W杯躍進の源流:大瀧監督の教えと医療界の課題
執筆者:上昌広(医療ガバナンス研究所理事長)
【本稿のポイント】
・ワールドカップ・チュニジア戦に勝利した日本代表のコーチ・名波浩氏は、東日本大震災直後に被災地・相馬の支援に駆け付けたサッカー関係者の一人だった。
・清水商業(現・清水桜が丘)の名将・大瀧雅良監督は「サッカー選手である前に立派な社会人になってほしい」という哲学で、名波浩氏ら多くの日本代表選手を育てた。
・厳しい競争と人間力が問われるサッカー界の姿勢は、責任の所在が曖昧になりがちな医療界とは対照的に映る。
ワールドカップで日本代表が快進撃を続けている。そのコーチを務める名波浩氏は、東日本大震災直後の福島・相馬支援に駆け付けたサッカー関係者の一人だった――律儀で誠実な姿勢が問われ続けるサッカー界と、責任が曖昧になりがちな医療界の対比を、医療ガバナンス研究所理事長の上昌広氏が震災時の記憶から綴る。(Japan In-depth編集部)
■名波浩コーチは、震災直後の相馬で何をしていたか
サッカーワールドカップが盛り上がっている。日本代表はチュニジアに勝利し、決勝トーナメント進出に大きく前進した。
今回の代表チームでコーチを務めるのが名波浩氏だ。東日本大震災直後、私は名波氏をはじめ多くのサッカー関係者に支援いただいた。当時と比べ、日本サッカーは飛躍的に成長した。その背景には、彼らの優れた人間性がある。本稿で紹介したい。
■名将・大瀧雅良監督との出会いはいつだったか
舞台は2011年7月17日、相馬市光陽サッカー場で開催された「取り戻せ!元気な相馬サッカー大会」だ。目玉は、清水商業高校(静岡県)と相馬高校の交流試合、そして清水商業OBによるサッカー教室だった。名波氏をはじめ、10人を超えるJリーガーが相馬に駆け付けた。
きっかけは、大瀧雅良・清水商業サッカー部監督(当時)の御厚意だった。大瀧監督は清水商業の黄金時代を築き、多くのJリーガーや日本代表選手を育てた名将である。
三島市在住のスポーツトレーナー、藤田義行氏の紹介で、私は15年ほど前に大瀧監督と知り合った。以来、交流が続いていた。
初めてお会いしたのは東京大学医科学研究所のキャンパスだった。ご家族の病気について相談したいと、清水市のご自宅から車を運転して来られた。
その存在感に圧倒されたことを今も覚えている。同時に、その誠実なお人柄に強く惹かれた。「お忙しい先生に時間を取らせてしまい申し訳ない」と繰り返し気遣われ、こちらが恐縮するほど丁重に話をされた。大したお役にも立てなかったにもかかわらず、何度も礼を述べて帰路につかれた。
名将と呼ばれる人物が、これほど謙虚で礼節を重んじるのか。私は、深い感銘を受けた。
■なぜ清水商業の選手たちは試合中も追い詰められていたのか
東日本大震災後、ご縁があって私が福島県相馬地方の支援に携わるようになると、藤田氏から「何かできることはないでしょうか」と連絡をいただいた。そして、「大瀧監督にお願いしてみましょう」と話が進み、相馬高校と清水商業の交流試合が実現した。名波浩氏をはじめ、大瀧監督の教え子である多くのJリーガーも駆け付けた。

写真:左から大瀧監督、筆者、藤田氏 (筆者提供)
試合は9―0で清水商業の圧勝だった。結果だけを見れば予想通りだ。ただ、実際に間近で観戦した印象は少し違った。前半は3―0。相馬高校がボールを奪う場面も少なくなく、一方的な展開ではなかった。差が開いたのは後半で、両校のスタミナや選手層の違いが表れたのだろう。
しかし、私が驚いたのは別の点だった。試合が進むにつれ、むしろ清水商業の選手たちの方が追い詰められているように見えたのだ。後半になってもベンチからは絶えずプレッシャーがかかる。相手ボールであっても激しく追い、少しでも動きが緩むと「どうする!」「それでいいのか!」と厳しい声が飛ぶ。
後で関係者から理由を聞いた。この時期は進路を左右する重要な時期で、大学やプロのスカウトも選手たちを見ているという。
大瀧監督は手を抜く選手を使わない。たとえ相馬高校との試合であっても全力を尽くさなければ、次のチャンスはない。清水商業には実力ある選手が数多くおり、代わりはいくらでもいる。清水商業が長年にわたり全国屈指の強豪であり続けてきた背景には、このような厳しくも公正な競争があるのだろう。
■「立派な社会人になってほしい」――大瀧監督の指導哲学とは
さらに翌朝、選手たちは早起きして津波被害を受けた海岸を訪れ、漂着物の清掃に汗を流したという。後日、その理由を尋ねると、大瀧監督は「サッカー選手である前に、一人の立派な社会人になってほしい。自分に何ができるのかを考え、社会に貢献する姿勢を身につけてほしい」と語った。
