきたことである。
米ソ両陣営が同等の核戦力を持つことは、むしろ戦争抑止力になり得る、という考え方で、具体的にどういうことかと言うと、米ソのいずれかが核兵器による先制攻撃を行っても、相手方に核による反撃能力が残れば、最終的には相撃ち共倒れとならざるを得ない。
こちらが核を使えば相手も使う、という恐怖こそ開戦を躊躇させる最大の力だ、というわけで、別名「恐怖の均衡」とも呼ばれる。
わが国においても、核武装論をとなえる人たちが書いたものを読んでみると、大半がこの恐怖の均衡を信奉し、核抑止論こそが国防理論の王道だとの信念が窺える。
典型的な例が、キューバ危機の総括だろう。
1962年10月14日、キューバ上空を偵察し飛行していた米軍のスパイ機が、ミサイル基地を発見。CIA(中央情報局)は写真の解析や諜報活動の結果、ここには米国の主要都市の大半を射程に収める核ミサイルが配備されているとの報告書が、16日付でホワイトハウスに提出された。時の大統領は当選間もないジョン・F・ケネディである。
さかのぼること3年、1959年1月にフィディル・カストロ、エルネスト〈チェ〉ゲバラらに指導されたキューバ革命軍は、フルヘンシオ・バティスタを首班とする親米軍事独裁政権を打倒。革命政府の樹立に成功した。
カストロは当初「全方位外交」を目指し、訪米して革命政府の承認を求めたりもしたが、当時のアイゼンハワー大統領は、にべもなく拒否。彼らからすれば「合衆国の裏庭」であるカリブ海に、反米左翼的な政権が樹立されるなど、あり得ない話だったのである。
副大統領リチャード・ニクソンの進言を受けて、亡命キューバ人から成る「解放軍」を組織し、敵前上陸させる作戦まで実行された(ピッグスワン事件。1961年4月)。
この作戦は、同年1月に大統領に就任したケネディが、正規軍の介入を拒否したこともあって完全な失敗に終わったが、彼はただちにキューバに対する経済制裁を実施し、両国の関係は、幾度か改善の兆しは見られたものの、現在も冷戦構造を引きずったままだ。
このような背景から、当時のソ連邦共産党議長ニキータ・フルシチョフはキューバに核ミサイルを配備するとの決断を下すに至ったとされる。
表向き「キューバ防衛のため」だとされていたが、実際には当時、核戦力のバランスは米国側に大きく傾いており、この状況を覆そうとした、というのが真相であろうと考える人が前々から多い。
なによりも、米国が西欧やトルコに配備したミサイルは、短時間のうちにソ連邦の主要都市に到達する。これと同じ状況を作り出すためには、キューバにミサイルを配備するのが最善策であろう。
話を戻して、キューバに核ミサイルが配備されたことを知ったケネディは、ただちに海上封鎖を実施し、米ソ両国は全面核戦争の一歩手前まで行った、とされている。されている、と述べたのは、どこまで本気で戦争を想定していたか「諸説」ありなのだが、まあ、人の心の中までは分からないので、結論は出ないであろう。
最終的には、ケネディとフルシチョフは戦争回避で一致し、米国がトルコ、ソ連邦がキューバから、それぞれ核ミサイルを撤去することを、それぞれラジオ放送を通じて公表した。10月28日のことである。この日をもってキューバ危機は収束した。
お分かりだろうか。
キューバ危機において「恐怖の均衡」は最初から存在せず、むしろ「不均衡」が危機の引き金になったことは明らかである。
危機が収束された理由も然りで、当時の米ソ両国の首脳が怖れたのは、相手方の核戦力よりもむしろ「誤算の結果として核戦争が引き起こされる事態」であった。このことは、危機収束後、ホワイトハウスとクレムリン宮殿との間に直通電話(世に言うホットライン)が設置され、両国の首脳が直接話し合うことが可能になったという事実によって証明されるであろう。
核戦争に対する抑止力とは「恐怖の均衡」ではなく、ひとえに政治指導者たちの理性である。これを常識として皆が共有するようになってこそ、核廃絶への道が開けてゆくものであると、私は考える。
トップ写真:テレビ演説で国民に向けキューバの戦略的封鎖と、ミサイル制裁についてのソ連への警告について語るジョン・F・ケネディ米大統領(1962年10月24日 アメリカ・ワシントンDC)出典:Photo by Getty Images
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この記事を書いた人
林信吾作家・ジャーナリスト
1958年東京生まれ。神奈川大学中退。1983年より10年間、英国ロンドン在住。現地発行週刊日本語新聞の編集・発行に携わる。また『地球の歩き方・ロンドン編』の企画・執筆の中心となる。帰国後はフリーで活躍を続け、著書50冊以上。ヨーロッパ事情から政治・軍事・歴史・サッカーまで、引き出しの多さで知られる。少林寺拳法5段。