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.国際  投稿日:2024/8/27

日中関係の再考その8 むなしい対中友好


古森義久(ジャーナリスト/麗澤大学特別教授)

「古森義久の内外透視」

【まとめ】

・日本と中国とのいまの関係は様変わりし、冷却している。

・日本は1979年から2018年まで、総額約7兆円にのぼるOAを中国政府に行った。

・中国政府が自国民に日本の援助を知らせなかったため、日本への態度を良好にする効果は皆無だった。

 

 日本と中国とのいまの関係はどうみても冷却している。いや対立や衝突という描写がより正確だともいえる。だがこの現状は私が中国に滞在して、報道活動にあたった時期からみると、まったくの様変わりである。私は産経新聞の中国総局長として北京に1998年から2000年末まで駐在した。

 それ以来、24年ほどが過ぎたわけだが、日中関係は激変してしまった。もちろん一夜にして全面的に変わったわけではない。その変化の度合い、そして経緯を示すには、私自身が最前線で体験したころの日中関係の状況を改めて知らせることが有効だと思う。

 日本側は当時、中国に対して友好の最大の実証として巨額の経済援助を与えていた。政府開発援助(OA)である。

 日本は中国が経済面で改革開放のドアを開けた1979年から2018年までに総額約7兆円にのぼる公的資金による援助を中国政府に与えてきた。内訳は外務省が主体の政府開発援助(ODA)が合計約3兆6千億円、旧大蔵省管理の「資源ローン」が計3兆3千億円とほぼ7兆円だった。

 ODAには貸付と贈与の両方があるが、貸付も返済条件は商業貸付と異なり、受け手に極端に有利で、国際的基準での「援助だった。資源ローンも同様である。ここでは日本政府が対中政策の主眼とみなしたODAについて簡単に眺めよう。

 対中ODAの第一の目的は日中友好だとされた。当時の大平正芳首相は「友好」を明言した。援助額が大幅に増えた時期の竹下登首相も「中国人民の心へのアピール」を強調していた。

 だが中国側一般の日本への態度を良好にするという効果は皆無だった。まず中国政府が自国民に日本からの援助の事実を知らせなかったからだ。私の北京在勤中でも日本のODA資金300億円で建設された北京国際空港ターミナルや、同じ200億円で開通した北京地下鉄も大々的な完成式典で貢献団体の名が列挙されながら、日本への言及はゼロだった。中国国民は援助を知らないのだから日本への友好につながるはずがない。

 私は北京に赴任した当時、日本の対中政策の最大支柱のODAは中国側で幅広く認知され、感謝されていると思いこんでいた。その時点で日本の対中ODAはなにしろ20年も続いていたからだ。ところがびっくり、中国側ではだれも日本がそんな巨額の援助を友好のために贈り続けている事実など知らないのだった。日本側の日中友好の官民をあげての大事業は友好という点に関してはなんの効果もあげていなかったのである。

 日中友好という大スローガンの下での日本の政治家の中国訪問も当時は盛んだった。その態度はまさに北京詣でと呼べるほど、中国側に対して卑屈なまでの低姿勢だった。1999年Ⅰ年間に北京に来た日本の国会議員の人数を数えてみたら、延べ170人ほどだった。衆参両院議員全体だと4・4人に1人が北京を訪れたわけだ。文字通りの訪中ラッシュだった。全世界でも日本の政治家がこれほど集中して訪れる外国都市は他に例がなかった。

 日本の選良たちのそんな北京詣でには問題点が多すぎると、当時から私は感じていた。日中関係のゆがみを象徴するようにさえ思えた。「友好」「友好」と唱えることに専念し、現実の日中関係での重要課題に触れない日本の国会議員たちばかりだったからだ。

 北京詣での常連の自民党の野中広務氏ら与党3幹事長が2000年5月末の訪問で中国側首脳と会談した際は、「日中の友好を過去の歴史を踏まえて積みあげていかねばならない」(冬柴鉄三公明党幹事長)とか「日中の友好、協力の増進を3党あげて支えていく」(野田毅保守党幹事長)という種類の発言が大部分だった。

 冬柴氏の発表では江沢民主席との会談で3幹事長が提起した主要テーマは「故小渕恵三首相への江主席の弔意への感謝」「江主席の日中友好に関する重要講話への感謝と評価」「江主席が訪日の際に寄贈したトキ2羽にできた子鳥の命名への意見拝聴」などだった。

 すでに表面化していた中国船の日本水域での活動とか中国の軍事増強、対中援助の効用など日本側からみて気にかかる問題はまったく提起しないのだ。台湾問題も言及なし、しかもあれほど友好を唱えたのに、中国側は野中氏らと同じ時期に北京を訪れ、同じ構内の迎賓館に泊まっていた北朝鮮の金正日労働党総書記の存在はなにも教えてくれなかった。

 以上のように日本の政府もとにかく中国に対しての友好に努め続けたのだ。その姿勢の背後には日本が戦争中、中国に兵を進め、広大な地域を占領していたことへの贖罪の意識が強かったといえる。このことは日本の戦争責任はすでに戦争直後の各地での軍事裁判やその後の対日講和会議で追及され尽くした事実を考えれば、過剰だったともいえよう。だがそれは悪いことではない。

 そもそも戦後の日本側には官民ともに中国との関係を良好しようという強い意思があったのだ。そして日本側がその友好の姿勢を言葉だけでなく行動で示せば、中国側も必ず日本側への友好をみせてくれるという切ない期待があったともいえる。だがこの期待が間違いだった。むなしい願望だったのである。

(その9につづく。その1その2その3その4その5その6その7

トップ写真:北京市内の地下鉄(イメージ)。2021年8月22日。

出典:photo by dk1234/Getty Images




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