大瀧監督の主張に異論を挟む人はいないだろう。ただ、言うは易く行うは難い。サッカーのレベルアップには競争が必要だ。同時に一流選手、さらに指導者になるには、人間力が欠かせない。大瀧監督は、このことを自分の後ろ姿で指導してきたのだろう。
■サッカー界の競争は医療界に何を問いかけるか
この姿勢は、医療界とは対照的に映った。当時、相馬には宮下徹也・横浜市立大学附属病院手術部長(当時、現・国際医療福祉大学麻酔科教授)も参加していた。彼は「医師不足の地域ほど、医師は怠慢になりやすく、傲慢にもなる」と語った。問題が起きても、「医師不足のせい」にして責任が曖昧になりやすいからだという。
宮下医師によれば、「自戒の念をこめていうが、その典型例が横浜」らしい。人口約375万人を抱える横浜市に医学部は横浜市立大学しかなく、「よほど大きな問題を起こさない限り、どこかの病院の部長にはなれる」と言う。当時、横浜市大医学部の不祥事が相次いでおり、筆者は妙に納得がいったことを覚えている。実力が問われ続けるサッカー界とは対照的な世界である。
相馬から戻って数週間後、東大医科研の研究室に名波浩氏が訪ねてきた。清水商業サッカー部やOBたちに相馬支援の機会を提供したことへの礼を伝えるためだった。多忙を極める名波氏が時間を調整してまで足を運んでくれたことに、私は驚かされた。その律儀さと誠実さが強く印象に残っている。
あれから15年が過ぎた。日本サッカー界の躍進は、このような先達たちの誠実で地道な努力の積み重ねの上にあるのだろう。心から敬意を表したい。そして、今大会でのさらなる飛躍を期待している。
■よくある質問(FAQ)
Q1. 清水商業高校(現・清水桜が丘高校)とはどんな学校か?
A. 静岡県静岡市清水区にあった公立校で、高校サッカー界の名門。高校サッカー選手権3回、高校総体4回、全日本ユース選手権5回の優勝を誇り、計12度の全国制覇を果たした。2013年4月に庵原高校と統合して清水桜が丘高校となった。風間八宏、藤田俊哉、名波浩、川口能活、小野伸二ら数多くの日本代表選手を輩出した。
Q2. 名波浩氏は現在どんな役職にあるか?
A. 日本サッカー協会(JFA)の発表により、2023年から日本代表(SAMURAI BLUE)のコーチを務めている。1998年フランスワールドカップで背番号10を着用した元日本代表MFで、現役引退後はジュビロ磐田、松本山雅FCで監督を歴任した。
Q3. 大瀧雅良監督の指導哲学とは何か?
A. 1974年から2012年まで清水商業(現・清水桜が丘)のサッカー部監督を務め、「26、27歳でピークを迎えた時に評価される選手を育成する」「一人前の人間を育てる」ことを重視した。本稿で上昌広氏は、大瀧監督が「サッカー選手である前に、一人の立派な社会人になってほしい」と語ったと紹介している。
Q4. 東日本大震災後、相馬地方ではどのような支援活動が行われたのか?
A. 福島県相馬地方では、医療従事者、研究者、スポーツ関係者など多分野の専門家が継続的な支援活動を行った。本稿で紹介された2011年7月17日の「取り戻せ!元気な相馬サッカー大会」もその一つで、清水商業高校と相馬高校の交流試合、清水商業OBによるサッカー教室が開催された。
Q5. 医療ガバナンス研究所とはどんな組織か?
A. 医療制度や医療政策、医療の質向上に関する調査・研究・提言を行うシンクタンク。理事長を務める上昌広氏は東京大学医科学研究所特任教授などを経て、東日本大震災後は福島県相馬地方の医療支援にも携わってきた。
(本稿のポイント、リード、FAQの文責:Japan In-depth編集部)
トップ写真:参加したJリーガーのみなさん。左から3人目が名波選手(筆者提供)
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この記事を書いた人
上昌広医療ガバナンス研究所 理事長
1968年生まれ。兵庫県出身。灘中学校・高等学校を経て、1993年(平成5年)東京大学医学部医学科卒業。東京大学医学部附属病院で内科研修の後、1995年(平成7年)から東京都立駒込病院血液内科医員。1999年(平成11年)、東京大学大学院医学系研究科博士課程修了。専門は血液・腫瘍内科学、真菌感染症学、メディカルネットワーク論、医療ガバナンス論。東京大学医科学研究所特任教授、帝京大学医療情報システム研究センター客員教授。2016年3月東京大学医科学研究所退任、医療ガバナンス研究所設立、理事長就任。

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